だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting vol.25 「世界を構成するもの」

人気ブログ『ヤスの備忘録』でもおなじみ、
社会分析アナリストの高島康司氏をお招きして、

1 世界で今、起きていること
2 人間の新たなる「精神性」「意識」「思考」

について、飲みながら自由闊達に話すシリーズ。
基本的に毎週更新。

〇『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』第25回
「世界を構成するもの」

ゲスト:高島康司氏
聞き手:西塚裕一(五目舎)
2015年12月13日 東京・中野にて収録

西塚 みなさん、こんにちは。『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』の今日は第25回目ですね。25回と言うのも…

ヤス いやあ、すばらしい(笑)。

西塚 また今日もヤスさんにおいでいただきました。よろしくお願いします。カンパーイ!

ヤス カンパーイ!

西塚 前回、後半はビリー・マイヤーの話をしましたが、けっこう評判もよかったということもあって、ヤスさんともビリー・マイヤーのことをもうちょっと突っ込んでやろうという話になったんですけど、その前に今週の気になることもお聞きしたいんですが、フランスの地域議会選挙ですか? 国民戦線が第一党になったという。ISがヨーロッパでテロを起こして、これからまたテロ続くんじゃないかってことで基本的に各政府が右傾化していってですね、民族主義的な、ナショナリズム的な方向になっていったというその影響かなと思ってたら、実はそうじゃないと。

ISの影響と言うよりはむしろフランスの経済なんだと。ものすごい格差だし、食えないし、いいかげんにしろってことで国民戦線に流れた。パーセンテージを見ても、投票した理由は経済問題で、ISのテロ問題よりもちょっと上回ったという記事を読んだんですが、そのへんはやはりそうなんですか?

EUのグローバリゼーションの弊害

ヤス いや、どんどんルペン党首のね、国民戦線のような極右政党が拡大するという基調は21世紀に入ってからずっとなんですよ。特に大きな転換点になったのはリーマンショックとか、ユーロ危機であるとか、PIIGSによる国債の破綻ということで、ヨーロッパ経済全体がかなりスローダウンしてきてからです。国民戦線的な経済モデルといったものがかなり人気を集めるようになった。

グローバリゼーションですね、ユーロ圏というのは。そのグローバリゼーションの恩恵のある国とない国で、けっこうはっきり分かれるわけですよ。恩恵のある国の内部でも、恩恵を受けないような低所得層の人たちがたくさん出てくるわけですね。だんだんヨーロッパの経済がスローダウンしてくると、全員に経済成長の恩恵ってゆきわたらないわけです。明らかに格差が拡大していく。

1999年にユーロが導入されて、2002年にユーロ通貨が発足する。だから1999年から、まあ2007年ぐらいまでというのはある意味でEUの黄金期です。ヨーロッパ全体の経済成長率がかなり高かった。グローバリゼーションの過程の波に乗ったということですね。ちょっとEUの話になりますが、何でEUの統合が行なわれたのか。その背後にある事実と言うか論理って、われわれはなかなか理解できてないところがあるんです。たとえば第二次世界大戦の血で血を洗うようなナショナリズムの大戦争があって、二度とああいう戦争を起こさないためにね、ヨーロッパ全体が共同体にならなくちゃいけないといったような、ある意味政治レベルからの理想主義が前提となったと。

日本でもよく使われる論理はだいたいそういうことだと思います。確かにそういう政治的な理由もひとつあります。でも経済的な理由も大きいんですね。けっこうしたたかな計算だった。欧州が世界経済の中心になるためには、世界の製造業がどんどんヨーロッパのほうに移転してこなきゃダメだと。そうするために大きな機動力になるのは安い労働力なわけですよ。東ヨーロッパ社会主義圏が崩壊したので、東ヨーロッパの安い労働力を全世界に開放して、それをひとつの梃子にしながら外部の資本をどんどん招き入れて製造業の拠点になろうとしたプロジェクトだったんです。

1989年に天安門事件がありますでしょ? 天安門事件があってから1991年までは中国は欧米の制裁にあうんですね。それで一般の市場から締め出されるんですよ。経済は本当にマイナス成長する。それで1991年にね、日本の口利きもあって経済制裁が解除されて、また中国がグローバル経済に復帰してくるんですね。

そのときに、新しく復帰した中国のおいしいところと言うかエンジンになるのは、鄧小平の判断で安い労働力を売ろうということだった。それがEUが拡大する時期とけっこう一致してんですよ。もともとのEUの案は、東ヨーロッパの安い労働力を開放して外資と言うか外の製造業をどんどんEUに招き入れて、それでEUをもう一回世界の工場の中心地にしようとした政策だったと思います。そういう政策がひとつのモチベーションとしてあった。

ただ、やっぱりリーマンショック以降、なかなかそれがうまくいかなくなる。その結果、ヨーロッパ内でもひとつひとつの国で格差が出る。経済減速するにしたがって格差がどんどん拡大してくる。それで低所得層の人を中心とした新たな経済モデルを模索する。

それは何かと言うと、やっぱりEU並みのグローバリゼーションはダメだと。そうではなくて、ひとつひとつの国が単一の経済を持って独立したほうがいいんだと。だから外部から安い労働力が入ってこないようにまず障壁を作って、それでひとつの国の経済の中で国民をちゃんと食わせていこうではないかと。そうじゃないとわれわれはもっと貧乏になってしまうぞという意見があって、それがやっぱり背景にありますよね。

西塚 国民戦線が第一党になった背景には、まさに今おっしゃったことがあると思います。国民自体もですね、要するにアンチテロと言うよりも、むしろアンチグローバリズム、アンチアメリカらしいんですよね。こんな格差を作りやがってと言う、ある種のルザンチマンみたいなものが国民戦線を押し出しているだけで。単純なナショナリズムではなく経済の問題でもあるというのは、そういう背景があったんですね。

ヤス ただしね、それがナショナリズムと渾然一体化するんですよ。たとえば2002年から2007までEUがうまくいってた時期は、やっぱり極右の政党は全然伸びてないんですね。それぞれの国の、たとえばフランスとかドイツの議会で議席を1パーセントも獲得できてないんですよ。

西塚 豊かだったからですね。

ヤス 豊かだった。しかしながら、そういう極右政党は確実にいつの時期にも存在していた。何を言ってたかと言うと、自分たちの文化の独自性を守れってことだったんですね。

グローバリゼーションというのはふたつですよね。ひとつは市場原理を過度に導入した社会。あともうひとつは、欧米型・西洋型の民主主義の過度の導入。このふたつの価値観の導入によって、それぞれの国が持つ文化の独自性が、津波のように押し流されてしまうのではないかという恐怖感は昔からずっとあった。極右政党のひとつの存在理由もそこにあったと思うんですね。

西塚 極右政党があることによってギリギリの歯止めにもなっていた。

ヤス まあ、そういうふうに言えると思う。ただ今回、ISの火に油を注ぐという大きな効果にはなったと思うけどね。

トランプの再浮上

西塚 何かで読みましたけどね、それなりに国が安定していて、国民の幸福度も高いというような国がいくつかあがってたんです。ひとつはアイスランドなんですね。あとブルガリア、あとは酔っぱらって忘れました(笑)。見ると一回破綻したり、経済的危機などでグローバル資本が抜けちゃって、自国で立て直したような国だったと思います。だから世界レベルで言えば貧しいかもしれないんだけども、わりと国が安定して幸福度も高いというのがけっこう象徴的と言うか、今後の国のあり方としても何かのラインを見せてるような気がするんですね。

