先月の半ばに母親の具合がおかしくなり、ずっと実家の町田に帰省していた。
生まれは葛飾柴又ではなく日暮里の下町だが、育ちは東京郊外の町田なのである。
結局、心臓の手術をすることになり、入院中、植木の花に水をやるやつがいないということで、私がしばらく町田で暮らすことになった。
オヤジはすでに亡くなってるし、弟には勤めがある。といってもリモートワークで自宅にいるわけだが、定時までは “勤務” してないといけない。
んなあ、自宅にいるんだからわからんだろ会社には、いてもいなくても…と言ったが、それがわかるらしい。
なして?とよく聞くと、たしかに自宅にいなければならないように工夫されていて、びっくらこいた。
うまくできてるもんだと感心したが、それについてもあーだこーだ言いたいのだが、たぶん長くなるのでやめる。でも、会社にいるほうがよっぽどサボれるなあと思った。
だから実家の花に水をやれるのは私だけなのでしばらく町田にいたのだが、というか病院で急変があったときに駆けつけやすい近場の実家で待機するということだが、ヤバいのはネットの環境がないことだ。
駅からバスで 20 分くらい離れており、近所にフリー WiFi があるような気のきいた店などなく、しょうがないから最低限のメールチェックのためにスマホのテザリングを利用したが、動画検索や YouTube へのコンテンツアップがいつものようにできないので、あきらめた。
いや、母親の心臓がおかしくなったのが急で、最初はどこがおかしいのかもわからなかったくらいだから、実家に泊まり込む準備も不十分だし、手許不如意もあって、仕事の件やら何やら義理あるもろもろへの対応がほぼ絶望的となった……
*
で、毎日、すっかり変貌した実家周辺を散策したり、持ち歩いている書籍を読みながら沈思黙考して過ごした。
盆暮れ正月とはいかないが、一年にいっぺんは実家に帰って一族郎党といっても弟家族と私の家族だけだが、正月にみんなで食事くらいはしていたが、幼稚園児から住んでいる実家周辺の広範囲を今回のようにじっくりと歩き回ったのは、おそらく 40 年ぶりだろう。
いやあ、さすがに驚いたね。変わってしまって。当たり前なのだろうが。
不思議なもので、自分の通った学校の近辺からまずは行ってみたくなるんだね、あれ。
だから、忠生第三小学校の裏っ側の当時は林だか小山の切り通しになっていた坂を降りて境川のほうへ行ったり、町田第三中学校の周辺の昔の友人宅を見て回ったり、山埼団地の当時のスーパー、ピーコックや三徳を見に行ったり、さらにその向こうの七国山のほうまで足を延ばしたり、といいながら今、しまった町田高校に行くのを忘れた!と思い出したが、とにかく思いつくままに毎日ほっつき歩いていたが、地元民でないとまったくわからん情報だなこれは。
その昔、周辺住民の誰もが利用していたパン屋とか八百屋、肉屋、酒屋、本屋、文房具屋などがあった商店街というかアーケードの店舗は錆びれたシャッターが下りており、かろうじて美容院と元薬局が何だかよくわからない店になっているのと、クリーニング屋が残っていた。
へえ、美容院やクリーニング屋ってのは残るんだなと妙に感心したが、団地群の中にはガキの姿がほとんどなく、近くや遠くにぽつりぽつりと年寄りの姿が見えるだけ。朝でも日中でも本当に人気がない。ひとけ、ね。
そして、元八百屋と乾物屋をぶち抜いてデイケア何とかのオフィスができ、葬儀屋の看板が目立ち、聞くところによると火葬場が近所に 4 カ所できたとか。
まさに高齢化社会というか少子化を目の当たりにした感があるが、都下ではどこでもこんななのだろうか。
しかし、団地敷地内の庭の芝や道端の樹木はきれいに剪定され、やたら見晴らしがきいており、よくいえば清潔でクリーンな未来型の住居群ともいえるのだろうが、私のガキのころは、ところどころ鬱蒼としていてかっこうの遊び場というか隠れ家にもなっていたし、芝なんて感じではなく、シロツメクサやオオバコ、ナズナ、モチクサ、ハルジオン、チドメグサなどなど、あっちゃこっちゃに元気よく生えて、ガキどもは遊びながら誰かがケガでもすると「チドメグサ、チドメグサ!」と騒ぎ立て、チドメグサをちぎっては傷口に擦り込んでいたものだ。
このぶんじゃ、コオロギもトカゲももういねえんじゃねえかといぶかしみながら、私は勝手知ったる団地群の中を歩き回り、自分が巨人になったような気がした。
距離感がまったく違う。
ガキのころには、やたら向こうが遠く見え、何というか、歩きでもチャリでもどこへ行くにしても空間が濃密というか、自分の体や周囲にまとわりついているような感じだったが、今やそこらへん一帯がまるでグーグルアースのように俯瞰して見え、というかわかり、団地群やもっと広範囲で移動するにしても数歩というと大げさだが、一足飛びに移動できる感じがするのである。冗談ではなく、こびとの町を闊歩する巨人になったような感覚なのだ。
これも意識のなせるワザであり、要は単純に歳をとったということになるだろうが、意識と空間、意識と時間の関係においてなかなか興味深い体験ができたし、実験もできた。
