洋楽の歌詞の訳詞はよくあるが、というか CD なんかにもライナーノーツと一緒に日本語の対訳が入っているんじゃないかと思うが、なかなか洋楽歌詞を訳すということは難しく、誤訳があったりする。
誤訳じゃないにしても、意味が何重にもかけられている場合があるから、一つのフレーズで幾通りにも取れたりするので、歌詞の内容を十分に訳出することができない。
さらに、作詞した者の意図を超えたところからやってくる “意図” というものがあり、その意図は表現者やアーティストを使って人類に何かを伝えようとしているので、なおさら一筋縄ではいかなくなり、やはり個々に “感じ” たり、“わかる” しかない。
そして今はもう、この世の作品のことごとくは、一般的に表現されている以上の何かしらの “メッセージ” を伝えているものとして、見ていったほうがいいと思う。
そう意識することで、その作品を受け取った人それぞれの独自の解釈を顕在化させる可能性が広がるから、そうした意識を持って、何か気づいたことがあったら身近な人でもブログでもなんでもいいので、伝達していかなければならない。
細かい傍証資料や該当箇所を一つひとつここではあげないが、たとえば艮の金神(うしとらのこんじん)系の神示にしても、そういうふうにして気づいたことは、ほかの人たちにも伝えてくれと何度も出てくるし、『ラー文書』にいたっては、そうして学んだこと(気づいたこと)は、人に教えることで初めて “学んだこと” となるのであり、そうすること以上に人間にすることはなく、人間に生まれてきている理由はそれしかないとまで言っている。
ひとりが気づけば(目覚めれば/覚醒すれば)、万人が気づくというのはウソではないのだ。
しかし、いまだそのことは何やらあやふやというか、心もとないようなものにされたままであり、ここにきてさらに躍起になって、あえて言うが、“神” をなきものにするというか、正反対のものを信奉する方向へ持っていこうとする動きがある。
ひとりが気づけば万人が気づくことになるというのは、個と全体は一つであるという、古来から伝えられてきている「真理」に基づく。
当たり前だが、真理は一つしかなく、それは「一つである」ということであって、あとはすべてそこから派生するバリエーションであり、つまり「創造」だ。
創造を維持していくことが「道」なのだが、そしてそれも結局は創造なのだが、そのあたりの認識の “程度” が人によって異なっていることから、さまざまな誤解が生じたりする。
しかし、その誤解は、互いの “認識の程度” を認識することによって解くことが可能となる。
話が遠回りしはじめたので戻すが、前回取り上げたポール・サイモンやジャニス・イアンは、本人同士の姿形もどこか似ており、それは同じ東欧系ユダヤ人出身ということによるのかもしれないが、いずれにせよ、ふたりのアーティストは何かしらの “危機感” に感応し、1964 年にはサイモン&ガーファンクルとして「 The Sound of Silence 」を発表し、ジャニスも 66 年に 15 歳でデビューすることになった。
安易に「危機感」などと言ってはいけないのだろうが、公民権運動を中心とした人種差別問題、それに触発された女性解放運動のさなかのアメリカで、ポール・サイモンは 63 年のケネディ暗殺に衝撃を受けて「 The Sound of Silence 」を書きはじめ、翌 64 年に発表し、ジャニス・イアンは 13 歳!で人種差別問題を意識した曲を書き、66 年に発表しているのだから、「何かしらの危機感」という言葉を使っても許されると思う。
「 The Sound of Silence 」は、
Hello darkness、my old friend
I’ve come to talk with you again
Because a vision softly creeping
Left its seeds while I was sleeping
And the vision that was planted in my brain
Still remains
Within the sound of silence
とはじまるが、難解な歌詞とされている。
たしかに難解だが、これはもはやポール・サイモンという一個人から発せられた歌詞というより、彼を媒体として表出された何か(たとえば詩的メッセージ)と考えたほうがいいだろう。
だから、坂本九の「涙くんさよなら」ばりに「暗闇くんこんにちは」というノリではなく、ゲーテのファウスト博士とメフィストフェレスとまでは言わないが、あまり気が進まないけれども、古くから見知った「闇」と再び対峙するといった意味合いが強いと思う。
なぜ、再び対峙しなければならないのか。
ケネディの暗殺事件はおそらくそのきっかけにすぎないのだろうが、それでも事件をきっかけにして、ある種のビジョン・予感めいたものが歌の主人公に忍び寄り、そのまま頭に植えつけられたように、こびりついてしまったからである。
その予感めいたビジョンは、これこれと明確に口で言い表わすことができず、つまり沈黙せざるをえないのだが、ある種の “感覚・感触” であり、それを自分の内部にある一つの “響き” ( The Sound of Silence )として表現しているのだ。
そして次の節では、歌の主人公は狭い石畳の通りを歩いており、街灯の明かりの下で寒さに襟を立てる。
そのとき、
When my eyes were stabbed by the flash of a neon light
That split the night
And touched the sound of silence
とあるように、ネオンライトの瞬きが瞳を突き刺し、夜を引き裂く。
そして、また例の予感めいた “響き” に触れるという。
77 年、ジャニスは『岸辺のアルバム』の「 Will you dance?」で、
Someone is bleeding
Crimson in the night
Strangers、in the light a sudden meeting
Greeting one by one every life runs
flashing before those dashing eyes
血を流している人がいる
闇を深紅に染めて
突然、光の中で見知らぬ人たちに出逢う
一人ひとりとあいさつを交わしていると、
彼らの自信に満ちた瞳の前を
それぞれの人生が瞬く間に過ぎ去っていく
と歌う。
(続く)
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