それと今回の国民戦線の第一党と、まあ一回目の投票でしょうけども、やっぱりアンチグローバリズムのラインのようなものが出てきたのかなあと漠然と思ったので、ちょっとお聞きしたかったんです。逆に日本に目を向けると、安保法制以降ですね、どんどん逆行してるという感じですね(笑)。報道管制はするわ、とんでもないです。グローバリゼーションにやられながら、さらに右傾化してるという。

そこであの、12月の頭に訴えましたよね、例の日米合同委員会ですか? 議事録を開示しろと。議事録を見せられないって言うなら、その根拠となる文書なりを見せろという、賢い裁判だとも言われてるようですけども、あれもどうなるのか。いずれにしろ、わりと唯々諾々としたがってきたような国民の日本でも、安保法制以降自主的な動きがぽつぽつ出てきている。そういうことも合わせて考えると、やっぱり独自の文化を国民が守ると言うか、作り直そうという方向にいってるのはひとつあるかなと。

あとひとつ、アメリカのトランプがまた出てきたんですか? 最初はガーンときましたけど、いずれ失速するだろうと言われて、実際失速したんだけども、またここにきてトランプが出てきた。ひょっとしたら本当に共和党の候補になるんじゃないかという…

ヤス その可能性は高いとは言われてますね。

西塚 冗談じゃなくなってきましたね。そのへんもヤスさんにおうかがいしたかったんですが。

ヤス トランプの言っていることは過激なんですよ。過激でとんでもないことを言ってる。確かにとんでもないんですけど、何であのトランプが支持されるかと言うと、多くのアメリカ人の本音なんですね。本音を歯に衣着せずに言うんですよ。本音というのはある意味タブーの部分でもあるわけじゃないですか。そのタブーを取っ払って言ってしまうというタイプの人なんですね。

今回もイスラム教徒全員をある一定期間、入国制限せよって言うわけです。それはアメリカの、特に中産階層以下の人たちが思っている一般的な意見だと思うんですね。ただ、それを社会生活の中で表立って自分の主張として言うことは、やはり憚られる。なぜかと言うと、アメリカの多様性と多元性という価値観に違反してきますから。自分の意見としては言えない。しかしながら、やっぱりイスラムイコールテロじゃないかという本音は、アメリカ国民、特に中産階層以下の国民に深く根づいてると思います。それを出してきてる。

西塚 それは強いですよね。みなが共有してるものを発言してくれるという。しかもトランプの場合は、たとえば他の候補みたいに政治献金の問題とか、パトロンですね、いらないですからね。彼自身がもう大金持ちで、自分で選挙資金も出せるという。そのへんもあると思うんですけどね。じゃあこれ、ヒラリーとトランプの一騎打ちという形に、本当に来年7月…

ヤス ヘタしたらなっちゃうかもしれませんよ。

西塚 それでヘタすればトランプになるという…

ヤス ヘタしたらね。

西塚 そうだ、それで思い出した。ヤスさん、ジョセフ・ティテルでしたっけ? トランプが大統領になった場合、これはかなりいいんだといった話しがありましたね。世界的には。おそらくプーチンともうまくいくだろうという意味で、これは喜ばしいことだみたいな予言があったと思うんですね。

そういった意味でも、トランプは候補にならないだろうなと思ってたらまた出てきたので、そういうラインもやはりあるのかと。そうするとあまりいいかげんなことは言えませんが、わりと言われてるほど実は、もちろん大変だけども、国際社会の未来は意外と明るい方向もあるという…これは甘いですか(笑)。

ヤス 明るくはならないでしょうね。まあ、明るくなるかどうかは別問題として、トランプが象徴してるものというのは、アメリカの庶民の中に滞留してる巨大なストレスですよ。それを言語化して表現したって人だと思うんですね。それが高い支持率に結びついてる。ただそれが直接、政策になるということになると、現在のグローバリゼーションの全面的な否定になると思います。アメリカ版のルペンですね。国民戦線になると思いますよ。

西塚 これはまた今度お聞きしたいんですけど、イギリスのジェレミー・コービンですね。

ヤス ああ、労働党の党首ね。

西塚 あの人も面白いなと思います。けっこう各主要先進国の中でいろいろ動きがあるんだけども、右寄りというよりは左的なリベラルなほうが出てきたこともちょっと印象に残りました。

ヤス 実は極右と極左は意外に同じなんですよ。発想がね。たとえば極右ってどういうことか言うと一国資本主義です。移民を排斥して一国資本主義になる。どのような形で一国資本主義を実現するかと言うと、大きな政府なんですね。市場原理に経済をまかせない。そしてその国の文化の価値観を守るための政府を作らなくちゃならない。その政府は強権発動も可能なかなり大きな政府です。

その大きな政府によっていわゆる移民を排斥し、それでたとえばドイツ的なもの、フランス的なもの、彼らから見て国民的な価値観と信じられるようなものを維持していく。国民的な文化に根ざしたような社会形態を維持していくと。そのために大きな政府が必要だし、フランスだったらフランス、ドイツだったらドイツの価値観を守れるように所得の再配分をしっかりやっていくということなんですね。

これはね、言ってみれば極左もそうなんです。大きな政府と所得再配分政策なんですよ。つまり、この左右の環がぐるっとつながるということです。同じ社会モデルでね。

西塚 以前、エリーティズムの話でも出ました。別の角度からですが、左右は同じなんだと。左右の交換も可能だし、要するに田吾作・土人ですね。国民を田吾作・土人として見るという意味では、エリートたちは左も右も一致している。要するにもうダメですね、極端なものは。

アメリカのアングラカルチャーはロシアン!?

ヤス 極端なものはけっこう厳しいと思いますよ。ただ、ひと言言っておくとね、Russia Today、またロシアのプロパカンダのいる位置が非常に面白いんですね。アメリカで誰がRTとかロシアのプロパカンダを見てるのか。あれはみんな英語で放送されてますから。

実はアメリカの極右なんです(笑)。アメリカの極右とかリバタリアン。言ってみれば、多元主義で市場原理で民主主義ということを前面に押し出したアメリカの表の文化ではなくて、その背後にあるような文化。リバタリアンであるとか、キリスト教原理主義であるとか、もっと言えばいわゆる反逆性を持っているような文化。それらが実はRTに結集してるってことなんです。

西塚 RTはアメリカで第2位の視聴率を誇っているわけだから、相当な人数が支持してるんだろうけれども、全部が極右とかリバタリアンではないですよね。他の層も包含してると思いますが、その中でもパーセンテージで言えば極右的な人たちが多いということなんでしょうか?