*
おかげさまで母親の手術は無事に終わり、ようやく自宅に戻ってきたところであり、少しでも記事を更新しておかなければ訪ねてきてくれる方々に申しわけない。
思い返せば、イーロン・マスクのクルードラゴンが打ち上げられたあたりで町田に行ったわけだが、アメリカ人 3 人に日本人がひとり混じり、“ドラゴン” となって宇宙に飛んでったってのはおもしろいねえ。
でまた今度は、同じく先月に中国が打ち上げた無人月面探査機「嫦娥 5 号」が月に軟着陸したという。嫦娥(じょうが)とは “月の女神” のことだ。
昨年、いきなり日本人が中心となったグループによって初めてブラックホールが撮影されたというのも興味深いわけだが、その後の新型コロナウィルスにしても、大騒ぎのアメリカ大統領選にしても、“世界中” が認知しているできごとだ。
基本的に世界のみんなが知っている。
そして、その “意味” をいろんな国でいろんな人々がいろいろと解釈している。
その解釈には、個人的な思い(希望であれ、逃避であれ)が絡み、文化的な要素(宗教であれ、哲学であれ、サブカルであれ)が影響を及ぼしてくるが、もっとも影響を与えてくるのは、マスメディアの情報や、マスメディアに思考の方向を差し向けられてそのまま無批判に乗っかっちゃった人々の高圧的な言動である。
気が弱く、お人よしで、謙虚で、自分なんか……なんて思っている普通の人々は、バカか!あんたは! ◯◯に決まってるだろ!ってな勢いで言われ続けると、何か違うと思うんだがなあ…といった自分の中の声はだんだんか細くなっていき、そうなのかなあ、そうなんだろうなきっと…みたいなことになってしまう。
そうなる原因の一つは、気弱だお人よしだ謙虚だ自信がないといったことよりも、単なる知識不足によるところが大きい。
マスメディアの情報を知ることもいいが、今のご時世いくらでもネットで情報がとれるわけだから、気になることがあればまずは自分でいろいろと調べればいいのである。
で、ああそうか!とか、腹から納得できることがあれば、それがあなたの意見だ。
誰に遠慮することもなく自分の意見として持っていればいいんであって、といって誰かに自分の見解を主張する必要もない。
でも、それが正しいかどうか自信がないの……っても、それでもまずは自分の考えを軸にしていれば途中で、あれ? やっぱ違うかなとか、多少の軌道修正をしなければならないようなさらなる情報に必ず出逢うから、そこでまたああそうか!とか、腹から納得できれば、それでいいのだ。
少なくとも、マスメディアやマスメディアにおかしくされている人たちの意見にはなびかなくなるだろう。
そいう人たちの意見の内容というよりは、いわば思考を乗っとられているような人たちに対する “違和感” としてわかってくるからである。
でも、ああそうか!はいいとして、腹から納得できるとか、腹でわかるってのはわりかし難しいというか、どういうこと?って感じもあるが、それぞれ子ども時代までさかのぼって自分で考えてみれば、たいがい私が言ってることはわかるはずだ。
マスメディアや他人や書籍のような外部から “結論” を教えられて、理性的に論理的に納得するのではなく、内発的に “わかる” という “わかり方” が今後はますます重要なことになってくる。
なぜなら今はまだいいが、これからは政治でも経済でも、生活スタイルでも宗教でも神の概念でも何でも、どう判断していいかわからないことだらけになるからである。
そのときにネットではあーでもないこーでもないと情報が飛び交うわけだが、いちいち一つ一つの情報を検証していくなんてことは追っつかなくなってくるから、“腹でわかる” ことだけをわかればよく、そういう意味で自分にとって “腹でわかる” 媒体、たとえばメールマガジンでもいいし、サイトの記事でもいいし、YouTube 番組でもいいし、誰かそういう人物でもいいから、今からいくつかこさえておくことだ。
私にもそういう媒体がいくつかあり、いつも参考にしながら検証するわけだが、今度紹介しようとも思うが、当の媒体主に迷惑がられたらどうしよう……
ともかく、そうすればあっちゃこっちゃの情報を探し回らなくても、いくつか腹で信頼できるという表現があるかどうかわからないが、そういう媒体をチェックして気になる案件があれば媒体の主に質問したり、さらにはほかの媒体で調べればいい。
んなこたあ当たり前で、今さらお前に言われることでもないと言われるかもしれないが、だいたいは “頭でわかる” 情報が主体となっているだろうと思うのだ。
腹でわかるということは腑に落ちるということとも違って、いわば自分の体というと物質的なイメージが強いからあれだが、自分の存在の根底からわかるというとますます大仰で困ったことになったが、要するに “体験” に近い。
本当に “わかる” ということは、普通に日常を送る中で失敗したり成功したり、いい思いをしたり痛い目を見たりしながら自然に会得するような、身体の内・外を含む三次元的な感覚を通して得る認識・理解なのである。
