だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting vol.14 「宗教とは何か?」

人気ブログ『ヤスの備忘録』でもおなじみ、
社会分析アナリストの高島康司氏をお招きして、

1 世界で今、起きていること
2 人間の新たなる「精神性」「意識」「思考」

について、飲みながら自由闊達に話すシリーズ。
基本的に毎週更新。

〇『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』第14回
「宗教とは何か?」

ゲスト:高島康司氏
聞き手:西塚裕一(五目舎)
2015年9月27日 東京・中野にて収録

西塚 『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』です。今日は13回になりました。

ヤス 14回です。

西塚 あ、ごめんさい、14回です。もうすでに酔っぱらってますね。すみません。今日もよろしくお願いいたします。で、あの…

ヤス まず、いつものように、カンパーイ。

西塚 ああ、そうですね、カンパーイ。よろしくお願いします。

ヤス アハハハ、酔っぱらってますね。

ベイナー下院議長の号泣の理由

西塚 急激に飲みすぎました、さきほどから。

あの、前回からの続きでやりたいんですが、その前にですね、いつもの通りと言いますか、時事問題ですね。ヤスさんのご意見というか、ご感想をおうかがいしたほうがいいかなと思います。今週は米中の会談がありましたね、オバマと習近平の。僕はサラッとしか見てませんが、決裂とまでいかないのでしょうが、何かふたりとも苦虫を噛み潰したような顔をしてましたね。率直な意見を取り交わしたとありますが、そうした表現は外交上はあまりよろしくないということだそうで。何もまとまらなかったに近い。反面、ローマ法王の訪米は盛り上がったようですね。どうですか、そのあたり、何かお気づきの点とか、ひと言ありますか?

ヤス そうですね、中国がいかに脅威かといったような、いろんなイメージが喧伝されてるようですが、基本的にはG2と言いましてね、アメリカと中国の間ではいわゆる戦争とか紛争はおそらくない。国がぶつかり合うことは基本的にないという前提で、さまざまな交渉が進められてると思いますね。たとえば、これは4月の記事なんですが、南シナ海でですね、アメリカ海軍と中国海軍が合同軍事演習をやってるんですよ。それは海上救助のための協力の演習なんです。だから水面下では軍事的な協力関係がどんどん深まってるんだと思います。

我々というのは、冷戦構造と同じような形で、アメリカと中国との対立を捉えやすいんですが、それは違うのではないか思います。冷戦期のアメリカとソビエトは、経済的に絡むところがほとんどないんですよ。ソビエトを中心とした社会主義圏というのは、いわゆる社会主義経済ということでね、自由主義圏からまったく切り離された別格の存在なんですね。まったく違ったシステムで回っていて、そこには非常に限られた経済的交流しかなかった。

一方中国は、アメリカ経済そのものが中国なしではやっていけないわけですよ。アメリカの多国籍企業の極めて多くの部分が、中国に生産拠点、開発拠点を持ってるわけだしね。アメリカからの膨大な投資も中国にきてる。じゃあ、中国のほうはアメリカなしでやっていけるかと言うと、やはりそういうことはない。EUが中国にとって最大のマーケットであると言っても、アメリカのマーケットは第2位ですからね。極めて大きな依存であるということ。両方とも経済的にあまりにも密接に結びついていて、切れるような関係ではないんです。

それを前提にいろんな問題が協議されてるということですから。今のサイバー攻撃の問題もかなり大きな問題ですが、あれがいわゆる大きな紛争や戦争にいきつくかと言うと、そういうわけではないと思いますね。

西塚 お互いが渋い顔をしたというのは、オバマ側が何かを依頼して中国が断ったのか、あるいは逆なのか。何があったんですかね?

ヤス 渋い顔というのは、サイバー攻撃の問題に関してだと思います。基本的には一番大きな問題だと思いますね。中国のアメリカに対するサイバー攻撃はすごく強烈なんです。どうも中国政府は、サイバー攻撃によってアメリカの2000万人の公務員のリストをすべて得たらしい。誰がどこで働いているか。それのみならず、アメリカの多国籍企業が持ってる機密情報は、ハッキングされてかなりの部分が盗まれてる。そういうことが日常茶飯事に起こってるわけです。

それに対して、アメリカが何とかしろと。お前の国の問題だろうと。当然、政府側のハッキング集団も関わってる。中国軍の中にありますから、そういう部隊は。専門の民間企業もやはり関わってる。お前のところで何とかしろと言っても、中国政府は認めないわけですね。いや、我々も被害者だと。お前の国だってやってるだろうと。全然、折り合いがつかない。そういうことが、渋い顔に出てるということじゃないかと思いますよ。

西塚 そうですか。もっと経済的な、アメリカ国債を売るなよとか、あるいは売るぞとか、そのへんの駆け引きがあったのかなあと思いました。

ヤス 売らないように言うことはできるけれども、中国政府は日本政府とは比べ物にならないくらい自立してますから。アメリカがどれだけ要請したとしてもね、アメリカ政府の言う通りに動くかと言えば、全然そういうことはない。

今回の一番の問題はサイバー攻撃の問題だったと思います。中国が脅威だ、すぐ戦争になる、中国を包囲しないと大変なことになると、散々騒ぎ立てられてますけどね。そういうタイプの問題の処理の仕方じゃないですね。サイバー攻撃という問題はあるんだけども、米中というのは一卵性双生児のように密接に絡み合ってるんですよ(笑)。お互いがないと生きていけない。その上で、どうやってその問題を処理しようか、といった話し合いだということですね。

西塚 ローマ法王の訪米に関してはいかがですか?

