だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

冊子『SHINSEI』購読のお礼と概要

3 月に入った。

昨年の 12 月初めの告知より、追加の補足説明を何もせず不親切極まりないのだが、何ごとかを感じ、冊子『SHINSEI』の購読を申し込んでいただいた方々には、謹んでお礼を申し上げます。ありがとうございますm(__)m

創刊 0 号、1 号、2 号と、現在三冊の PDF 版を配信している。

ゆえあって様子をうかがっていたが、三冊を配信できた今、もう少し冊子『SHINSEI』の概要について記しておこうと思う。

冊子『SHINSEI』の役割は、これまでなかなか表に出てこられなかった叡智や原理を伝えることによって、誤った知識を改め、一部の日本人たちとともに私たちの意識をここ一年あまりで確実に変容、変換、変革させていく場を創ることである。

“原理” とか “日本人” などと言うといかにも大仰であり、うさんくさく、誤解されるおそれもあるが、そういうことを気にしている場合ではなくなった。

創刊 0 号では、創刊の辞としての私のあいさつとともに、我空德生氏の二回の講話を掲載した。

今の私たちに対する最終告知だと思うからだ。

この記事をご覧いただいている方々であれば、ご存じかと思うが、我空氏は『火水伝文(ひみつつたえふみ)』の伝達者である。

『火水伝文』は 1991 年 7 月 12 日、我空氏の目の前に突然言葉が浮かび上がったことにはじまり、翌年の 1992 年 4 月に一冊にまとめられた書である。

その「あとがき」には、『火水伝文』と併せて必ず『日月神示』を読むようにと、国祖・国常立大神(こくそ・くにとこたちのおおかみ)から伝えられたとあるから、出口なおの『大本神諭(おおもとしんゆ)』から本格的に世に出ることになった、いわゆる艮の金神(うしとらのこんじん)とされる “カミ” に関連する神示、神託ということになるだろう。

つまり、明治 25 年の 1892 年、京都丹波の綾部で出口なおが、

 

三ぜん世界一同(いちど)に開く梅の花、
艮の金神の世に成りたぞよ。
梅で開いて松で治める、神国の世になりたぞよ。
日本は神道、神が構わな行けぬ国であるぞよ。
外国は獣類(けもの)の世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ。
日本も獣の世になりて居(お)るぞよ。
外国人にばかされて、尻の毛まで抜かれて居りても、
未(ま)だ眼が覚めん暗がりの世になりて居るぞよ。
是(これ)では、国は立ちては行かんから、
神が表(おもて)に現はれて、三千世界の立替へ立直しを致すぞよ。

用意を成されよ。
この世は全然(さっぱり)、新(さら)つの世に替へて了(しま)ふぞよ。
三千世界の大洗濯、大掃除を致して、天下太平に世を治めて、
万古末代(まんごまつだい)続く神国の世に致すぞよ。
神の申した事は、一分一厘違はんぞよ。
毛筋の横巾(はば)ほども間違いは無いぞよ。
これが違ふたら、神はこの世に居らんぞよ。

『大本神諭』冒頭より
(ふりがな・太字は西塚、以下引用文同)

 

と宣言してから、正確に 100 年後に『火水伝文』が世に出されたことになる。

そして、先の創刊 0 号に掲載した我空氏の講話は、それからきっちり 30 年を経た 2022 年 7 月に行なわれたものだ。

文責は要約・編集した私にあるが、内容は補注も含めて我空氏の確認を通している。

講話では、2025 年 6 月までの私たちの “準備期間” のことが明かされ、それは先に引用した『大本神諭』にある「用意を成されよ」という言葉に呼応した、ある種の最終警告として受けとれる。

我空氏はかつて、「覚醒への 3 ステップ」について語ったことがある。

私の言葉で簡単に要約すれば、

第1ステップ   まず、自分が騙されていることに気づくこと。
第2ステップ   そして、なぜ騙すのか、その論拠に気づくこと。
第3ステップ   最後に、それは自分のせいであることを知ること。