ヤス 極右って言うと極端かもしれないけど、アレックス・ジョーンズっていますね。アレック・ジョーンズはアメリカの陰謀系サイトのトップですよ。

西塚 『INFOWARS』ですね。

ヤス そう。アレックス・ジョーンズはまさにトランプ万歳なんですね。アレックス・ジョーンがずっと言ってきたような理念をまさに代表して言っているのがトランプなんです。

アレックス・ジョーンズは長年何を言ってきたかたと言うと、テロリストを排斥しなくちゃダメだとオバマ政権は言うけれども、イスラム教徒を認めるのはおかしいじゃないかと。イスラム教徒そのものがいいか悪いかではなくて、イスラム教徒の内部に圧倒的にテロリストが多いという現実を考えてみれば、われわれはイスラム教を信仰する特定のグループに対して、もう一回かなり厳しい姿勢をとるべきではないかと。

そういうことをアレック・ジョーンズと『INFOWARS』はずっと言ってきてる。それがアメリカの右派の大きな賛同を得るわけですね。そして同じオーディエンスが、実はRTに万歳なんですよ(笑)。

西塚 ああ、なるほど。そうなると、アレックス・ジョーンズがイスラム教を信じるような人たちに対して決然とした態度を持つべきだと言ったときに、つまり原理主義ですね、そのときに極右と言われてるような人も賛同してるとすると、天に吐いた唾じゃないですけども、いわゆるエヴァンジェリストたちみたいなキリスト教原理主義ですね、結局自分たちも不利になってくるんじゃないでしょうか。それともテロを起こすことにダメだと言ってるのであって、原理主義そのものは別に排撃しないと言うか…

ヤス 原理主義そのものと言うよりも、アレックス・ジョーンズみたいな『INFOWAR』の人たちが、どのような価値観を象徴するかということですね。陰謀論であるということで片づけられているけど、彼のサイトは単純に陰謀論で割り切れるものじゃないんですよ。もう徹底的に実証的ですから。

アレックス・ジョーンズがつかんで『INFOWARS』でニュースとして発表されたことが、2、3カ月後に公けになって、やっぱりそうだったねと証明されることが圧倒的に多い。スノーデンもそうだったですね。だから、とことん実証的に迫っていくというサイトで、これはなかなか無視できない。

西塚 それってすごく面白い構図じゃないですか。RTは極右系の人たちがよく見ていて、そういう人たちがトランプを支持していると。アレックス・ジョーンズというのはいわゆる陰謀論系で、極右とかそういう人たちを批判する側なんだけども、トランプを支持していると。そうなると、潜在力を持っていると言うか、マイノリティーなんでしょうけれども、かなりのポテンシャルを秘めた層がトランプを支持している。これは本当に大統領になっちゃうかもしれませんね。

ヤス まあ大統領になる可能性はありますよね。まだよくわからないけど。いずれにしろ今言ったように、RTのやり方は実にうまい。アメリカの中で排斥されている領域の不満層をターゲットにしてるんですね。表のアメリカの中でおいしい果実を食べてるような中産階層以上の人たちじゃないわけですよ。それとは別に中間層から低所得層の人たちがいて、この人たちというのは圧倒的に現代の社会システムに対する疑念が強いわけですね。いわゆる市場原理主義であるとか、民主主義が保障する平等性ということをまったく信じていない。

それで彼らの目から見るとね、オバマ政権もそうだし、表の政治がやってることはまったくの偽善ではないかと。基本的にアメリカの政治はウォールストリートであるとか、軍産複合体であるとか、いくつかのパワーグループに完全に牛耳られている。初めから民主主義なんてものはアメリカには存在してないし、それをあたかも民主主義が存在しているかのように演技しているのが現在のアメリカの政治なんだと。とんでもないという発想なんです。そこをRTが突いてくるわけで。まさにそうだと言って(笑)。

RTは、普通であれば、よほど予算を使って取材しないと出てこないような情報を彼らに与えるわけですね(笑)。そうしたら中産階層以下の、まあ所得で分けるのはよくないかもしれないけどね、アメリカの不満層というのはみんなRTにいくわけですよ。

RTは何を言うかと言うと、われわれはロシアの文化を守ると。君たちも君たちの文化を守れと。君たちは実はグローバリストにやられてるんじゃないかって言うわけね。自らの文化に目覚めて立ち上がれ!と。われわれは立ち上がる(笑)。するとみんな、そうだ!RT万歳!ということになる(笑)。あれはすごい成功してる。

西塚 RTをヤスさんに教えてもらって僕もときどきチェックしてますけど、情報が早いというのがひとつありますよね。取材力と早さというのは、やはりSNS。ヤスさんによれば、ツイッターにあがってきたものを全部検証して、本当だったら流す。記者もいるんでしょう、あちこちに。だからそれが一番早い。僕も例の3.11のときだって、何の情報が頼りだったかと言えばツイッターだったんですよ。電話とか回線が止まってぐちゃぐちゃになったときに、ツイッターだけにはいろいろ流れていて、けっこうみんな重宝したわけですね。

だから、そういうメディアからRTが情報を吸い上げてニュースにする。それがまたSNSに流れていくという、いいか悪いかはともかく、情報が循環して拡大していきますよね。

ヤス そうです。そのSNSで流れてるような情報と、SNSで流れてるような心情と言いますかね。現代のアメリカの民主主義とか、アメリカの政治的なフレームなんかをまったく信用していないような人たちですよ。それが圧倒的に多い。

西塚 やっぱり、インフラとしてはすごくでかい話ですね。お金持ちはこれはよくわからないですけど、おそらくツイッターとかもやってるかもしれないけども、もうちょっと違うと言うか、もっと狭いコミュニティーの中でのやり取りじゃないかと思うんですね。口コミとか、あるいはホリエモンも今やってるようですが、サロン化して情報交換するというような、いわゆるツイッターとかのSNSではないところ。これはもう眼に見えて大衆のほうが強いわけですから。

ヤス そうです。ホワイトハウスがRTを恐怖しているわけですね。だからひと言で言うと、アメリカのアングラ文化の代表が実はロシアだったってことなんですよ。

西塚 本当ですよね(笑)。

ヤス 今、そういうような状態ですよ。

西塚 面白いですねえ、滑稽と言うか…

ヤス だからプーチンというのはまさにアイドル的な存在なんです。RTの若い女性レポーターたちがいるわけですね。ひとりホープの女性リポーターがいて、ものすごい頭が切れる。これはホワイトハウスのね、ニューヨーク・タイムズとかワシントン・ポストがいるような記者会見の席に、RTですから、ロシアの国営メディアですからいけるわけですよ。そこで質問する内容が、アレックス・ジョーンズと同じような質問をするわけね(笑)。

西塚 すごいな、それは。すばらしい。

ヤス 陰謀論を前提にしなきゃ出てこないだろって質問をする。そしたら報道官がビビるわけ、こんな顔(驚愕の表情)をして(笑)。君たちは何でいつもそんなことばっかり質問するんだ!と苛立つ。苛立ってるのを見て、図星だったから苛立ったねって報道をするわけね(笑)。

西塚 それは本当にすばらしいですね。プーチンには失脚しないでほしいし、あんまりそっちの話に持っていくとまずいけども、ひと言だけどうしても付け加えたいのは、第三次世界大戦のエノク預言の話ですけどね、エゼキエル書もそうですが、やっぱりプーチンは相当キーパーソンとしてありますね。あの人にはちょっと頑張ってもらわないといけないということ。