ヤス これから国連総会で演説するのかな? それがニューワールドオーダーの宣言になるんじゃないかと言われてますけど、そういうことはないと思います。ただね、昨日の僕の勉強会でもちょっと言ったんですけど、ローマ法王の持つ宗教の力というものをアメリカの政治において再認識した、非常に大きなエッポクメイキングのイベントだったのではないかと思います。

たとえば、ベイナー下院議長が辞任しました。ローマ法王に会う前から辞任は決定していたと思います。ベイナー下院議長はカトリックなんですが、ローマ法王が演説してる最中に号泣するんですね。延々と泣くんです。

西塚 感極まったんですね(笑)。

ヤス もうとにかく、波がボロボロ出てきちゃってる。ベイナー下院議長ってマフィアの親分みたいな顔をしてるじゃないですか? 2013年のアメリカ国債の債務上限引き上げ問題で、絶対的に共和党は折れないとして、アメリカ政府を閉鎖まで追い込んだ人物ですよ。その結果、米国債は1ランク格下げされたんですね。今までのトリプルAという最高の位置から、ひとランク格下げされたという大事件を起こした人物なんです。そこまで強硬で、我々の一般的なイメージから見たならば、アメリカ政界のドンという形ですね。それが涙を流してオイオイと泣くわけです(笑)。ローマ法王のスピーチでね。

それを見たときに、僕もそうですけど、多くのアメリカ人がある実感をした。宗教の力の持ってるすさまじさ。どういうことかと言うと、おそらく我々の心の非常に深い部分には、宗教的なものを受け入れて、それに対して敏感に反応する心のレイヤーが存在するということです。

西塚 ベイナーが号泣したというのは、僕は勉強不足で知らなかったんですが、ローマ法王の発言はそんなに感動的だったんですか? 新聞の記事では、難民のことに触れたとありましたが、他に何か言ったのか…それともそばにいるっていうだけで感極まったのかな…

ヤス おそらくそばにいるってことですね。ローマ法王は別に大したこと言ってないんですよ(笑)。我々、信者じゃない人間から見たら、へえっていう程度ですよ。いいこと言ってんなあという程度。アメリカ人はみんなね、どこかの時点で難民だったんだから、難民を受け入れようとかね。死刑は絶対いけないとか、そんな程度です。

西塚 じゃあ右翼が、天皇陛下がきちゃったみたいな感じですかね。

ヤス 右翼にとっての天皇陛下以上でしょうね。右翼というのは天皇陛下を礼賛していないと思いますよ。自分たちのイデオロギーの礼賛であってね。イデオロギーにマッチする天皇陛下は礼賛するだろうけども。

西塚 だとすれば、たとえがいいかどうかはともかく、末端の創価学会の信者が、池田大作が隣の席にいてという…

ヤス ああ、そうですね。それに近いと思います。

西塚 それで思い出しましたが、久本(雅美)とか柴田(理恵)とか、まあ創価学会の人たちじゃないですか。けっこうお笑い界には多いですけどね。いつかビデオが出回ってまして、池田大作と会うシーンがあるんですが、それこそ号泣なわけです、ふたりとも。あれですね。

ヤス そうです、そうです。

西塚 だとしたら怖いな、ちょっと。

ヤス それは他人事じゃなくて、どんな人間でもね、我々の心の非常に深いところにはある意味宗教性といったものに呼応して、敏感に湧き上がってくる部分があるということなんですよ。その宗教性って基本的に何なのかと言うと、個を超えた超越的な存在の響きですね。

西塚 そこですね。たしか前回もそういうところで終わりました。安保法制の話に絡めて、今回は日本における民主主義の目覚めなんだと。それが個の目覚めになっていくだろうというお話でした。安倍の暴挙によってそのスイッチが入るわけですけども、その裏にはチーム世耕がいた。ものすごく緻密で、IT関係の知識も含めて、あるいは戦略も含めて、野党なんかとは比べ物にならないくらい、はるかに自民党のほうが上なんだと。それでずっとやってきて、その結果でもある。

安倍自体は、まあアホだとしても、かなり優れたブレーンがいただろうと。そこで全能感を持ってしまって、ヘタすれば世耕(弘成)なんてゲッペルスみたいなものですよね。それで思い出すのは、麻生(太郎)が、ナチスのような手法を参考にしたらどうかと言ったとか何とか、たぶんこれらは全部つながってる気がします。国民を操作するためには、ナチスのゲッペルス的な、マスコミを操る宣伝技術も含めて利用するべきだということが頭にあったのではないか。それが、あの人は正直だからパッと言っちゃった。いみじくも語るに落ちたって感じですが。

