だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

世界の創造~ゼランド編⑯の1

すっかり間があいてしまった。

とても重要な書籍にかかっていたら(私にとって)、あっという間に時が過ぎた。ほかのことができなくなっている。ゼランドじゃないが、重要性を引き下げなくてはいけないかしら。

久しぶりだが、あまり時間がないので、日常周辺のことを雑記的に書こうかと思ったが、やはりゼランド編にした。

日常的には、一俳優の引退騒ぎから仮想通貨まで、いろいろ書きたいことがあるのだがまたにしよう。

トランサーフィンモデルから見た、「運命」や「予知」「予言」について書く。

これはすでに以前のブログで何度も触れているので、過去記事のどこかにあるだろうが、まあいいか。

わりと単純な話だ。と同時に深刻でもある。

「運命」に関しては大きく 3 つの考え方がある。

ひとつは、運命は自分で変えられる、創る、自由自在だという考え方。

もうひとつは、運命はあらかじめ決められていて、どうにも抗えないというもの。

3つめは、ふたつめのバージョンアップ版で、運命は過去からのカルマ、前世の行ないなどの影響を受け、さらには天や神、宇宙、地球外生物にいたるまで、人間にははかりしれない何かしらの力によって、使命や宿命をもたらされていて、それを探す旅が人生だみたいなもの。

おおよそ「運命」に対する考えはそんなところだろう。しいていえば、そんなのどうでもいい、「運命」自体について考えたくないという考えもあるかもしれない。でも、これもよくいえば、ひとつめの考え方の消極版だ。

トランサーフィン流にいえば、それらの考えは「すべて正しい」となる。同等ですらある。

当たり前だ。

トランサーフィンの立場からいえば、世界はあなたが世界に対するときの態度や考えを、文字どおりそのまま反映させ、現実化させるのだから。

世界は鏡なのだ。

あなたの態度、思考をそのまま映し出す。

ただ、この次元では、明晰夢を見ているときのように、目の前で瞬時に現実化が展開されるわけではなく、多少の時間がかかる。

その時間は、現実化される内容による。あ、この子と仲よくなりたいと思い、仲よくなれると思っていることが現実化するスピードと、総理大臣になりたいと思って、総理大臣になることが現実化するスピードは、そりゃあ、違うだろうってことだ。そのうえ、その現実化に対してその人がどこまで確信を持っているか、という問題だってある。

世界は鏡なので、鏡に自分の顔が悲しそうに映るか、あるいは楽しそうに映るか、あらかじめ決められているのかどうかを鏡に問いただしても意味がない。

運命は決められていると思えば、今のあなたの世界に対する態度や思考があるがままに映し出され、運命は自分で創り出すと思えば、あなたがそうありたいと思うことが映し出される。

つまり、「選択」の問題だ。「運命」に対してあなたはどう考えるか、どの考え方を選ぶかということだ。

あくまで私個人の考えとして結論めいたことをいえば、ゼランドは運命はもちろん自分で切り開いていくもので、それは実は簡単なことである、けれどもそれを簡単にさせないような「構造」がある、各自が勝手に自分の運命をコントロールしては困る「もの」がいる、だからその構造に対する知識をまず持ち、あとは自分自身で好きなように対処して、好きなように生きていけばいい、そしてその方法はあるのだ、といっていると思っているわけだ。

ちなみに、各自が自分の運命を思うままにコントロールしては困る「もの」が「振り子」であり、何かの悪魔主義者グループとかイルミナティとかではない。

というか関係なくはないが、それらのグループそれ自体ではなく、やはりある種の「構造」から必然的にでき上がる形体であり、そういったものは会社の中でも、学校のクラスの中でも、近所付き合い、恋人同士、どこにでも影響を及ぼしてくるものなのである。

そういうエネルギーだ。というか「構造」だ。だから、その構造をよく知れば対処できる。

「運命」という名の川をゆく小舟に乗っていても、その知識さえあれば、ときどき自分の手で梶棒を握って、荒瀬や岸に乗り上げそうになったときにちょっと漕いで軌道修正すれば、また川を進んでいける。

知識がないままに川の流れにまかせると、ときには小流に入り込み、行き止まりを食ったり、場合によっては滝壺に落ちていく。

知識があれば、周囲の状況変化から滝壺が近いことがわかり、ちょっと停まってみたり、ちょっと漕いで方向転換ができるが、知識がないとあっと思う間に流れに引き寄せられ、もはや自分の力では逃れられなくなってしまう。

このあたりは、私個人もよく知っていることで、実体験からも詳細を述べられるのだが今は控える。ましてや今、さらに実験していることがあって、これは私の思うとおりのことであればすばらしいことなので、私が身をもって検証し、確信することができたあかつきには、ここでも記事に書いてみる。

実際、私の人生はある種の実験であり、自分の身をもって「生」を確認する作業だ。

検証も予想もその過程においてされるが、私にとっての「結果」はあくまでも最後にくるものであり、その「結果」さえも「生」の流れの過程にある一地点でしかない。

つまり「結果」すらも、またその後に続く「生」の「あり方」で、その意味合いがすぐに変わるのである。ましてや「結論」となると、貧弱な「理性」がその場しのぎで納得するための「一形式」でしかない。

ちょっと脱線したが、とにかくその「構造」に関しては、これまでのこのシリーズ?の中でも検証してきたことなので、繰り返すことはないのだが、ことが深刻なだけに何度立ち戻ってもいいと私は思っている。

なぜなら、その「構造」が今は世界規模で最終段階に近づいているからだ。「構造」が完璧に完成されると、
個人の自由はおそらくなくなるだろう。

あったとしても、それはおそらく奴隷の自由だ。人間に飼われている牛たちは、外敵に襲われたり、外敵と闘ったりする面倒や危険性、恐怖などからは解放されている。食料すらも自分で獲得する必要がなく、つまり安全も食糧も住居もすべて人間によって与えられているが、行き着くところは……ご存じのところだ。

ビートたけしが今、Yahoo でアップされてる人工知能に関するインタビューで、われわれがスマートフォンを持たされたとき、これは「手錠」だと思った、といっている。けだし名言だろう。

スマホはわれわれをある種がんじがらめにする。通信手段やコミュニケーション手段として、なくてはならいものになり、そのかわり自分がいる場所も特定され、お金まで搾取されている。お金の流通手段としても欠かせないものになっている。そして、そうしたすべての履歴がストックされる。この流れは今さら止められない。たけし流にいえば、スマホは奴隷に嵌められた手錠だ。

これはいい、わるいをいっているのではなく、現状認識のひとつだ。まあ、ここまで悲観的な言い方をしなくてもいいとは思うが、そうした要素があることは確認しておいたほうがいいと思う。

いわゆる「奴隷根性」が身に沁みつくと、何かを変革したり、新しく創造したりする気概、気力が薄れる。そういう状態にしておきたい「構造」がそうさせるのだ。

そんな「構造」はいとも簡単にぶっ壊せるし、「構造」が一番怖がるのは「構造」を破壊できるという「知識」であり、その「方法」を持った民衆なのである。

だから、そうした「知識」や「方法」が広まらないように躍起になり、あることないことを巧妙に情報として垂れ流す。そんなクズ情報に引っかかってはならない。

まだまだ「運命」と「予知」「予言」のことは書かなければばらないが、ちょっと仕事に戻ります。明日くらいにまた続きを書こうかと…

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