あと眼を啓かされたのは、ヤスさんの中国の習近平の話なわけですよ。とんでもないヤツだと思ってたんだけど、もちろんとんでもないこともあるでしょうが、習近平がいないと中国が治まらない。中国の人口からいってもユーラシアにものすごい混沌をもたらす可能性もあるので、共産党が抑えてくれてるっていう言い方もできますね。だからプーチン、習近平にはある意味で頑張ってほしいなと。

ヤス そうなんですよ。2010年にアナトール・カレツキーによって書かれた面白い本があるんです。ロイターのコラムニストでかなり有名なエコノミストなんですね。『資本主義4.0』という本で、その中で最後に意味深な預言をしているわけです。

もし、このままチャイナモデルがずっと成功するとする。これは市場原理のモデルではないと。極めて中央集権色の強い一党独裁型のモデルなんだと。それによって経済成長が可能であるということが証明された場合はね、おそらく欧米は市場原理と民主主義というふたつの価値観を放棄せざるを得なくなるだろうと。

今、そのような時期にきてるかもしれないですね。

西塚 そうすると、ヤスさんが言うようにBRICs以下のですね、ASEAN諸国でこれからどこをモデルにしようかといったときに欧米じゃなくなりますよね。中ロの、中国式ロシア式の体制を目指すことになります。そうすると、これはもう資本主義の終焉ですね、ある種。

ヤス そうです。それは今RTが代表しているような、アメリカのアンダーグラウンドカルチャーの向かってるところはどこかと言うと、まず中央集権的な大きな政府とはちょっと違ってね、独立戦争時代のいわゆるコミュニティーベースの自給自足型経済なんですね。そっちに戻ろうじゃないかと。それが一番ベストなんだと。

西塚 なるほど。だからリバタリアンが見るわけですね。

ヤス そうそう。それでRTでは、アメリカ人やれー!そっちの方向だ!って言うわけでしょ(笑)。

トラウマの語り部の喪失

西塚 いやあ、面白いお話ですが、最後に今週のことで、個人的には大きかったので言いますけど、野坂昭如が亡くなったんですよ。作家の野坂さんが死んだというのは、いずれはくると思ってましたが…あと『新潮45』にずっと連載してたんですけどね、最後の原稿を渡してるわけです。その中の一文にですね、正確な表現は忘れましたけども、この国に戦前がひたひたと迫っている、みたいなことが書かれてる。そういう文章が絶筆なわけです。

でまあ、野坂さんと言えばいわゆる反戦、「火垂るの墓」に代表されるような反戦作家じゃないですか。それがこの時期になくなって、最後に戦争への危機感を持っていた。危ないと。一瞬にして戦争も終わったし平和にもなったんだけど、一瞬にして戦争にもなるというようなことも書いてるらしいんですけどもね。それがちょっと気になった。僕もわりと好きだった人なので。文学はあまり関係ないのかもしれませんけど、そのあたりヤスさんはどうかなと。

ヤス いや、やっぱりロスはすごく大きいと思いますね。だから前回も喋ったように、やっぱり戦争の歯止めとなるようなリソースとして何が役割を果たしていたかと言うと、戦争の体験だったと。

西塚 トラウマですね。

ヤス トラウマです。そのトラウマを生に共有できるような世代の人たちがどんどん死んでいってる。その中で非常に大きな表現者を失ったってことですよね。トラウマを生々しく再現できるような語り部を失ったんですね。

西塚 まったく的確な表現ですね。これまでの対談でも何度も出てるテーマですね。生の戦争体験のトラウマを語る世代が亡くなってきてて、リソースとしての戦争のストッパーがなくなってきた。野坂昭如の死が、その象徴的な例とも言えるということですね。なるほどなあ。

ヤス だから野坂昭如の位置ですね。語り部だったということです。トラウマの語り部としての大きな表現者を失ったということは、すごく大きな損失ですね。

西塚 おっしゃるとおりです。

能力者のフォロワーになるな!

ヤス そうすると、トラウマではない次のストッパーは何かと言うと、理性的なものしかないんですよ。感情に訴えるのではなく。じゃあ理性的なものをわれわれは構築してきたのか。いわゆる論理的な結論として、価値観としてね、戦争はダメなんだというものを構築したか。

たとえばキッシンジャーの最後の本のように、論理的な結論として、30年戦争以降に出てきたウェストファリア的なバランスオブパワーの世界秩序じゃないとダメなんだと。国際関係は運営できないんだと。これは論理的な結論ですね。そのような論理的な結論として、日本国は戦争を避けるべきだというような論理的な判断、理性的な判断しかなくなるわけですよ。それをわれわれは構築してきたのかと言うと、まったくしてないということです。

西塚 その必然性と言うか、その依拠する根本になるもの、プリンシプルみたいなものをどこに求めるかということで、ビリー・マイヤーの話が出てきてのだと思います。

この対談は、1回目からいわゆるスピリチュアル的なものの周辺を探りながらきてますが、いきなりビリー・マイヤーにそのままいってもいいんですが、その前にワンクッションとして、いわゆる霊能者とか、サイキックというものは何なのか。ヤスさんはどんなふうに考えているのかとか、西塚はどう思ってるんだ、お前は、というのもあるかもしれないので、そのへん話しておいたほうがいいかなと思ったんですね。

ヤス そうですね。

西塚 あと30分くらいですが、そのあたりの話をしようかと思います。どこから入ってもいいですが、たとえばヤスさんのまわりなり、僕のまわりにもいわゆる霊能者と言われる人がいるし、本もいろんな人が出してますね。霊能者にもいろんなタイプがある。透視なのか予知なのか、病気を治すのかといろいろあるから一概には言えないんですけども、霊能者と言った場合、ヤスさんのご自分の体験とか、あるいはお考えとして何かお話がありますか?

ヤス 特殊能力者ですよね。霊感の強い人もそうだし、全部ひっくるめて言うと特殊能力者。われわれはそういう特殊能力者の能力が、本物なのかニセ物なのかという枠組みで考えがちなんですね。ニセ者が多い中から自分は本物を選びたいといった形でアプローチしがちなんです。極端に言うと、本物かニセ者かという、こういう枠組みそのものが僕は無意味だと思いますね。

どうしてかと言うと、おそらく特殊能力者はたくさんいるんですよ。ゴロゴロいる。パッと見てね、この人は過去にどういうことやってきたかとか、その人の体のどこが具合が悪いとかね、未来がどうなってるとか、一瞬で見抜けるような人たちばっかりなんです。ゴロゴロいるんです。

問題は何かと言うと、僕はそういう人たちを否定する気はないんだけども、そういう人たちに依存するわれわれのほうに問題があるということです。フォロワーになっちゃいけない。なぜかと言うと、おそらくわれわれの内部に開拓しなくちゃならない能力がたくさんある。たとえばビリー・マイヤーのことをちょっとおっしゃいましたけど、人間は現実そのものを創る主体になれる能力を持っていると。そのためには、まず自らの内部にそのような能力があるってことに確実に気づかなくてはならない。その気づきの過程をですね、どんどん無限に遅延させていくのが能力者に依存するという状態ですよ。