だから、ヤスさんの前回のお話で、ああそういうことかと。僕の中では個人的に結びついた。やられちゃったんだと、日本の民衆は。ヤスさんが29日に出されるご本にもあるでしょうが、怖いのは「盲点」ですね。ブラックスワンと言ってもいいですが、操作する側が全能感を持ったときに、その全能感のぶんブラックボックスみたいなものもあって、そこが出てくる可能性が高い。だからそういった可能性までもパースペクティブとして見て、抑えておくのが正しい知性だと。本来の知性なんだということですね。

それで日本の国として民主主義の目覚めに向っていくんですが、また個としても目覚めていく端緒になるのではないかということでした。それで、今回は「個」について話していければと思うんですね。前回はいろんなキーワードも出ました。「外部」とかですね、「国体」という言葉も出ました。日本以外の外、本当に外部としての外国と、「個」に還元して言えば、自分自身の内面ではない「外部」、要するに相手も個だと認めれば、自分も個としての相手にとっての外部になるわけです。その問題にどうしても入らざるを得なくなる。しかも、いわゆるスピリチュアル系の話にもつながらざるを得ないだろうというところで、前回は終わったと思います。

そこで個の話にいきたいのですが、どのようにおうかがいしましょうか。前々回の話では、これからは「個の処理」が一番問題だぞと。これからの世界は、我々人間が個を自分自身でどう処理していくのかという重要なテーマと向き合わなくてはならない。日本人だけに引きつけて言えば、安保法制からの流れとして、日本人の個はどうなっていくのか。ヤスさんの見立てとしてはどうでしょうか?

ヤス そこにいく前に、ちょっと問題を整理しますね。

西塚 そうですね、ごめんなさい(笑)。

超越性に感応する心のレイヤーの存在

ヤス いえいえ、そんなことはないです。さきほどのベイナー下院議長の話で、我々の心の中には、いわゆる宗教性と呼応し合うような心のレイヤーが確実に存在していると言いました。個を超えた超越的な実体に対して、自分自身を投げ打つと言うか、自分自身を溶け込ませると言うかね、溶け込むことによって、まさに自分自身が救済を得ると。

西塚 五体投地みたいですね。

ヤス 五体投地もそうでしょうし、個を超えた存在に包まれる。溶け入ることによってね、自分自身が救われたいという根元的な欲求みたいなものがあると思います。そのような欲求がスイッチオンになってしまった場合、どういうことが起るのか。

あまりにも宗教ということに無縁であった日本社会ではね、まわりで体験する人も少ないし、そういうふうな事例は我々はほとんど見たことがないということだと思います。

西塚 カルトくらいですね。

ヤス もしそれがオンになった場合は、人間って自分の人生を捨てちゃうんですよ。

西塚 ああ、実人生を捨てる。

ヤス たとえば、イスラム教のジハディストっていますでしょ? 自爆テロを引き起こすようなジハディストの人たちの感性というのは、それに近いものがあります。自分自身の人生というのは、まさにあの世における天国の至福を得るためにあるんだと。天国にいったら、どのような自分自身を感じるのか。神に包まれた状態とはどういうものなのかということを絶えず「祈り」を通じて経験してるわけですね。祈りで経験した、個を超えた超越的なものに自分が包まれるという実感。そこから実人生を歩んでいる自己を見てみると、あまりにもちっぽけで無意味なものに見えるわけです。

西塚 そこなんですけど、たとえば祈ることによってですね、そのつながる実感というのは本当にあるんでしょうか。イスラム教の場合、天国は本当に具体的じゃないですか。70何人の美女に囲まれてとか、飲めや歌えや、酒がある、肉がある、好きな物が食える、そういう天国ですよね。ものすごく、僕から言わせれば現世的であって、そんなものがんばって金持ちになって、自分でこの世でやれよと思うんですが、そういうふうにしか見えないんですが、それと祈ることによって神につながるという感覚が、僕はちょっと理解できないと言うか…

ヤス たとえばね、浄土真宗でもいいですが、いわゆる地獄がどんなに怖いものかといったような、おどろおどろしい絵巻がたくさんありますでしょ? それで、極楽浄土がどれだけ豊かなものかといった絵巻もたくさんある。あれというのは、文字も読めない、教養がないという、普通のね、当時の15世紀、16世紀くらいの日本人に極楽とか地獄というものをイメージさせるための方便として使われたんですね。イスラムにもそういう方便がたくさんあるわけです。

神の実在を自分が実感して、その実感した神に抱かれる。その抱かれた地点から、今生きてる自分を上から俯瞰するといった体験は、地獄がこうだからと描かれた絵のレベルとは全然違うんですね。

西塚 違いますよね。違うはずですよね。

ヤス だから重要なのは、僕は宗教性がいいとか悪いとか言ってるのではなく、そういうものがあるということなんですね。

西塚 そこがまだちょっとわからないのですが、いわゆるジハディストたちは、それを体験してるんでしょうか? まあ、自分なりにでしょうが。

ヤス 体験してる。体験しないと死なない。

西塚 何かしら体験をしたということですか?