だから、そういう意味でわからないと今の世の中、つまり三次元の世界で何が起きているのかがわからず、これからどこへ前進しようか、さらには超えていこうかという選択ができなくなる。
腹でわかった判断力を働かせないからだ。
そもそも “腹” は大事であり、昔の人は腹を割って話すとか、腹が据わるとか、腹を決めるとか、重要っぽいときによく使っていた。
喜怒哀楽ってなくらいで、人間の感情の中でも喜びや怒りは強い反応だろうが、喜び楽しみでいえば、腹を抱えて笑うといった表現があるし、怒りでは腹が立つと言った。
この怒りに関しては、前にも書いたかもしれないが、もともとは腹が立つという表現が一般的であり、70 年代くらいまでの映画やドラマでもほとんど、「俺は腹が立ってしょうがなかったんだ」みたいなことを言っていた。
それが 80 年代に入ってってちょっといいかげんに言ってるが、でもそのあたりから「あいつムカツク!」となって怒りが腹から “胸” に行き、90 年代になると(これもテキトーだが)「それ以上言うと、キレるよ、俺」と “頭” に上った。
もっとも頭に関しては、「俺は頭にきたぜ!」とか「もうアイツったら、頭にきちゃう♡」といった言い方が昔からあるにはあったが、腹が立つとかムカツクとかキレるといった深刻っぽい怒りよりは、ちょっとカチンとくるくらいのニュアンスかと思う。
……何の話かわからなくなってきたが、要するに腹の感覚は大事であり、これからは頭のあーだこーだももちろん必要だが、腹を据えて腹を括っていかないと、やがてやってくるドンガラガッタンを大げさなものとして見あやまるということだ。
*
先にも書いたが、昨年のブラックホールの撮影の件にしても、私なんかは「 M87 銀河」ということでご多分にもれず『ウルトラマン』の M78 星雲をまっさきに思い浮かべたクチで、そもそも M78 星雲は当初の企画では M87 星雲だったわけだから、こりゃ正義の味方の世が明けたってんで大喜びし、ブログにも書いたくらいなのだが、世界の事象に対する個人の解釈はさまざまなのである。
昨年でいえば、探査機「はやぶさ 2 」が小惑星「リュウグウ」へ着陸したことも報道され、またもや私のような者にしてみれば、ハヤブサといえばエジプトの太陽神ラーの頭であり、ラーといえば『 RA 文書』なのであり、実際、第 6 密度の社会的記憶複合体である RA はあのラーは自分たちのことだと言ってるわけだ。
その RA じゃなかったはやぶさ 2 がリュウグウから今、帰還してるわけだが、小惑星リュウグウはもちろん「竜宮」のことであり、はやぶさ 2 がリュウグウで調査したサンプルをカプセルに入れて持ってくるのだから、まさに竜宮から浦島太郎ならぬ RA が玉手箱を持ってこの世に戻ってくるようなものなのである。バカにされそうだが。
その帰還予定日は今月の 6 日だから、こりゃまた話題になるだろう。
だから、昨年の 4 月に M87 銀河でブラックホールが初めてビジュアル化され、5 月に元号が令和となり、10 月にはやぶさ 2 がリュウグウに着陸し、今年 11 月に “民間” 初の宇宙船クルードラゴンが打ち上げられた。
この一連のことにはすべて日本人がかかわっている。
同じく先月 11 月に打ち上げられた中国の無人月面探査機「嫦娥 5 号」つまり月の女神も、12 月 1 日に月面に軟着陸したが、昨年も「嫦娥 4 号」が月の裏側に軟着陸している。
探査機は着陸してサンプルを回収して無事帰還することが最大の使命であり、また最高に難易度が高いのだが、中国も今回初めて月面探査において挑戦するわけだ。
そして、ひと足早く、日本のはやぶさ 2 は “玉手箱” を持って 12 月 6 日に帰還する予定だが、まだ成功するかどうかはわからない。
誤解されるといけないので言うと、私は “日本人” がすごいとかどうとか言いたいのではもちろんなく、先ほど来言っている “解釈” として、こうした一連の流れに “意味” を見出すことができるから興味深いということなのである。
世の中で起こる事象に何でもかんでも我田引水に意味づけする人たちはたくさんおり、私もそのひとりだろうが、昨年からこれまでの宇宙に関連する出来事は、『 RA 文書』の RA の伝えることと、『日月神示』『火水伝文』『金神の艮の文』で国常立神が伝えることを思うとき、震撼とせざるをえないのだ。
簡単にいえば、RA が説明する「一なる創造主」の創造のプロセスの第 3 密度的な視覚化と、国常立神が伝える◯にゝが入るということに関することだ。
どうやら、本格的に時空と私たちの意識の関係が表面化しだしたようである。
途中になっている映画『ジョン・ウィック』シリーズに関する記事でも、書きたいことはつまるところ同じであり、単なるゴロ合わせとか偶然、こじつけではすまされない啓示というと大仰かもしれないから伝達くらいでもいいが、事象・現象とその解釈に関しては、かなり知的な作業を要するということだ。
ああ、もうこんな時間か、また続きを書く。
Commentコメント
西塚裕一様