この能力者をずっと信じて、この人のアドバイスをもらっていれば私は大丈夫であるとか、何か問題があったらこの能力者に頼ろうとか、能力者に対するそういう依存心そのものが、われわれ自身が実は現実を創る潜在的な能力を持ってるのだと気づかせることを無限に遅延させていくわけです。それがスピリチュアル系の文化だとしたならば、それは間違ってると思いますね。

西塚 そこなんですよね。さっき真偽とか正邪とかで分けるその枠組み自体がおかしいんじゃないかというお話がありましたが、それもまったくそのとおりだと思うんですけども、僕が気になるのはですね、たとえばいろいろいるわけですよ、その能力者にしても。

要するに、ちょっと具合が悪そうだなと思えば、たとえばお酒はやめなさいとか、タバコを吸うのをちょっと控えなさいとか言うとする。それは自分に能力があって、このままいくとその人がおかしくなっちゃうことがわかるから言うわけですね。でも、そういう能力がなくてもですね、適当なことはいくらでも言えるわけですよ。それで実際に商売してる人もいるし、そういった意味でも、その能力が本物かニセ物かというのは、僕はわりと無視できないポイントかなと思うんですね。

実際、霊能力者はいるし、大きなところで言えば、僕は霊能力とか超能力というのは、たとえば人より足が速い人はいますね。フィギュアスケートの羽生(結弦))にしても、最高点を出してしまうとか、ああいう能力の優れた人っていると思うんです。もともと向いていると言うか、人ができないことを軽々とやってしまうというスキルを持ってる人はいるわけです。あるいはある種の専門家であって、医者だったらパッと顔色を見て、あなたちょっと肝臓が悪いよと言えるのは、知識として学んでいるものだから、普通の人がわからないことでもパッと言えるわけです。

それは能力と言えば能力ですね。僕はそういった意味での能力のひとつだと思うんですね、霊能力というものは。でも、ヤブ医者と良い医者がいるのと同じように、霊能者にもいろいろいるということです。だから、やっぱり本物かニセ物かということはきちっと話しておいたほうがいいかなって気がするんですよね。

ヤス もっと言うと自分が本物になればいいってことですよ。自分が本物になるための方法論と言うかですね、どのようにわれわれ自身の意識を開拓していったらいいのかと。そういうことのほうがむしろ根本ではないかと思いますね。

西塚 それは根本ですね。

ヤス 根本。だからそれ以前にね、あの人は本物、あの人はウソだとかと言って関わっていくと、おそらくわれわれは軌道を逸らされるぞってことだと思う。

西塚 じゃあ、むしろヤスさんのお考えとしては、いろいろな細かいことはあるだろうけども、いっさい霊能力は関係ないというところから始めたほうがまだいいという…

ヤス おそらくいいでしょうね。いいんですよ、いても。いるのは当たり前なんだから、ゴロゴロと。すごいものはすごいと認めていいんですよ。だからと言って依存しちゃあ、やっぱりわれわれの内面に潜む力、潜在力といったものを開拓するときの邪魔になるってことです。

世界の「解釈」と「実感」

西塚 僕もそれは賛成なんですけども、じゃあもっと違う、霊能力じゃないところ、サイキックとか、あるいは宇宙人とかですね、コンタクティーもありますが、まあビリー・マイヤーもそうですけど、コンタクティーはどうですか? われわれ地球人よりはるかに進んだところからある情報がもたらされると。それは人類の未来だったり、いろんな科学的な技術のこととかですね、体のことにしても、治癒能力がかなり進んでるらしいというようなこと。

あれは霊能力と言うよりは、チャネリングかなんかで情報を伝えられるってことは、それはやはり外部に情報を伝える存在がいるということなのか、何なのか。そのへん、ヤスさんのお考えとしてはどうですか?

ヤス いてもいいだろうし、いなくてもいいわけですね。少なくとも世の中にそのような現象はある。その現象をどのようにしてわれわれが理解できるのか、解釈できるのかということは別の問題だと思うんですね。現象があるということは、現象があるとおりに認めたほうがいいと思うんです、まずね。だからと言って、どういうものにしろ、自分が妄信したらダメだなと思いますね。

西塚 僕もそこが歯がゆいところなんですけど、科学的な態度というのは現象をそのまま認めるということですよね。じゃあ、それは何なんだということを解明していくと言うか、その原因なりをどういうことなんだろうと究明していく立場が科学なら科学にありますね。僕もそちらのほうと言いますか、それを知りたいわけです。現象はあるんだけれども、どうしてあるのかということなんですが。

ヤス その答えというのは、どのような答えにわれわれが満足するのかなんですよ。われわれの三次元的なかなり小さな世界観がありますよね。すべてその小さな世界観の中にはめ込んでいかないと、われわれが理解したことにはならない場合もあるわけですね。逆にそうではなくて、われわれの意識そのものを広げてね、3次元的ではない宇宙も実はたくさんあり得るという形で、意識そのものを広げないとわからない現実も多々あるってことだと思いますね。これが真実だと言うことが、自分自身の限界なんですよ。これが真実だと思ってる自分自身が、どういう限界を持った存在なのかということだと思いますね。

ちょっと話が複雑になりますけど、ひと言で言うと、おそらくわれわれは今、意識をどんどん拡大しなくちゃならないような時点に生きてる。拡大するための方法論に飢えているわけです。そしてそれを拡大したときに、どのような世界がわれわれを待っているのか。われわれはそこにひとつの光明を見出そうとしてるわけですね。それをひとつの基準としたときに、どのような知識が邪魔になり、どういう知識が利するものなのかという判断が、僕は重要なんじゃないかなと思います。

西塚 まったくそう思います。それが今後ビリー・マイヤーの話にもつながっていくんですけども、たとえば高次元の存在がいて、それこそユニバースじゃなくてマルチバースであるとかですね、もしそれが事実だとすれば、そういうこともまだ確定できていないし、今はわからないじゃないですか。

そういうものは知らなくてもいいし、私は死ぬまで健やかにすごせればいいという人もいていいと思うんですけども、そうじゃなくてもっと追及したい人とかですね、世の中の矛盾があるとすれば、現時点では解決できないことも、そういう知識とかを獲得することによって解決策が与えられるかもしれないといった意味で、やっぱり必要な知識はあると僕は思うんですね。

だから結論は留保して、結論は最終的にはないと個人的には思ってるんですけど、やっぱりわれわれは進化と言うか進歩していくものであって、われわれは常にその過程にいるのではないかと思います。どこかで停滞するというのは、あまりよくないと言うか、つまらないかなと僕は勝手に思っているわけです。

ヤス たとえばそのマルチバースという考え方、多世界解釈とも言われてるけど、それを学説として理解することは可能ですよ。それとわれわれがまさにそうだと実感することとは、次元が違うということなんです。全然、違うと。だから知識としてわれわれがそれを導入することと、それを実感することはまったく違う。一番重要なのはこの実感なんですよ。