ヤス いやいや、何かしらって、そういう超常現象でも何でもなくて、モスクにいけば体験できる。

西塚 ああ、そういう装置になってるってことですか。

ヤス そういう装置になってる。モスクにいけば体験できるわけです。僕の親しくしてたイラン人たちがいて、モスクにいって祈ったときにどういう実感をするのかと言うと、すごくメロウで自分が溶けていく感じだと。神の愛に包まれてね。すごく落ち着くと。そして、そのような地点から今の自分自身の悩みとかを見ると、あまりにも無意味なものに感じるんだと言うんですね。

西塚 それはカトリックの教会でも、プロテスタントでもいいかもしれないですが、荘厳なですね、そういう大伽藍の中にポツンといて、ステンドグラスに太陽の光が入ってきて、まあ賛美歌でも流れてきた日には…という、あれと近いものですか?

ヤス あれもひとつの装置なんですね。目に見えるものは本当に装置なんですよ。実際の宗教性の本当の内実というのは、非常にシンプルなもので、あんな装置はいっさい必要としない。

西塚 そう思いますね。

ヤス 何と言うか、祈りという行為の反復性によって培われる、ある心理状態だと思いますね。

西塚 そうですね。いろんな意味があったんでしょうけれども、中世までは、特に中世なんでしょうが、教会が民衆を支配するためにそういう装置を作った。聖書も改ざんされたとかいろんな話もありますが、神との媒介として教会があった。民衆をコントロールするということも含めてですね、そういう装置だった。

今の日本の話に戻すと、普通のおばさん、地方のおばさんたちの中には、私は無宗教よと言って、それこそ農家だったら畑を耕したり、子どもをあやしたりどうのこうのという日常の中で、実はかなりピュアな、あるいは僕の言葉で言えば、優れた高度な感性として何かと、それこそ神でもいいんですけど、結びついている。そういう普通の感覚のほうが、僕はわりとシンパシーを感じると言うか、安全な気がするんですね。先ほどの話は、そういうものとは違う気がするんです。

ヤス それは違います。端的に言うならばね、人間は誰しも、超越してしまうような心のレイヤー、層を持ってるということです。それがまず大前提としてある。たとえば新石器時代ってありますでしょ? その新石器時代のかなりシャーマニスティックな儀式のね、考古学的な痕跡がたくさん見つかってるんですね。南フランスでも見つかってれば、東アフリカでも西アフリカでも、新石器文明があったところではみんな見つかってるんですけど、だいたい同じような形態のものが多いんです。何かと言うと、真っ暗な洞窟の中に入ってくんですね。光のないところにずっと入っていって、そこに数時間留まってまた出てくるという。おそらく、そのときに何かの覚醒剤的な、麻薬に相当するような物質を飲んでいただろうと。また場合によっては、脳に対するシャーマニスティックなね、たとえばシャーマンの太鼓であるとか、何かそういう強烈な刺激を受けて、そのような体験をやってたのではないかと。

いずれにしろ、そういうような体験、ある意味で超越的な体験ですね。超越的な体験というのは、個人が個を超えた超越的な存在と触れ合うことによって、その視点から自分自身を俯瞰するという体験ですね。

西塚 よく未開の部族にあるようなイニシエーションですよね。10歳とか11歳くらいの子が高いところから突き落とされたりとか、いろいろ違いはありますけど、ある種ものすごい外圧によってですね、ガクッと何かに触れさせて、個として自立させるみたいな。

ヤス 現代の日本社会は、ある意味で危機的な状況だと言えば危機的な状況なんですけど、人間の内面にそういうレイヤーが存在しているということ、それをいっさいわかっていない。これが怖い。

西塚 前回おっしゃったブラックスワンなり、盲点なり、ということですね。

ヤス そう。それがわかってない。

西塚 盲点というのは言い得て妙で、視界が全部だと思っていると、実は見えてない部分があって、自分で補ってるわけですからね。

ヤス 海外がいいというわけじゃないんだけども、やはり宗教文化が豊かなところというのは、ある意味で人間の心のレイヤーの中にね、そういう超越的なものを実感して、自分を俯瞰するといったような体験は当たり前になってるわけですね。いろんな宗教によって、そういったものが存在するんだということが十分に知られてるということなんですよ。その中にはかなり危険なものもある。ちょっと扱いを間違えると大変なことになってしまうという危険性もよく理解できている。

ただ日本の場合、一番危険なのは、そのようなレイヤーの存在をまったく知らないというところなんですよ。

西塚 今ようやく、何となくそういうものを意識し始めたと言うか…

ヤス いや、まだまだ…

西塚 きっかけくらいにはなってる…

ヤス きっかけ…意識もしてないなと思う。そこが一番遅れてると思いますね。だからかなり高レベルの政治家でも、超越的な体験みたいなものに引っかかってしまうんですね。つまらない超越的な体験はたくさんありますよ。詐欺的なものもあると思う。そういったものに引っかかってしまう。

それから、本来の宗教性が保証してるような超越的な体験もある。これは宗教本体にとってもね、実は逆に作用する非常に大きな危険性があるわけです。どの宗教教団もそうです。たとえばローマカトリックもそうだし、プロテスタントもそうなんだけども、神のお告げ、神のメッセージを媒介するための組織なんですね。ローマ法王というのは、神のある意味、第一の召使いみたいな存在なわけです。ローマ法王を通して神が語る。超越的なものとの媒介を自分が果たすことによってね、いわゆる聖職者の権威が認められている。