となる。

上記の 3 ステップをクリアするためにも、冊子『SHINSEI』では、世界の神話・聖典・神示・啓示などが伝えている摂理・原理・経綸を知り、それを理解し、日常生活の中で実践していく方法論を伝えていくことになる。

 

 

今、来年の 2025 年という年に注目が集まっており、その多くは日本の自然災害に関するものであるが、いわゆる “予言” を基調とした大きな禍(わざわい)に関しては、ヴァジム・ゼランドの本や聖書などを引用しながら、過去のブログで何度も記事にしてるから、もはやあまり語ることはない。

しかし、現時点で言わなければいけないことは、これまでの世界の人間の意識を動かしてきたシステムは、2022 年に終了しているということである。

なので、古今東西のさまざまな神話や神典、あるいは占術的な手法によって派生する予言関連の言説は、基本的にはアテにならない。

これまでの世界の中では有効だったし、通用してもきたのだが、すでにそれらのアルゴリズムは失効しているので、そのことを知らない人々たちの意識が自己実現的に現象化させるか、いまだに巨大な力を持っているエスタブリッシュメント側が、綿密に、巧妙に仕掛けてきた計画を強引に作動させるということでもない限り、そうした予言にあるようなことは起きないだろう。

しかし、神話や神典の中でも、この世を大きな木にたとえれば、枝葉ではなく根本的な幹にあたるもの、宇宙の摂理や原理を伝えているものとなると話は別である。

たとえば大きな禍(わざわい)、戦争のようなものに関しては、マタイ伝ではイエスはこう語っている、

 

戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。
注意していなさい、あわててはいけない。
それは起らねばならないが、まだ終わりではない
民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。
またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。
しかし、すべてこれらは産みの苦しみの始まりである。

『新約聖書』「マタイによる福音書」第24章より

 

ここで重要な部分は、“戦争” が起ころうとも、それは「まだ終わり」ではなく、「産みの苦しみの始まり」であるということだ。

そして、「産みの苦しみ」とは “摂理” “原理” に関係することで、その仕組みや経綸の詳細に関しては、日本に伝わっている神典を通して知るしか術がなく、実際、岡本天明の『日月神示』にも以下のように記してある。

 

死ぬか生きるかは人民ばかりでないぞ、
神々様も森羅万象の悉(ことごと)くが同様であるぞ、
しばらくの生みの苦しみ
八の世界から十の世界になるのであるから、今までの八方的な考へ方、
八方的な想念や肉体では生きては行かれんのであるぞ、
十方的想念と肉体でなくてはならんぞ。

『日月神示』(東光社)
「五十黙示録」第 6 巻「至恩の巻」第 13 帖より

 

上記の「生みの苦しみ」とは、先のマタイの 24 章にある「すべてこれらは産みの苦しみの始まりである」の「産みの苦しみ」と同じものだ。

聖書の記述と、艮の金神関連の神示『大本神諭』『日月神示』『火水伝文』などにある記述は、基本的に相関している。

新約聖書の最後に「ヨハネの黙示録」があるが、その 5 章に以下の部分がある。

 

わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。
その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。
また、ひとりの強い御使が、大声で、
「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」
と呼ばわっているのを見た。

しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、
それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。
巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、
わたしは激しく泣いていた。

すると、長老のひとりがわたしに言った、
「泣くな。見よ、ユダ族の獅子、ダビデの若枝であるかたが、
勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」

わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、
ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。
それに七つの角七つの目とがあった。
これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。

小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を受けとった。
巻物を受けとった時、四つの生き物と二十四人の長老とは、
おのおの、立琴と、香の満ちている金の鉢とを手に持って、
小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒の祈(いのり)である。
彼らは新しい歌を歌って言った、