西塚 そこなんですね。その実感と言うのは、やっぱり武道だったら稽古、本を読むことであれば書籍と。たとえば若いときにマルクスの「資本論」をガンガン読んでるときに、わからないとしますね。でも、読みこなすことによってだんだんわかってきて、ある種パッと目が啓かれるわけじゃないですか。そういう実感ですね。それに似たような実感、体感、経験ですね、僕はすごく大事だと思うんですけど、それはやはり知識なら知識を検証したりとか、本なら本を読むという、そういう行動でしか得られないんじゃないかと思うんですよ。

ヤス 確かにそう。それはまさにそうなんですね。ただ、単純な知識では無理なわけです。それをどうやって実感化するかですね。たとえばマルチバース的な発想というのは、おそらく何か特定の意識状態になっときに初めて見えてくるようなものだと思うんですよ。そのような意識状態にわれわれがなる。または、そのような意識状態になる潜在力をどうやって開発するのかというところにこそ、焦点をおくべきだと思いますね。

西塚 そう思います。僕はそれはひとつは思考だと思います。考えるということです。考え続けるということですね。考えるというのは、たとえば禅問答のように考えてもいいんだけども、それよりはいろいろ知識を得てですね、そこで考えていく。

その新しい知識という意味で、高次元からかもしれない情報とかですね、霊能関係のいわゆるスピリチュアル系なんかの話にも真実の欠片みたいのがあって、そのモザイクをどう組み合わせていくか。その緻密な思考運動の中で、ある日その実感というものを得られる人は得られるだろうし、そういう作業の中にしか僕は可能性がないような気がしてるんです。

ヤス まあ、基本的に作業ですよね。ただ、おそらくそれは思考には限定されないんではないかなと思いますね。

西塚 そうですね。何でもいいでしょう。草むしりでもいいかもしれない。

ビリー・マイヤーの「純粋観察」

ヤス たとえば去年、一昨年かな、ハンク・ウエスルマンという人類学者と、シャーマンなんだけど、彼と対談したときに、私は世界というのは実に多くの次元でできてるということはよくわかるんだと。われわれの脳波というのは、違った脳波というのを分泌可能でね。それぞれの異なった脳波に合わせた世界性があるんだって言うわけね。私が体験したのはθ波の脳波が見せてくれる世界なんだと。5ヘルツとか6ヘルツのかなりゆっくりした…

西塚 眠るくらいですね。

ヤス そうそう。入眠幻想を見るような感じ。あの脳波の世界にいくと全然違った生き物が存在していて、まったく別次元の世界だって言うわけです。

西塚 それ、わかるなあ。

ヤス そのような理解でいくならば、世界が多次元的にできているのは当たり前で、私はそれを実感すると。だから、おそらくわれわれには、そういう世界の多次元性を実感できる潜在力があるはずだと。この潜在力を開拓するために、まず何をしなくちゃならないか。これをやれば潜在力を開拓できるというところまでは、僕は結論を持ってないんですけど、ただ何をやっちゃダメなのかはわかる。それは何かと言うと、特殊能力者に依存することですよ。

西塚 NG事項のトップにくることですね。

ヤス トップにきます。それから、頭から入った特定の理論を信奉しないことですね。信じ込まないってことです、やっぱり。

西塚 そうですね。その実感は、僕は武術とかにも絡んでくるんですけど、それはおいといたとしても、たとえば三島由紀夫がこういうことを言うわけですよ。能がありますよね。能は稽古をいろいろして、わけわからないんだけどいろいろ習って、最後に、よし、お前は大丈夫だというときに、何か巻物をわたされるらしいんですね。その巻物を見ても、月がどうしたとかそれしか書いてない。何の方法論もないわけです。でも、わかるらしいんですよ。あ、これだ!というのがわかる。

それはやっぱり稽古を積んできて、そのお師匠さんがこいつはもう大丈夫だなあというときにそれを見せるわけですから、そこで免許皆伝とかになるんでしょう。それは普通の人たちが見てもわからない。月がどうしたこうしたって何じゃこりゃと。詩なのか俳句なのかわからない。けれどもわかる。これだ!と。そこにいたるまでは相当こう、ある種の努力なり…

ヤス それは間違いないと思う。

西塚 経験値を上げていくというね、ことがあるだろうと。それは比喩的に言ったわけですが、おそらく思考もそうで、いろいろなスピリチュアル的なもの、本とかもそうだけども、繰り返し読んだり、討論したりとか話したりということの果てにですね、何かつかむものがあって、それをつかみ続けていくということでしかないのかなと思うわけです。

そうしたときに、ヤスさんがおっしゃったように、まず依存はダメだし、その最たるものが霊能者であるってことになると思うんですけども、そうすると単純に依存するな!で終わっちゃう話になりますね。だからダマすと言うか、霊能者のほうの問題も僕はあると思っていて、要するに自分が特殊能力を持ってると思い込んじゃう人っているじゃないですか。

ヤス いるいる。

西塚 私は霊能者、霊能力があると。たとえば普通の人もですよ、何か今日、イヤな感じがするとか、何かのサインを見て、それを結びつけちゃって今日は外に出ないほうがいいとか、あの人に会おうと思ったんだけども、こうこうこうだから止めると。あるいはお告げがきたとか何とかってあるじゃないですか。そういうことはどう思いますか?

ヤス 感情と直感はちゃんと区別せねばならないと思うんですね。自分の内部からこみ上げてくるような思いをね、自分自身が信奉するってことは間違ってますよ。自分自身の内部からこみ上げてくるものに対してはね。

ビリー・マイヤーの面白い本で「瞑想入門」という本があって、分厚い本なんですけど、そこに「純粋観察」という言葉があるんですね。要するにすべての感情を捨てるわけですよ。すべての感情を捨てて、自分の内部、自分の心の中で何が起こっているかをただ純粋に観察するんです。たとえば怒りであるとか、お告げを得てるという確信を私は思っている、とかね。心の中で起こっていることをすべて距離感をおいて観察するわけですね。そうすると、われわれの心はさまざまな心理的なプロセスででき上がってるということがよくわかってくる。きっとそれが第一歩なんだと思う。

西塚 いみじくも18世紀にカントが「純粋理性批判」を出しましたけども、「純粋感情批判」みたいなものが求められていると言うか(笑)。

ヤス まあ、言ってみればね。これをすでにやったのはフッサールなんです。フッサールは現象学的還元ということを言ってます。エポケーと言って、自分の感情も、たとえば目の前の物がここに存在するということも、すべてをクエスチョンマークにして括る。

私はコップがあると思っていると。その思っているという自分自身の感情を観察するわけですね。バーッとね、かなり長距離で。そうすると、われわれの心というのはいろんな心のプロセスででき上がっている。まさにそのような心のプロセスによって、実は世界全体が構成されてるってことが見えてくると言うんです。

西塚 そうですね。よくスピリチュアル系でも言われる最終的な目ですね。視点というものがあるわけで、たとえば幼いころの記憶はみんなあると思いますが、よみがえるわけですね、誰でも。あのときこうだったなとか、今でも誰でもすぐできますね。でも、それを見てる自分の目というのはずっと変わらないと。

たとえばどこかにいく。新宿にいって、あのデパートにいってという想像もできるけども、それを考えてる自分は変わらないし、常にいる。その目が本来の自己であるというような、そういう言い方のスピリチュアル系の本がいくつかあって、僕はある種の真実をついていると思います。でも、その解釈の仕方とか、自分の理解の仕方によって全然変わってきますね。要するに、行動に反映されなかったりとか、あるいは間違ったことをやるとかね。