う~ん、とてもいいですね。
「でも、それが正しいかどうか自信がないの……っても、それでもまずは自分の考えを軸にしていれば途中で、あれ? やっぱ違うかなとか、多少の軌道修正をしなければならないようなさらなる情報に必ず出逢うから、そこでまたああそうか!とか、腹から納得できれば、それでいいのだ。」
「なぜなら今はまだいいが、これからは政治でも経済でも、生活スタイルでも宗教でも神の概念でも何でも、どう判断していいかわからないことだらけになるからである。」
多様な情報の中から、本質的なビジョンを選り分ける、豊かな観察眼による、貴重な予測。思わず、緊張します。
荒波を、全身で乗り越える実体験を積み重ねることで、「自分の存在の根底からわかる」という理解力が養成されていくと思いました。
腹から肚へ、そして丹田へ。
“玉手箱”も、おもしろいです。ふと、「ウラシマ効果」という言葉が、心に浮かびました。2020年の“玉手箱”の中には、バージョン・アップされた一般相対性理論が入っていて、重力、時間、意識について、文字通り、「開けてビックリ玉手箱」の展開になると、おもしろいなあ、と思います。
考えることの醍醐味のひとつ。
「 “解釈” として、こうした一連の流れに “意味” を見出すことができるから興味深い」。
「昨年からこれまでの宇宙に関連する出来事は、『 RA 文書』の RA の伝えることと、『日月神示』『火水伝文』『金神の艮の文』で国常立神が伝えることを思うとき、震撼とせざるをえないのだ。」という文章を読んだ時、私は、「おおっ、話は、ついに佳境に入った!」と胸を躍らせて、続く文章に目を走らせたのですが、しかし、「佳境突入」を告げる文章に到着するまでに、西塚さんの驚異的な集中力によって綴られた文章は、かなりの文字数を費やしていたために、「もしかしたら、あるいは、ひょっとしたら」という私の懸念が的中して、それまでの文字数とは比較にならない短さで『宇宙時代』の記事が終了してしまったので、「震撼」という表現に胸躍らせた読者(わたくしのことであります)は、次の、遙かな近未来のある日に掲載される、新しい記事への、長い、長い道のりを、まだかなあ、まだかなあ、と思いながら旅してついに、ある日、何の予兆もなく忽然と出現する新しい記事に遭遇する喜びに満ちた、一種のサプライズを、そうなのであります五目舎でければな享受させていただくことができない(次の言葉は、今回、「いやあ、ようやく西塚さんは新しいブログの記事を書いてくださったなあ」という喜びに全身を満たされたために思わず勢いがついた私の指先がキーボードを滑りすぎた言葉として、お受けとめいただきたいのですが)甘露の法雨として受容することになるのであります。
(今回は、お母様の看病をされていたのですね。お大事に。)
ところでシニカルなアホ(わたくしのことであります)は脇に置いて「甘露の法雨」から正しくイメージされる、多くの人々の苦悩を取り除き救う仏様の教え、という意味を現代バージョンとして宗門宗派を超えて拡張した《『 RA 文書』の RA の伝えることと、『日月神示』『火水伝文』『金神の艮の文』で国常立神が伝えること》に思いを馳せると、今後、どれほど待たされようと、ひょっとしたら次回の記事において《震撼とせざるをえない》西塚さんの胸中の、実に味わい深い思いをチラッとでも吐露してくださるかもしれないと、興味津々たる思いに満たされるのであります。
さらに「かなり知的な作業」を経て、本質レベルで深く響き合う未完の『ジョン・ウィック』論にも跨がる「伝達」という名の啓示である「本格的に時空と私たちの意識の関係が表面化しだした」ビジョンを読み手と共有するために必要な「事象・現象とその解釈」の醍醐味を驚異的集中力で解き明かしてくださる記事の出現への待機もまた心躍る楽しみとなります。
ところで、(『 RA 文書』を読んでいない私には具体的にイメージできないのですが)《「一なる創造主」の創造のプロセスの第3密度的な視覚化》を、《国常立神が伝える◯にゝが入る》プロセスと同一と見なす視点は、密度シフトが起こっている物質界である地球が、今回の宇宙経綸の最終目的地である、という認識に基ずく解釈と理解していいのでしょうか?
好本様
ポストありがとうございます。
何とも、こそばゆいお言葉が並ぶので、恐縮の行ったり来たりなのですが、褒め◯しでしょうか(笑)。
私も好本さんと同じ探究者というだけですので。
「震撼とせざるをえない」というのは、好本さんもご存じの『盤レポート 0 号』の内容の一部が本格化してきたように感じることと、そこでも取り上げているいくつかの啓示・神示が真実であるということがわかったからです。
ですので、記事で書ける範囲で今後も触れていきます。
最後のご質問、
《「一なる創造主」の創造のプロセスの第3密度的な視覚化》を、《国常立神が伝える◯にゝが入る》プロセスと同一と見なす視点は、密度シフトが起こっている物質界である地球が、今回の宇宙経綸の最終目的地である、という認識に基ずく解釈と理解していいのでしょうか?