「あなたこそは、その巻物を受けとり、
封印を解くにふさわしいかたであります。
あなたはほふられ、その血によって、神のために、
あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。
彼らは地上を支配するに至るでしょう」

『新約聖書』「ヨハネの黙示録」第 5 章より

 

「ヨハネの黙示録」とは、「神が、すぐにも起るべきことをその僕(しもべ)たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使(みつかい)をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである」(第 1 章より)。

ヨハネは、神の右手に “巻物” があるのを見たが、巻物を開いて読むのにふさわしい者がいないので泣いた。

しかし、ユダ族の獅子、ダビデの若枝である方が勝利を得たので、巻物を開き、7 つの封印を解くことができると長老に言われる。

ユダ族の獅子、ダビデの若枝とはもちろんイエスのことだが、重要なことは、イエスが巻物を開いて 7 つの封印を解いてくれるわけではないということだ。

イエスが「 “勝利” を得たので」、それができるのである。

誰ができるのか?

それはともかく、「七つの封印」とか「四つの生き物」「七つの角」「二十四人の長老」「立琴」「香の満ちている金の鉢」など、聖書は何かの象徴だったり、譬(たと)えであったりする言葉が多く、わかりにくくてもどかしい感じもあるが、ここではそれらが何を表わしているかについては論じない。

ただ、イエスが譬えを使う理由については触れておく。

マタイの 13 章に以下の記述がある。

 

それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、

「なぜ、彼らに譬(たとえ)でお話しになるのですか」

そこでイエスは答えて言われた、

「あなたがたには、天国の奥義(おうぎ)を知ることが許されているが、彼らには許されていない。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、
持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
だから、彼らには譬で語るのである。
それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。

『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。
それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、
悔い改めていやされることがないためである』」

同「マタイによる福音書」第 13 章より

 

要は、「奥義」を知ることが許されていない者には、「譬え」で語ると言うのである。

なんだか、贔屓だか差別的な感じも受けてしまうが、もちろんちゃんとした理由があるわけだ。

ちなみに、「奥義」とは英語では「mystery」であり、ほかにも「秘密」とか「秘儀」などと訳されているが、意味としては「経綸」に近いかと思う。

黙示録に戻るが、先にヨハネが「御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た」というくだりがあったが、『日月神示』にも “巻物” が出てくる。

 

神の御手に巻物があるぞ、その巻物の数は五十巻ぢゃ、
この巻物を見たものは今までに一人もなかったのであるぞ、
見てもわからんのぢゃ。
巻物を解いて読もうとすれば、それは白紙となってしまうのであるぞ、
人民にはわからんなり。説くことは出来んなり、
この巻物は天の文字で書いてあるぞ、数字で書いてあるぞ、
無が書いてあるぞ、無の中に有が記してあるぞ、
心を無にすれば白紙の中に文字が現われるのであるぞ、

時節参りて誰の目にも黙示とうつるようになった、
有り難いことであるぞ、岩戸が開けていよいよの時となったのぞ、
始めからの巻物よく読んで下されよ、
よくより分けて下されよ、何も彼も一切ありやかに刻まれているぞ、
残る十二巻と一巻は人民ではわからんぞ、
無の巻物ぞ、空に書いてあるぞ。

『日月神示』「五十黙示録」第 1 巻「扶桑之巻」第 12 帖より

 

「ヨハネの黙示録」でヨハネが神の右手に見たという “巻物” は、『日月神示』の「五十黙示録」に出てくるこの “巻物” のことである。

つまり日本では、「ヨハネの黙示録」の神の右手にあった “巻物” が、艮の金神の神示の流れにおいて、『日月神示』として伝えられているということである。

先の「扶桑之巻」第 12 帖では、巻物は 50 巻あるとしているが、『日月神示』は最初の 30 巻と後半の「五十黙示録」の 7 巻と合わせて 37 巻が発表されており、残りの 13 巻は発表を禁じられていると岡本天明が書いている。