ただ、今言ったように、本来の宗教が持ってるような超越的な体験を、ひとりひとりが実感してしまう。だとしたら、宗教組織を必要とするのか。

西塚 いや、全然必要とされないでしょうし、むしろ害悪しかもたらさないと思いますね。

超越性と宗教

ヤス そうするとね、神の実感とか、超越的なものを実感できるという体験、そのレイヤーをですね、誰でもアクセス可能な状態でほっとくと、これは宗教教団そのものにとっては最大の脅威だということなんですね。

西塚 そういうことです。

ヤス そうすると、それは管理せねばならない。お前の体験は正統なものなのか異端なのかということを管理せねばならない、といったことになってくるわけですね。ただ管理したとしても、宗教性そのものが超越的な体験をさせるということ、それは人間の中にもそういう心のレイヤーが存在し、宗教はそのスイッチをオンにする装置であるということでは、どんなに取り締まっても必ず出てきますよ。したがって、新しい宗教教団を構築する運動というのは絶えないと思います。

西塚 まさしくそこであってですね、今までは大きな、3大宗教と言われるようなものがありましたし、細かいことを言えばいっぱいありますね。それは装置の部分もあったと思うし、人によってはプラスの面もあったのでしょうが、今後は極端に言えば、いらない。いらないとして、個として超越的なことに触れることがいいかどうかはおいといて、じゃあどうすればいいかと言うときに、宗教ではないし、ましてや教団ではないというところで、たとえばスピリチュアル的なことではなくてもいいんですが、やはり仲間を求めますよね。個人で仙人みたいになって世の中をサーフィンしていく人は別としても、どうしても仲間ができていくわけです。

今日、お聞きしたかったポイントのひとつでもあるんですが、やはり仲間を作る。スピ系に限りません。どんなところでも、だいたい仲間を作る。僕が個人的にすごく嫌だなあと思うと言うか、何か生理的に引いてしまうのは、仲間を作るのは全然いいんだけども、必ずとは言いませんが、だいたい排外的になるわけです。新規に入ってくる者に対してまず警戒心が芽生える。と言うのは、知った顔の中でやってきて、ある種のルールなり暗黙の常識なり雰囲気なりといったものが、すでに共有されているから、侵されたくないわけですね。それが新規なものによって変容してしまうのではないか、というある種の恐怖、柔らかく言えば、面倒くささがある。それが、僕は大したことがないように見えて、実はすごく重要なのではないかと思うんです。人間の心とか、感情でもいいですけども、そういうものの作用に関する需要なポイントのひとつなのではないか。

僕の中にももちろんあるでしょう。でも、どちらかと言うと、自分のことを言ってもしょうがないけども、知らない人と知り合いたいというほうが強い。小学生のときから、どういうヤツなんだろうコイツはと。どんどんどんどん知り合いたいほうだったんですね。もちろん拒絶を受けたりもするけども、そのうち仲良くなったりもする。でもそれが集団になると、また妙なことになる。自分ひとりだったらいいんです。誰にでも会いにいって、断られてもいいんですから。それが仲間になると、俺はいきたいけど、仲間内でちょっとやだよねとなると、どうしてもそこに引きずられるわけです。そのとき、同調性バイアスとか、ある種の同調圧力ですね、そういうものが働いて、何か嫌な思いをするという感じがある…話が飛んでしまいましたけども、何の話をしてましたっけ?

ヤス 宗教性の話(笑)。

西塚 そうだそうだ…

ヤス いいんですよ、飛んで(笑)、酔っぱらってるからね(笑)。

西塚 これから個の目覚めが仮にあるとして、やはり僕はそこに心とか感情の問題が立ちはだかっている、というほどの問題じゃないかもしれないけど、ある種の違和感として存在し続けるだろうと。それは解消し得るものなのか。解消するとすれば、どういうメソッドがあり、装置がありという、そのへんのヤスさんのね、意見と言うか、SF的な、ファンタジー的なものでもいいんですけど、仮説でもいいんですけど、おうかがいできればと。

ヤス 本来の宗教の問題というのは、大前提としてね、どこかの部分でとことん考察せねばならない問題だと思います。神道も含めてですね。その宗教性というもの。やはり人間の存在の非常に奥深い側面を明らかにする窓なわけですよ。それを単純にイデオロギーだと切り捨てるととんでもないことになる。現代世界がどうなるかなんて、誰にもわからないですね、やっぱり。

今の問いにいく前に、ベイナー下院議長の話に戻しますね。本来の我々の宗教的な感情をオンにするとどうなるかと言うと、超越的なものとのつなりがもう一回体験できるわけですね。その体験によって、自分自身を超越的なものに包まれた視点から俯瞰して見る。そうすると実人生の自分自身が、ある意味で無意味化して感じられるということです。その無意味化して感じられる範囲で、自分が苦痛から救われるわけです。おそらくですね、今回ベイナーはそれをやった。号泣を見ててそう思う。

西塚 禊(みそぎ)ですね、ある種の。

ヤス 禊です。彼は、もう下院議長を辞めようと思っていたと思うんです。ローマ法王がくると聞いたときから、僕は彼の反省が始まったと思う。私は議員として、人間として、聡く生きたのか、と。