についてですが、それぞれ別々に現象化しているというくらいの意味です。
つまり、《「一なる創造主」の創造のプロセスの第3密度的な視覚化》を《国常立神が伝える◯にゝが入る》プロセスと同一と見なしているのではなく、《「一なる創造主」の創造のプロセスの第3密度的な視覚化》が昨年から本格的に、はっきりと目に見える形で現われ出しているということで、また同時に、《国常立神が伝える◯にゝが入る》とはどういうことかについて、これまたはっきりと目に見える形で現われ出しているということです。
わかりにくくてすみません。
それらのことを一回の記事、または分割・連続して書くということは避けて、ある種の切り子面的に書いていこうとしています。というか、これまでもそうしてきたつもりなんですね。どれだけの効果というか益があるのかはわかりませんけれども。
ですので、ちょっと「視点」ということでは、違っているかもしれません。
あと、「密度シフトが起こっている物質界である地球が、今回の宇宙経綸の最終目的地である、という認識」に関しても、言葉の解釈上、確認が必要になってくるようです。
「今回の宇宙経綸」がどういうことを指しているかによって変わってくるからです。
しかしながら、「~である地球が、最終目的地である」という認識は、私にはありません。
今の私にわかっていることは、簡単にいえば、必然的に上昇する螺旋があるとして、ぐるっと回りながら段階を上がっていく存在と、同じ地点をいつまでもぐるぐると回転している存在があるということです。
この「螺旋」とか「段階」とか「存在」、「同じ地点」、「回転」など、それぞれに詳細な注釈をつけないと本当はいけないのですが、コメント欄ではちょっと難しいです。
『盤レポート』の次号か、もしくは別の新媒体で書くつもりですので、またお送りしたり、ご案内しますね。
西塚
いつもブログ拝見しております。とても興味深く楽しみにしております。
ひとつだけ。
以前にも同様に書かれておりましたが、
日本人を中心としたグループがブラックホールの撮像に成功した、というのはあまり正しくはありません。
ブラックホールの撮像に成功したのはEHTという国際チームで、リーダーはアメリカ人、メンバーは多国籍で100人以上おり、
日本人はそのメンバーに過ぎません。
日本国内の偏りのある報道により日本にいるみなさんは誤認識されているようですが、世界の認識は別のところにあります。
この件でノーベル賞にノミネイトされるのは日本人ではありません。
蛇足な指摘申し訳ありません。。。
今春まで海外におり、身近に団体のメンバーがいましたので、帰国して日本国内の報道と認識の間違いに驚いております。
失礼かとは思いましたが指摘させていただきました。
いきなりのコメントで大変失礼いたしました。
中村様
ポストありがとうございます。
貴重なご指摘、感謝します。
たしかに今回の私の記事では、昨年のブラックホールの撮影は、いかにも日本人が中心となって行ない、リードし、そして成功したというふうにとられるような表現になっていました。
しかしながら、ご指摘のように、EHT には 200 人くらい(日本人は 20 人くらい?)の多くの人間が携わっています。そういう意味では、国際チームが一丸となって成し遂げたことであり、日本人が中心になった…という私の記事のニュアンスは誤解を生みますし、さも日本人はスゴイ、エライといったようなイメージにもなりますね。
自分の表現不足、説明不足で、お恥ずかしい限りです。
私自身、小さいころから一を聞いて十を知る的な言動をとっており、ときどきやらかすわけですが、今回もそうかもしれません。
昨年のブラックホールの件については、これまでの個人的な探究テーマにおいても大変興味深い出来事でした。
RA 文書その他、いわゆるスピ系文献の内容や、冥王星の準惑星落ちのような現実的な動きとも関連して、これはいよいよだぞといった考えもあり、多少、言葉不足を自覚しながらも、先の日本人云々の表現を使いました。
実際、今回のブラックホールについは、そもそもおとめ座の M87 銀河の巨大ブラックホールを EHT で観測することになったのは、EHT ジャパンのチームによる研究実績がすでにあり、アルマなどに申請する観測提案書を作成する中心にも日本人が参加し、審査され、許可され、昨年の撮影成功にいたったと聞いております。撮影には画像解析が欠かせないわけですが、その技術開発や実際のオペレーションにも日本人が関与しています。
そして、今回のブラックホールの撮影成功の件だけではなく、まだ記事には書いていませんが、いろいろな日本のサブカル的な現象においても、先のスピ系文献に関連し、やはりこれはただごとではないと思うところがあり、そんなこんなで多少フライング気味に「日本人が中心となったグループ」といった表現になってしまったようです。
反省しております。
自分では、ともかく安易で過剰な日本びいきの輩とだけは思われないようにと、最大限に気を配っているつもりですが、探究すればするほど、どうしても行き着くところは「日本」ですので、ついつい自分の中のどこかに「日本」に対する特別視があるのかもしれません。
いえ、実際に思いっきり特別視はしておりますが、それは日本の文化のことであり、記事にする場合は、「日本語」とか「日本の作品(小説・論文・歌謡・漫画・アニメ・芸能等々)」など対象と論旨を明確にしなければなりませんね。
誤解を避けるためにも、以後、さらに気をつけます。
中村様のようなご指摘はありがたく、またうれしく思いますので、今後もご意見をお聞かせください。