じゃあどうしたらいいのかというときに、たとえばこの対談のような場で話されたことが、ひょっとしたら何かの参考になるかもしれないし、媒体物も発信していかなきゃいけないなと思うんですけども、それはさっきの霊能者がどうのこうのという話とも全部つながっている気がしています。

じゃないと本当に、お前頑張れよとか、とにかく依存すんなよとか、依存は絶対ダメだから、あとは自分で自己を確立して、自分で体験するようにと。あなたが何をするかわからないけど、励んでください、で終わっちゃうじゃないですか。そこはもうちょっと生々しくと言うかですね、僕なんかもいろいろバカやってきてますから、自分の失敗談とかも含めてどんどんどんどん出していきたいなと。そっちのほうが僕はいいような気がするんですね。

ヤス 確かにね。ビリー・マイヤーの純粋観察の過程で何がわかるかと言うと、もろもろ現在われわれが見ている世界といったものが、われわれの心のプロセスによって構成されてるのが見えるらしいんですね。そこで最終的に何を実感するかと言うと、ああ、なるほどと、私の生きている世界は私自身の心が構成しているのだってことを直に体験するわけですよ。実は私が現実の創造者なんだってことを体験する。その体験というのは、本来の基礎にあるべきような体験なんだろうなと思います。そこがビリー・マイヤーの面白さだと僕は思いますよ。

西塚 面白さですよね。そこに確度と言うか、確信をしないと現実の創造がうまくいかないということもありますね。それを邪魔する最たるものが、僕は恐怖心だと思うんです。ひと言で言えば。その恐怖心は本当にまやかしであるというね。

ヤスさんもこれまで何度か直感ってことをおっしゃってきたわけですね。何か自分が判断するときに、これは恐怖心から出ているものなのか、あるいは嫉妬、怒り、悲しみ、要するに余計なものから出てきてる場合は、もうほとんど100パーセントあてにならないから全部無視していくという。

そうじゃないもの、もっとこみ上げてくるものって言うんですかね、そのへんの表現は難しいんでしょうけども…

ヤス 非常に客観的な冷厳な判断。

西塚 そう。これはこうなるというよりも、むしろ判断の結果としてしか出てこないようなもの。そのへんの見極めって、でも難しいですね。

ヤス 難しいと言うか、客観的な基準はないわけですよ。

西塚 ないですよね。実感しかない。

ヤス 実感しかない。そのような実感が与えられるようなひとつの境地というのは、今言ったように純粋観察から得られる境地だと思いますよ。要するに世界全体をあるべきものとして構成しているのは、私の心の作用なんだと。そういうような形で自分自身の心に対して距離感をおいて眺められれば、それは極めて大きな確信の基準になると思います。

西塚 まったくそうですね。僕もそんな広範囲に読んでいるわけじゃないんだけども、僕が腑に落ちると言うか、理解できるなという本もだいたいそういうことを言っています。だから今回、ヤスさんに訳していただいた『Web Bot』ですね、クリフ・ハイの。あれも最後がよかったですね。もうサーフィンしようぜ!って言うね。そろそろ僕のサイトもアップするのでヤスさんに訳してもらったものはお届けできると思うんですが、あれですよ。まさしく。

サーフィンは、足もとの荒波と何もないきれい空間の、その狭間でバランスをとるわけですね。そのときにもう時間は消えるし、頭でも操作できないし、ある種の身体感覚にまかせるしかないという。その感覚なんだとクリフ・ハイは言うわけです。僕はクリフ・ハイってこういう人なんだと思ってびっくりしたんだけども、僕がよく言うゼランドと同じことを言ってるし、ヤスさんが言ったことにもつながる。そこの境地というのは、さきほどおっしゃっていた観察、全部客観視するということにもつながります。

ヤス そうですね。ビリー・マイヤーの本では純粋観察と言ってますが、もう徹底的に論理的な、感情をすべて捨て切った観察ですよね。

西塚 そうか。ビリー・マイヤーの本は僕も全部読んでないからわからないですけども、瞑想ひとつとっても、ヤスさんもメルマガで書かれてますけど、蝋燭の火とかね、あるいは別のものでも、具体的な方法論がありますからね。たぶんそういう本はなかなかないと思うんです。

たとえば秘術として、ヤスさんも前に触れられたグノーシスとか、密教的なものの方法論はあると思うんです。でも、いわゆる秘伝とされていたりしてオープンではないし、危ないものもあるかもしれません。そのへんはまた検証されるべきでしょうけども、でもビリー・マイヤーの本にはわかりやすく書いてあるから、それをみなさんとも考えながらお話ししていきたいというのが趣旨なんですけどもね。

ヤス そうですね。

西塚 その前にもうちょっと、その霊能者とか何とかをやったほうがいいと思ったんですけど、いらないですかね、別に。

ヤス いや、やってもいいですよ。

西塚 でも、その話はすぐ終わっちゃいますもんね。それはいらないんだよってことで。

ヤス いや、たとえば、われわれの世界が多次元的にできてるのであれば、恐ろしく邪悪な低い次元の世界とつながってる人たちもいるわけだしね。

西塚 そうそう。僕はそういう話をちょっとしたほうがいいかなと思ったんですよね。

ヤス いいですよ。たくさんいると思いますよ、そういう人は。非常に危険だしね。

西塚 そういう情報自体がですね、ちょっと傲慢に聞こえちゃうといけないんですけども、ヤスさんもご経験があるし、僕もそれなりに経験があります。そういうことを出すことによって、あ、そういうこともあるんだと。これを読んだ人たちがもし似たような経験をされていて迷ってるとしたら、あ、こいつはこんなことを言ってるけれども、私もこれと同じ体験かもしれないぐらいのことは、わかるかもしれないじゃないですか。それぐらいの意味ですね。

だから、もうちょっと自分の経験も含めて、こんなのがあったけどこうだったとか、俺はこう思うというものを、もうちょっとヤスさんと出したいかなとちょっと思ったんです。

ヤス ええ、いいですよ。全然いいです。

西塚 そうするともう、ブワーッと一時間終わっちゃうので、ちょっと分けながら、僕ももうちょっと構成を考えないといけないんだけども、そういうことも話していきたいなと思うんですね。ビリー・マイヤーのことだけでもいくらでも話はありますが、ちょっといくつか構成を分けて考えます。もう25回になりましたし、きちっとした文章でも出せるようにしたいなというところですね。

もう時間もなくなりましたが、ヤスさん何かありますか?

新しい世界認識とは?