西塚 懺悔ですね(笑)。わかりやすいなあ、それ(笑)。

ヤス 懺悔ですよ。真面目に懺悔したんだ、あの人。私はいろんな理想を持って議員になったけれども、2013年から債務上限引き上げ法案に反対して、アメリカ政府機関を閉鎖させて、国債を引き下げて、とんでもないことをやったと。今回もまた債務上限引き上げ法案でさんざん揉めてる。何とか仲裁しようとしてるんだけど、どうも無理だと。私の議員生活は正しかったのかどうか。私は人間として正しかったのかと問うたときにね、間違ってたと、やっぱり(笑)。俺はとんでもないことをやってきたということをね(笑)、そのような自分自身を断罪する目というのは、ある意味超越的なところから自分を俯瞰しないと出てこないわけですよ。そのような目、そのような超越的な視点から自分を見るように促す行為が懺悔ですね。

西塚 しかも、隣にいた日には…最高の地位の人ですから。じゃあ、いいヤツじゃないですか、ベイナーさんは。

ヤス いやいや、そうじゃない。とんでもない人間でも、そういう超越性を感じる心のレイヤーが存在するということです。とんでもない人間でもね(笑)。

西塚 ああ、そうか、それをおっしゃりたかったんですね。とんでもない人間でも、そういう心のレイヤーが存在してるんだよと。それを体現した。

ヤス そこで号泣して、号泣しながら真人間になっていくんですね。それで辞めたんですよ。宗教性が持つ力というものを我々に見せつけたということです。超越的なものというのは、一回体験してしまうと我々は人生を捨てるぞと。捨ててもいいと思うようなところまで導かれるぞということなんですね。

それから、次の段階の話になりますけどね。もし大勢の人間がそういう超越的なものを体験したときにどうなるのか。多くの人間が自分の人生をある目的のもとに捨てていきますよ。そうなってくると、もはや個ではなくてね、一丸となった集団のひとつの感情の滔々たる流れとして、ある方向に向かってワーッと走っていきます。もうこれは合理性ではない。

ああ、これはハルマゲドンが近い、と実感した人がいたとしますね。多くの苦しい人生を歩んで、神との懺悔を繰り返して、ずっと人生を再解釈するうちにね、自分は神の目線で自分自身を見るようになったと。そうしたときに、まさにこれからハルマゲドンが起こる、世は本当にエンドタイムに向かっていると実感した人がいる。その実感のもとにですね、彼は自分の実人生を捨ててしまう。彼と同じような体験をする人たち、共感を持つような人たちが膨大に出てきたときには、まさにエンドタイムを自己実現するような流れになるってことなんです。

憲法で保障される人権の重要性

西塚 そうですね。僕がどうしても気になるのは、先ほどヤスさんがおっしゃったような、超越的なものとつながるという実感。体感でもいいんですが、それは何かということなんですね。それは全員共通してるとは限らないですよね? 私は神を見た。あるいは何かとつながった気がする。感じた。というものがそれぞれあっていいんです。それこそ個であって、個がどう感じても自由です。でも、それがひとつの集団的なものになったときに、何かのバイアスがかかって一緒になるということ自体が、僕はまあ基本的に気持ち悪いということです。

超越的なものとつながったときに、俯瞰する目というのができたとしても、その目はどういう目なのか。たとえば自分自身は、今までの悩みがすっ飛んで気持ちよくなったと。俺はこれからこうやって生きるんだということは、個人的にはあってもいいと思いますが、それがまとまったときにですね、自分が体験したかもしれない超越的な体験と、自分が見てるかもしれない超越的な視点というものを、検証する目はどこにあるのかということですね。

それは、ひとりでは無理とは言いませんが、やっぱり人、対人(たいひと)、対話、協議とか、そのへんのディスカッションの中で、人間がもし集団で生活していくということであれば、どうしても必要だろうと。検証というと硬いかもしれませんが、確かめるということ。じゃないと、本当に独りよがりになって、俺はこれでいい、私はこれでいいとなってしまう。

ヤス いや、基本的に宗教はそういうものです。だから言ってみれば、他者を必要としないんですよ。

西塚 ああ、なるほど。

ヤス 極端に言うとね。神のみならず、超越性と自分との一対一の関係になりますから。そこでは、いわゆる他者というのはほとんど必要としないということなんですね。

西塚 他者を必要としない個人の集まりということですか?

ヤス そうです。他者を必要としない多くの人たちが、同じような体験をした場合。

西塚 「同じ」の検証は難しいですよね。

ヤス まあ、検証と言うかね、我々が検証するというのは、その超越的な体験を信じてない人間の立場なんですね。

西塚 ハハハハ。

ヤス やっぱりね(笑)。ほんとかよ?と。

西塚 僕はわりと信じてますけどね(笑)。

ヤス いやいや、ほんとかよ?と検証したくなるわけですよ、基本的にはね。ただ本当に超越的な体験、同じような超越的な体験をしてるキリスト教者がいて、エンドタイムに生きてて、これからハルマゲドンがあってね、ヨハネの黙示録にあるようにキリストが降臨してくるんだということを、私は神のお告げとして、私は見たという人たちがたくさん出たと。それもかなり膨大に出てきたと。膨大に出てきたならば、それに感化される人間もたくさん出てくるわけですね。

そうすると多くの人間が、そういうような覚醒と言うか、超越的な体験をした後にですね、実人生を捨ててしまうんですよ。本当に。エンドタイムに生きてて、私の人生は無意味だと。だったらエンドタイムで清く生きるためにどうしたらいいのか。またエンドタイムが、キリストの降臨が早く訪れるように私ができることがあるとしたら何なのか。ということになるわけです。

西塚 そのときに、個はどうなるんですか?