西塚
中村様、西塚様
私も、まったく同感です。
『中村様のようなご指摘はありがたく、またうれしく思いますので、今後もご意見をお聞かせください。』
中村様の、海外に跨がる人脈からもたらされる情報は、とても貴重だと思います。次に、どのようなご意見を述べてくださるのか、とても楽しみです。
ということで、ここからは、今回の表層の話題を離れて、二人の日本人(そして、もっとたくさんの日本人)をコアにした西塚さんの思いの深みに対する類推になります。
今回、中村様がご指摘くださった表層の記述の奥では、「身体の内・外を含む三次元的な感覚を通して得る認識・理解」を深める西塚さんご自身の実践レポートが記述されていたと思います。
「イーロン・マスクのクルードラゴン」に参加していた日本人と、「初めてブラックホールが撮影された」偉業に参加していた日本人。
二つの宇宙に関わる大きな出来事に、共に日本人が参加しており、その現象は、「“世界中”が認知している」出来事。
そうであるが故に、「その“意味”をいろんな国でいろんな人々がいろいろと解釈している」。
その世界でのいろんな解釈に、二つの宇宙に関わる大きな出来事に共に日本人が参加していたことを視野に収めたものがもしあって、その考察の全体が、今、そしてこれからの旅に有意義な意味を見出そうとする考察であれば、それは、二人の日本人を越えた日本文化の有意性を照らし出す可能性がある、ということに西塚さんの直観が働いていたと私個人は受けとめました。
その可能性に意識を向ける心の働きが、表層レベルでは中村様からのご指摘をいただく契機ともなった記述でありながら、その可能性については大枠で光を当てておられるように感じます。
『誤解されるといけないので言うと、私は “日本人” がすごいとかどうとか言いたいのではもちろんなく、先ほど来言っている “解釈” として、こうした一連の流れに “意味” を見出すことができるから興味深いということなのである。』
その興味深さは、意味を見出す探究の深まりにおいて、『そういう意味でわからないと今の世の中、つまり三次元の世界で何が起きているのかがわからず、これからどこへ前進しようか、さらには超えていこうかという選択ができなくなる』ことを回避して前に進む力を獲得できる点にあると思います。
前に進む以上、ご縁のある方と共に進むのでありながら、その力は、共に進むに当たって自己主張の軋轢は生まないし、かといって日和見主義に揺られるのでもなく周囲に遠慮しない自分の歩みは確保する力だと思います。
つまり、その“解釈”は、「誰に遠慮することもなく自分の意見として持っていればいいんであって、といって誰かに自分の見解を主張する必要もない」。
これは、共に旅をする旅人へのエールだと思います。
そのような「自分の意見」を持つことは、これからの旅においては、「内発的に “わかる” という “わかり方” が今後はますます重要なことになってくる」ので、その重要なエールを、西塚さんは、読者の皆様に、ご自身の実践的記述を通して提示しておられると思いました。
ご多忙なあまり、内発的な“わかり方”への言及が文化論を踏まえて補完されずに終わると、すかさず、直接そこには触れないものの中村様の貴重なご指摘が持つ表層の認識を新たにする働きかけが素早く為されて、当然、それは表層を含む全体に対して為されている以上、自然に西塚さんに補完されずに終わった「深みを照らす」言及をさらりと促す結果にもなっていて、お二人のやりとりは、とてもいいコラボレーションだなあと思いました。
『実際に思いっきり特別視はしておりますが、それは日本の文化のことであり、記事にする場合は、「日本語」とか「日本の作品(小説・論文・歌謡・漫画・アニメ・芸能等々)」など対象と論旨を明確にしなければなりませんね。』
普遍性のある日本文化の特性が、(次の言及は、ちょっとスケールが大きくなりますが、普遍性の重要性は、全地球的な働きかけを志向しますので、躊躇なく述べさせていただきますと)地球文明の進化と、その成果をお互いが愉快に楽しみ合うことを願いつつ、慎重に語られてほしいと思います。
私は、中村様のいきなりのコメントを、大変楽しませていただきました。ありがとうございました。
また、西塚さんのご返事には、私には大いに欠けている「腰の低さ」があり、拝読していて、素晴らしいなあと思いましたので、(前回、西塚さんが用いておられた言葉をそのまま用いさせていただきますが)褒め○し第二弾として、次のように思いました。(まあ、気楽なユーモアとして、お楽しみください。)
「腰の低さ」と「懐の深さ」は、正比例する。
(尚、ブラックホールということでは、もちろん素人レベルの関心ですが、マルダセナ予想が、とても気になります。)
好本様
ポストありがとうございます。
いやあ、参りましたね、これは……
もはや私がくどく謙遜するのも方向がずれてきそうなのでよしますが、以下の部分、
>また、西塚さんのご返事には、私には大いに欠けている「腰の低さ」があり、
云々に関してひと言だけ申し上げれば、私は決して腰が低いわけではなく、どちらかと言えばすぐに鼻が高くなるタチであり、よく言っても慇懃無礼なところがあります。ほっとけば、艮の金神さん言うところの “鼻高さん” にすぐ落ちますね。
マルダセナ予想については詳しくないので語れませんが、「一と多」の “多” の領域内で探究する物理学では、それこそ 9 分 9 厘まで解析できても、“意識の物理学” とでもいうべき視点の構造を探究しなくては、最後の 1 厘はどうしてもわからないと思います。