ヤス やっぱり21世紀になってインターネットの社会に入って、SNSがどんどん拡大している。これが違った世界性をわれわれに明示してくれると言うかね、違った世界に対する体験をわれわれにどんどん開示しているって側面があると思います。それはいろんな意味があるんだけども、やはり非常に示唆的な体験というのは、世界の多次元性の体験だと思いますよ。実は世界というのはかなり多次元的にでき上がっている。客観的にそうだというよりも、もともとはどうもわれわれの心のプロセスによってでき上がっているのではないかということです。

西塚 そうですね。そういった意味では無限だと思います。

ヤス 無限。実はその多次元的な世界をわれわれ自身が構成する能力があるってことね。そのような自らの潜在能力に対して、ある意味で体験的に目覚めるということ。それがインターネットの交流とともに進んでくるという側面が僕はあると思います。

西塚 わかります。そこでひとつのパラドックスとして次回おうかがいしたいんですけども、世界は自分が創っていると言ったときにですね、他人も自分が作るというふうな考えありますね。だから人によっては全部俺の妄想なんだという話になっちゃうんだけども、そうではないという考えもあります。

たとえばゼランドが言うには、それは傲慢な考え方であって、生きてる人たちにはちゃんとそれぞれの魂があって、それぞれ生きてるんだと。だからひとりの人間の頭の中で全部創られたものじゃないと言うわけですね。そのへんの兼ね合いはどうなってるのかということは、それこそマルチバースとパラレルワールドにも関わってくる話になるんだけども、僕はそうじゃないと思ってるんです。

けっこう難しい話になってきますが、ビリー・マイヤーを軸にそのへんのことも話せると思うんですけどね。

ヤス いいですよ。ただ最後にひと言言うと、われわれが今喋ってる次元ってね、20世紀の初めの議論なんですね。いや遅れてるってわけじゃないですよ。それは何かと言うと、フッサールの現象学ってありますでしょ? フッサールの現象学が最終的にぶち当たったアポリアがあるんですね。アポリアって大きな謎です。われわれが世界を創っている。ひとりひとりのわれわれの心のプロセスが世界を創ってるとしたならば、なぜわれわれは集団として同じ世界を見てるのかっていう問題なんですね。

これはフッサールの現象学の非常に大きな難問としてある。その難問を脱する過程で「共同主観」という言葉を使った。実はわれわれの自我の一部というのはすべての人間と同じ形をしているんではないかと。だから同じプロセスで同じ世界を創り出しているのではないかというところいくわけです。共同主観ということで。そこまでいってフッサールは死んだんですよ、1938年にね。それ以降、現在までつながってくる現象学の歴史は、その共同主観というのは何なのかと。

西塚 僕はフッサールは詳しくないので言えませんけども、ひとつの解答かもしれないことがゼランドにあって、たとえばわりと単純な話なんですよ。世界は確実に存在しているし、人もいろいろ存在しているんだけれども、それぞれが見る世界が違うだけであって、見る人間の数だけ層があるということです。

単純にクリスマがきたと。それで街にジングルベルが流れてる。クリスマスの華やかな街のシーンでもいろんな人がいるわけですね。かたや浮浪者でゴミ箱をあさりながら見てる人がいる。かたや高級自動車でウィンドーを開けて眺めている人もいる。でも同じ世界なわけですよ。見る人が違う世界を見てるって言い方もできるわけですね、同じものでありながら。

そこに僕はヒントがあるような気がしていて、ゼランドが言うには、そういう同じ世界なんだけれども、見る世界は自分で変えられるんだと。だから簡単に言っちゃえば、乞食にもなれるし金持ちにもなれるということです。そういう意味の多層観と言いますか、そういうものを提示してるんですね。共同主観とは全然違う話かもしれませんけども。

ヤス 貧乏人もいる。金持ちもいる。世界の中でいろんな視点をとることで世界の見え方は違うんだけども、いろんな視点をとることができるような世界そのものはね、みんな同じような体験をしている。だから金持ちにとっての貧乏人は貧乏人だし、貧乏人にとっても貧乏人は貧乏人なんですよ。そのように金持ちも貧乏人もいるような、この世界全体をみんな同じように体験しているんだと。

同じような体験を創り出しているような人間の心とは何なのかってことですから。そこで出てきたのが共同主観だってことです。

西塚 たとえば地球があって、何も生物がいないと。そこに人間がポッと生まれるわけです。そこで世界が始まりますね。それでもうひとり人間が出てくると。そうすると、またそいつから見た世界が始まるというような形で、重層的に世界ができてるという言い方をするわけです。そうすると、人類がいなくなった時点で世界はあるのかという話にもなってくるわけで、ものすごく哲学的な話になります。

ビリー・マイヤーはいわゆる高次元からのコンタクトということで、書籍の中に高次元の見方・考え方があるわけですね。そこには今僕みたいな者が話してる以上のロジックがあるわけです。それはもうちょっと出して、検討されるべきだなという。

フッサールの共同主観についてはちょっと勉強しますね(笑)。

ヤス フッサールは難しいですよ(笑)。

西塚 本はあるんですけどね。くじけたんです、途中で(笑)。

ヤス フッサールは共同主観ということを言って死んだんだけども、その共同主観がどういうものかという、ある意味で決着みたいな結論を出したのがメルロポンティですね。それはいわゆる自我ではないと。我々の身体であるということを言ったわけですよ。

まあ、ちょっと説明してるとすごく長くなるので端折りますけどね。いずれにしろいくつかの簡単な結論はですね、世界をこのように創り上げているのは実は心の作用なんだと。第二に、すべての人間が同じような世界を仮に見てるとしたならば、心のどこかの部分というのはだいたい共通してるのではないかということね。

大脳科学者が同じような共同主観の問題を大脳科学的に解釈するわけですよ。脳の神経学的なプロセスとして。このようなプロセスが世界を形成してるってことを探り当てるわけですよね。

西塚 なるほど。いくつか軸が出てきましたのでそれをまた次回以降、僕の質問という形でやっていきたいと思いますけどもね。

ヤス 現代のスピリチュアル系というのは、おそらくね、僕はかなりマイナス要因のほうが強いと思う。現代に生きているわれわれに要求されているのは、現実の形成者の主体になれるような自分自身というものを再発見することなんですよ。すなわち現実そのものを構成してる主体になっているのはわれわれなんだってことね。現実を創り変えられる潜在能力をわれわれが持っている。その潜在能力をわれわれの内部に発見するということが、一番大きな課題なんだと思いますね。

一方、スピリチュアル系にいくとね、特殊能力者がたくさんいると。そういう特殊能力者は未来も当ててくれれば、健康問題でどこが具合が悪いかも言ってくれれば、過去もどんどん当てると。そのような能力に圧倒されてね、フォロワーになって依存してしまう。依存すればするほどね、現実を構成し、現実を変革することも可能だというわれわれ自身の主体の自覚化が、どんどん無限に遅延されるってことですね。これはやっぱりやっちゃいけない。

西塚 それはもう、ビリー・マイヤーに伝えたとされる高次元の存在に言わせると宗教だということですね。依存の最たるものであると。大きな宗教が自分の主体性の自覚を延々と遅延化させる装置になってるということですよね。そういう話につながると思います。

ヤス 人間の持っている潜在能力。これを開発するにはどのような方法論が必要かということを、体系的に語ったところがビリー・マイヤーの価値だということです。

西塚 わかりました。どうしてもやっぱりそこにいくしかないな。では次回、もうちょっとそこは突っ込んでやりましょう。今日はどうもありがとうございました。酔っぱらっいました。二日酔いですけど。

ヤス いえいえ、こちらこそ。

Commentコメント

お気軽にコメントをお寄せください

メールアドレスが公開されることはありません。