ヤス ここでは、個ではなくなる。

西塚 個はなくなりますよね。だとすれば、話が戻るようですけども、今回の安倍の暴挙によって日本人が民主主義に目覚めつつあるし、ひょっとしたら個にも目覚めるトバ口にいるかもしれない。これから個に目覚めていくかもしれないんだけれども、一方では江戸時代的な、ああいう小さい、縮小された共同体の中でうまくやってれば、それはそれで幸せだという話もあります。でも今の国際社会では、そんなのんきなことは言ってられない。

前回、ヤスさんがおっしゃったことのひとつに、個の目覚め、それぞれみな個であるということに目覚めるんですが、それに強烈にアンチ的な立場として、今までの既得権益を含めて、自分の既存の世界観を守るヤツの相当な反撃がくるだろうと。ひょっとしたら国家権力を使った暴力もある。それとの闘いになっていくだろうというようなお話があったんですが、そこに入っていくとなると、宗教というのは、僕は本当はいらないと思うけども、かなり大きなファクターになってきますね。

と言うのは、その個である人たちが抵抗していく過程で何かにくじけたりするときに、精神的に回収されやすい装置としての宗教というものが残っていく可能性があると思うわけです。それはどう考えたらいいでしょうか? それはそういうことで、必然的に起こり得ることなんだということで、たとえば本を出したり、表現したり、伝達していって、どうしてもそこに引きずられちゃうという構造があるんだと言って、その渦に引きこまれていく様を可視化して対抗する術とするのか、あるいは渦そのものを起こさないようにする方向がいいのか。

ヤス 今回の安保法制がね、僕は民主主義の目覚めだと思ってます。民主主義の目覚めだと僕が言った一番大きな理由は、戦後の70年間、戦後日本がいわゆる担保してきた、保障してきた人権とか、個人といったものを中心に成立するような戦後民主主義の世界、その価値観を守ろうという運動が起こりつつあるということだからなんです。

戦後民主主義の世界の中で、一番根底にあったのは何かと言うと、取りあえず個人だよねということなんです。憲法もそうです。憲法というのは、まさに基本的な人権を持つ個人を国家権力から守るための法ですから。個人というものを前提にして、戦後の70年間の豊かな民主主義社会ができ上がってくる。その価値観は守ろうねという運動だと思うんですよ。

そうすると、いわゆる国家主義者にとって個というのは邪魔ですよね。個人という権限を持って、いかようにもアンチを行ない、反対を行ないね、文句を言うという対象にしか見えないわけです。そうすると、全体主義的な国家を目指す人間にとっては、個というものを取り外して、もっと集合的な全体の中に個を溶け込ませていきたいと思うわけですよ。

西塚 今までの戦後70年、憲法的には国民主権を謳っているわけですから、国民、個が主体ですね。あれはちょっと抽象的で、国民と言っても漠然としてますけども、でも日本の場合はいわゆる個が基本的に根づかなかった。だから、今回からそれが出てくるというわけで、要するに今まで個はなかった、個を考えないですんできたということですね。

ヤス まあ、ひとつはそうですね。しかしながら、個人といったものを前提にした自由は、外枠であっても法律的には守られている。やっぱり個人の人格は尊重されるという社会の枠組みの中に我々は生きてると思いますよ。だから普通の我々の日常生活の中で個がないということと、社会システムの法という体系の中で個が尊重されないということは、違うということだと思うんです。

たしかに日常生活の中では、我々はいわゆる西欧的な自我を中心とした個があったかと言うと、必ずしもあったとは言えない。それは仲間内の小集団である会社共同体であり、何かの共同体の中に溶け込んで存在してるという存在の仕方のほうがメインだったと思いますね。

西塚 ああ、そうか。法律的に基本的人権が憲法11条で定められているということの意味…

ヤス だからと言って、法的な枠組みの中でね、個人は共同体の一部だから、個人を無視するといった法的な規定はいっさいないわけですよね。いわゆる法律の枠組みの中では、個人の人格とか、基本的な人権というのは、絶対的な命題のわけですよ。その個人を尊重するということを前提にしてでき上がった法体系が、戦後日本のこの自由な社会を保障してきたということになるわけです。

西塚 そうですね。基本的には個を考えたこともないけれども、一応守られてた。それが今回ぶち壊されつつあると。

ヤス だから、個人の権利でいくら文句を言ったとしてもね、国家権力が我々の批判とか文句を取り締まることはできないわけです。言論の自由ということで尊重されて守られてるわけですから。でね、国家主義者であるとか、もっと全体主義社会を作りたい人たちから見たならば、そうした個が邪魔なわけですね。いついかなるときでも反発し、異を唱えるということですから。そうすると、個を超えた全体性というものを提示して、その中に個を溶け込ませたいわけです。