今後は物理学でも “重力” にもっと焦点があたるでしょう。
日本の「おもい」という言葉もそうですが、日本語にしかない表現と理解があるようですね。
西塚
西塚裕一様
重力は、とてもおもしろいですね。
『気と重力』。
宇城塾総本部道場創心館館長・宇城憲治先生の本。
(24ページから「空間の歪み」について、まず、マクロの視点で語られて、続いて)『それをミクロ的に捉えれば、重力に働きかけると私が考える「気」のエネルギーも、大宇宙の重力波に対し小宇宙の重力波と捉えてもいいのではないかと思っています。』
重力と気と意識は、電気的性質のもとに関連性がありますが、意識は、脳のパルスによって働き、空間を瞬時に伝わってシンクロニシティも起こします。
「重力の電気的本性が裏づけられたことは,万物を透過する瞬時の重力通信,また経済的
な重力輸送(宇宙輸送を含む)の創出への明確な展望を切り開いている。」
A.A.デニソフ著『相対性理論の神話』。
http://naturalscience.world.coocan.jp/denisov-book-japan.pdf
数式を用いて相対性理論の修正を行って評価もされているA.A.デニソフの論文を私は正しく理解できませんが、この論文には「ウルトラタキオン」や「UFO」という言葉も登場します。
『脳の主人』では、意識を階層性を持つ働きとして捉え、その意識を(アインシュタインの「固有時」を土台として)「転がる時計」=「固有波時計」としてモデル化したビジョンにおいて、上位の固有波時計は超光速で転がり情報活動を行うようで、光速度不変の法則の枠内での「意識=物理」現象と、その枠を越えたレベルでの「意識=物理」現象とが、どのように対応するのか、踏み込んで考える力が大いに不足した私ですが、まあ、ボチボチと楽しみたいと思っています。
超光速レベルでの「意識=物理」現象をタキオンを用いて記述して『相対性理論の神話』との「親和性」が見えてくるとおもしろいだろうなあと思います。
また『コーリー・グッドの語る「重力と時間」』も、興味津々です。
https://ameblo.jp/glamzanzedeus/entry-12626409263.html
そしてヌーソロジーと重力もおもしろいです。
『つまり、重力があるからこそ、そこに物質が生まれていると考えた方がいい。何がいいたいのかというと、物質とは本来、人間の意識と無関係に自立して存在している即自的な存在などではなく、意識が概念の力によって表象している一種の概念的存在だということだ。』
https://www.noos.ne.jp/cavesyndrome/?p=2468
好本健一
好本様
ポストありがとうございます。
“重力” に関するいろいろな考察、面白いですね。
冒頭の武術に関係した部分ですが、武術にとっても重力はエライ重要ですね。
重力に関しては、“気”、“意識”、“脳”、“電磁気” 等々いろいろ関係してくると思いますが、ちょっとスピめきますが、まとめて “意識” とか “心” に関係するということでいいかと思います。
『脳の主人』の東晃史先生の理論では、私の解釈で簡略化して言うと、最初の意識(生誕)とでもいうべきものの大きさ、容量、キャパみたいなものに関連して、その後の意識現象が決定されていくということでしょうが、ものすごく興味深いことに、いわゆる人生の途中でも最初のでかいキャパに戻る手立てがあるというところです。
ヌーソロジーの話でも、つまるところ意識が物質を創っていると言ってもいいのではないでしょうか。
コーリー・グッドのインタビューでも、UFOの操作としては、日本の合気道の力に関係しているようだと発言してたと思いますし、すべてはやはり “意識” に関わっているというか、そもそもすべての大もとかもしれないということですね。
西塚
西塚裕一様
「大変化」を迎える心。
〈腹を据えて腹を括っていかないと、やがてやってくるドンガラガッタンを大げさなものとして見あやまるということだ。〉『宇宙時代』。
これからは「女神の時代」と言われています。突出した男性性の時代が終わって、女性性と男性性のバランスが時代を動かしていきそうです。
〈女性性の発動は今年の1月以降に動きが始まり、世界へDSの真相が公表される予定です。
これに基づいて順次改革プログラムが立ち上がり、女性原理と男性原理の共同で世界へ改革の波が浸透していきます。〉
『新年のあいさつ 投稿者:森田峯生』https://9003.teacup.com/mineo06/bbs/14796
※DSとは、皆様よくご存じの「ディープ・ステート」です。森田先生は、コロナについても語っておられます。
ブラックホールについて。
〈 ところで『宇宙の謎に挑むブレーンワールド』の中で、一般相対性理論について、ブラックホールについて、様ざまに言及されています。以下、この本からの引用は、すべて《この二重括弧》で行います。
《この膜宇宙の予言するものの中でもっともインパクトのあるものは、地上実験におけるブラックホール生成の可能性であろう。》P102。
私は、この文章を読んだ時、次の言葉を心に思い浮かべました。
「次元上昇機は、ブラックホールを作り出す、ひとつの人工的な装置です」。〉
『余剰次元とアインシュタイン方程式』https://9003.teacup.com/mineo06/bbs/14793
森田先生の『新年のあいさつ』と深く響き合っているのか、以下の情報です。
