おっと、これだから先日は書きっぱなしでもアップしておいてよかった。
あっという間に時間が経つ。
ということでまた続きだが、黄泉比良坂(よもつひらさか)で千引岩(ちびきいわ)の向こうとこっちで別れたイザナギとイザナミだが、そもそも黄泉比良坂を岩で塞いだのは誰なのか? 原文は、
爾千引石引塞其黄泉比良坂、其石置中、各対立而…
ってことだが、この読み下し文も微妙にいろいろなバージョンがあるが、要は「ここに千引の岩を引きて、その黄泉比良坂を塞(せ)きたまひき、その岩を中に置きて、おのおの向かい立ちて…」ということである。
主語がないから、誰が岩で塞いだのかわからない。
しかし、現代語訳ではだいたい「イザナギ」が補われており、イザナギが岩を置いたことになっている。
実際、物語の流れからいっても、すったもんだあった後、最後に追っかけてきたイザナミから逃れるためにイザナギがドン!と黄泉比良坂を岩で封じた、としたほうが自然ではある。
そして、イザナミは悔しかったのか、岩の向こうから、こうなったらあなたの国の人たちを一日に 1000 人殺しますと言うと、イザナギはじゃあこちらでは一日に 1500 人産みましょうと返す。
殺すとか、なんだかぶっそうな言葉で申しわけないが、原典にも「一日絞殺千頭」とあり、現代語訳にすれば「ひと日(ひ)に千頭(ちがしら)絞め殺しまつらむ」ということになるからしょうがないのだが、そこんとこはともかく、要はイザナギが 1500 人産むとイザナミが 1000 人殺すってことだ。
つまり、イザナミはイザナギが産んだ人たちの三分の二を殺すのである。
三分の一は生きる。
この「三分の一」という表現は聖書でも頻繁に出てくる。
主は言われる、全地の人の三分の二は断たれて死に、三分の一は生き残る。
わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『彼らはわが民である』と言い、彼らは『主はわが神である』と言う。
『ゼカリヤ書』第 13 章 8 ~ 9 節(日本聖書協会)
上記、『ゼカリヤ書』の箇所は、イザナミとイザナギのやりとりとも数字的には関係がありそうだが、たとえば『ヨハネの黙示録』のようにやたら「三分の一」という表現が出てくる書では、それらは「三分の一は滅びる、死ぬ」というふうに使われている。
それはさておき、先の『古事記』のイザナギとイザナミのやりとり、黄泉比良坂で千引岩を中に挟んだやりとりは、
汝等(なんじら)の知り居(お)る古紀申すは、裏で『魔釣りの経綸』を操る者共に、都合の良き様に改ざんされあるを知りて下されよ。
『火水伝文』より
と伝えている艮の金神(うしとらのこんじん)が、『日月神示』で同じ場面を伝えているのだが、それは『古事記』とはまったく異なるものだ。
つづく
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