第 12 帖の最後には、「残る十二巻と一巻は人民ではわからんぞ、無の巻物ぞ、空に書いてあるぞ」と記述されているが、ここでは詳しくは書けないのだが、この部分には秘密が隠されている。

ちなみに、岡本天明の『日月神示』( 1944 年)の次に、我空德生氏の『火水伝文』( 1992 年)が世に出た。

つまり、神示が出された順番を「日・月・火・水・木・金・土」で見ると、「日月」→「火水」と出たことになる。

そして、「木金」の神示もすでに世に出ており、ざっくり言えば、我空氏の講演活動を通して “口” によって伝えられていて、現時点はすでに「土」の神示に入って久しいということになる。

「土」とは “スサナル” の土(つち)であり、つまり私たちひとりひとりのことだ。

私たちの “肉体” のことと言ってもよい。

言い換えれば、私たちの活動(口・心・行ない)そのものが “神示” ということになり、“神示を生きる” とも “神示を活かす” とも言え、もはや何か外部の人物なり文献なりを参照しながら、何ごとかを学んで実践していくというよりは、普段の日常の生活・活動がそのまま、ある雛型なら雛型を構築し、将来に現象・現実化させていくという段階に入っているのである。

2026 年以降は、そういう領域というか周波数を生きていくことになるのだが、その “準備期間” が 2025 年 6 月までということである。

肝心なことは、“大峠” や “ハルマゲドン” などのドゥームズデイへの恐怖ではなく、いわゆる「ミロクの世」や「千年王国」を創建するということのほうだろう。

そして、それは実は日本人(の一部)の “仕事” でもあるのだ。

 

 

私が知る限り、2025 年 7 月以降のことについて、我空德生氏の講話ほど明確に、簡潔に、事情が伝えられているものはないので、冊子『SHINSEI』の創刊 0 号に掲載させていただいた。

そしてそのことに関連して今回、ちょっと概要をお伝えしているしだいである。

2026 年以降の「意識」の変容、変換、変革に関しては、半田広宣氏が大系化している「ヌーソロジー」をはじめ、アメリカの研究チームが発表した『ラー文書』、そのほかこれまでの探究をもとに厳選した文献やテキストと併せて考察し、冊子で提示していく。

ともかく、2026 年以降の世界の律動や周波数に同調しながら活動していくという「意識」が必要なのであり、必然的な仕組みとして図られているとは思うのだが、冊子『SHINSEI』の購読者を期限内における最大数に近づけ、少しでも次の世に貢献したいと思っている。

購読者を対象とした小さな講演会や懇親会も予定しているので、都内某所の会場をはじめ ZOOM なども利用しながら、我空德生氏のみならず、私がこれまで取材してきた方々にご登場していただく。

冊子『SHINSEI』においても、パブリックイメージの問題などもあって実名は出せないが、実は神事に関わっていたり、ある種の “通信” を受けている方々より寄稿していただくことにもなっているので、探究者や興味のある方々のお役にも立てると自負している。

そういう意味では、スピリチュアル関係の研究者や専門家、精神世界の文献を広く渉猟し、深く考察している方々に購読していただきたいと思う。

なぜなら、たとえば一つの案件についての相補的な検証や情報交換、その他インタラクティブな考察が可能となるからである。

また、そのプロセスを記事にしていくことによっても、多くの購読者の興味や知的欲求、思考の実践などに利することになるだろう。

このブログの場では、なかなか冊子の詳細な内容までは語れないのが残念だが、2025 年 6 月まであと 15 カ月、購読者とどれほどの関係性を築けるかはわからないが、これまでの取材や探究で弊社が知りえたこと、私が理解していることをできるだけ伝達するつもりなので、2026 年以降、各購読者自身が本来の“役割”を楽しく担って行かれることを願ってやまない。

これを機に、ブログでは冊子『SHINSEI』を補完する記事もアップしていくことになる。

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