【第62弾】ワシントンから今年初めてのメッセージ‼️(17回目)
https://www.youtube.com/watch?v=KTfys8es2f0
女性性についても、ワシントンからのメッセージで語られています。
【第61弾】今年最後のワシントンからショックと感動のメッセージ‼️(16回目)
https://www.youtube.com/watch?v=ocioC_QgKx0
西塚さんの『宇宙時代』は、貴重な情報が盛りだくさんですが、ひと言でまとめると、「2021年1月から顕在化する大変化を乗り切る思いの持ち方、心の姿勢を整えましょう」と、実践に活かせる情報を踏まえて語っておられるようで、とても有り難いです。
今、求められている情報は、大変革の波を的確に描いている情報、そして大変革の波を自分の暮らしの中でサーフィンして、波の向こう側に出る情報だと思います。
『宇宙時代』では、波の向こう側に出る情報が、鋭く語られていると思います。
ありがとうございます。
最後になりましたが、西塚裕一様、皆様、2021年の大激動期も、宜しくお願い致します。
好本健一
好本様
ポストありがとうございます。
こちらこそ、今年もよろしくお願いいたします。
情報をありがとうございます。
まだ、いただいた YouTube を確認してないのでコメントはできませんが、ブラックホールに関しては、いわゆる高次元情報からしても今後は大変重要な概念になってくるでしょう。
今でも、次元上昇とかアセンションなどと言うと眉を顰める方が多いでしょうが、実際、たしかに用語を替えたほうがいいのかもしれませんが、それらの概念に対するこれまでの先入観や偏見みたいなものは、すぐに取っ払われることになると思います。おそらく無視できない科学的な知見が発表されてくるんじゃないでしょうか。
そうなれば、スピ情報(まともな)にもまっとうな目が向けられるでしょう。
西塚
西塚裕一様
「ドンガラガッタン」、「迫ってきた1月6日」、そして、それ以降、についてのベクトル考察。
私は、情報収集のアマチュアですが、その私が理解している2021年1月米大統領選挙の進展と、日本の情報収集のプロである主要メディアが報道しているその進展とでは、大きな開きがあります。
ここで、情報の本質を、ベクトル、とします。
ベクトルを、意志エネルギーと定義します。
思いから、意志エネルギーが生まれます。
(上記の三点は関連し合っています。)
意志は、まず個人に発し、そして世の中は、個人の意志の集合が動かします。
なので、情報とは、複合ベクトル。
当然、現実の世の中のすべての営みと密接にリンクしています。
地球を、外から見ると、ひとつの現実が見えます。
個の、個別的な判断によって、ひとつの現実が、様ざまに解釈され、様ざまなベクトルが生まれます。
親密なベクトルたちが豊かな響きを生み出したり、大きな開きのあるベクトルたちが、隔絶を生み出したりします。
一元論の視点から、地球上のすべてのベクトルたちを見ると、「ひとつ」に統一されています。(もちろん、このささやかな考察は、私の類推で、あえてシンプルに記述して、問題点を浮き彫りにして、そこから、お互いの励まし合いを導き出すことを意図しています。)
ところが、現実のベクトルたちは、統一されてなくて、ぶつかったり、ズレたりして混乱しています。
一元論の視点から見たベクトルのありようと現実のベクトルのありようにもまた、大きな開きがあります。
一元論は、「愛」ですから、混乱を構成するすべてのベクトルたちを多層秩序に統一して進化へ導きます。
守護の神霊の皆様が、働いておられます。
混乱の本質は、一元論の導きに背を向けた自己主張ベクトルです。
2021年1月6日から誰の目にも明らかになる「ドンガラガッタン」は、一元論の導きから様ざまな度合いでズレたベクトルたちを統一された秩序へ向けて組み替える表層の動きです。
「ドンガラガッタン」がどう見えようとも、一元論は、「愛」ですから、すべてのベクトルを多層秩序に位置づけて素晴らしい未来を創る役割を自覚させます。
ここてベクトルから「思い」を取り出して書きます。
思いとは、事象で、それが形になったものが現象。
単純な話で、たとえば「椅子」という現象は、まず事象レベルで「椅子」をイメージする必要があります。
1月6日以降、壮大なスケールで「ドンガラガッタン」が、つまりベクトルの組み替えが起こりますから、その時代潮流に乗れば、(有り難いことに「壮大なスケールでのベクトルの組み替え」という応援をいただいて)自分のベクトルで構成された事象を、スピーディーに現象化しやすくなります。
今後、「意識と空間、意識と時間の関係においてなかなか興味深い体験ができたし、実験もできた」という方々が増えて、「新しい思いの宇宙」が、「新しい形の宇宙」を生み出す、創造性に満ちた「宇宙時代」が大展開されていきます。
(まあ、一篇の詩のようなもの、とお受け止めください。もっとも私自身は、そこに人生を賭けていますが。)
好本健一
好本様
ポストありがとうございます。
たしかに、♪ドンガドンガ、ドンガラガッタ…♪ となれば早いですね。
いずれにしましても、遅かれ早かれ、♪ドンガラガッタ♪ とはなりますね。なぜなら、すでに別次元では “となりの番長” も “そのとなりの番長” も、“そのまたとなりの番長” もやっつけられているからです(笑)。
あとは現象化してくるだけですが、「国松さまのお通りだいっ!」てなばかりに、心を正々堂々としていきたいものです。
西塚