そのために興ってくるのは、ナショナリズムという概念ですね。イデオロギーです。ただ、個を溶け込ませるという装置では、宗教ほど卓越したものはないわけですね。そうするとね、いわゆるそうした国家主義者の提示するイデオロギーが、宗教ほどの完成度を示すかどうかなんですね。国家主義者の提示するイデオロギーが宗教に達するくらいまでの、ある意味での個を超えた超越性を示すことによって、どんな人間でも心の深いところに内在している、超越性に感応する心のレイヤーのスイッチをオンにして、それで多くの人間が涙を流して個を捨ててね、超越性の中に溶け入るといったようなことを国家が管理できれば、これはすさまじい全体主義国家になるわけです。

西塚 僕は、日本にはそうしたものすごいポテンシャルがあると思いますよ。神道を通じていわゆる「美しい日本」、いろんな歴史的な事実としても、類い稀なる文化を取りそろえてきた歴史があるわけですね。いわゆるスピ系にもよくあるじゃないですか。「日本語」とか「母音」にしてもそうだし、素材としては相当あって、もし巧みな物語作者がいるとすれば簡単に構築できると思いますね。

実際にできつつあるというか、すでにできてると言ってもいいかもしれません。「大本」でもいいし「日月神示」でもいいですし、いわゆる神道系のものと国体を結びつけた日本人の世界に対する優位性、だいたいが日本は世界の「雛形」と言ってるわけですからね。僕は大本が当時800万とも言われる信者を得たというのは、無視できないと思います。現代にもつながってる流れがあるんじゃないかと。今の「日月神示」もそうですね。僕はそれはそれで、ある種の思想の流れとしてよくわかります。僕はどうしても文学作品として見ちゃうところがあるので。

特攻隊とジハディストの違い

ヤス 西塚さんの言ってることはよくわかる。ただそれと、本来の我々の心の中にあるレイヤーね、いわゆる超越性を感じ得るレイヤーのスイッチをオンにすると、それとは違ったものになる。たとえば、「日月神示」にしろ「大本」にしろね、日本が世界の雛形であるとか、ナショナリズムを高揚することによって、個を超えた超越的な全体という何ものか、これは民族的な共同体という超越的な全体なんだけども、それを鼓舞することによって、その中にひとりひとりの個というものを溶け込ませてしまうという効果があるのは間違いないと思う。

ただしね、それを個人が本当に心の奥底で実感するかどうかは別なんですよ。どうして別かと言うと、特攻隊とジハディストの死の違いがある。特攻隊というのは、膨大な遺書が残ってますが、ほとんどは悲しみの遺書ですよ。やっぱり、自分たちの死の無意味さを悔いながら死んでいった人たちの遺書がすごく多いわけですね。それは救われないで死んでるわけです。救われないで死んでいってるということは、国家神道は個を溶け込ませるだけの超越性を提示することに失敗したということなんですね。それに対して、ジハディストの遺書を読むと、喜びの中で死んでる。

西塚 もちろん、特攻隊の方たちが残した遺書を全部は読んでませんけども、一部だけですけど、その中では、死にたくはないですよ、十九や二十歳くらいで、でもやっぱり家族に宛てるわけですね。たとえば妹がいるとか、母親がいて何とかかんとか、これからも日本が続いていくためには、これからの人たちがいるのだから、その人たちのために死ぬというような、大義ですね、それを自分に課すわけです。だから、たしかにそのジハディストたちの喜んで死ぬというのとは全然違う。

ヤス 全然違う。国家神道というのは、ものすごく宗教として低い水準でね、はっきり言ってオモチャみたいなものなんですよ、あれ。

西塚 なるほど、そういう言い方もできますね。

ヤス 国家統治のためのただの装置であって、多くの神道のビリーバーは神道人と言われるんですけど、本来の神道人たちというのは、だいたい国家神道のものすごい批判者ですよ。あれは神道に対する冒涜であると。国家神道なんて、お前これが宗教なのかと思うくらい、非常に水準の低いものですよね。だからそれは、我々が特攻隊員の悲しさをどこに感じるかと言うと、救われない人間の悲しさを感じるわけです。ジハディストの遺書を読んで、我々は悲しくなるかと言えば、悲しくならない。歓喜しながら死んでいってんですね。

西塚 そこにある種、信仰の力があるんでしょうね。個人の操作としては、これで俺は本当に救われると思うものがあれば、別に宗教を必要としないかもしれない。けれども、ある大きな宗教の装置があると、実際に多くの人間を取り込むことができる。本当にマシーンになっていくという危険性がありますよね。でも個人個人に還元してくと、個人の中で起こってることは変わらない。

ヤス その結果、やはり歓喜の中で死ぬわけです。いろんなジハディストが死ぬ直前にビデオを撮ってますけど、本当にキラキラッとした目でね、本当に歓喜の中で死んでいってるという映像があって…

西塚 イッちゃってるわけですね。

ヤス イッちゃってる。だから本来、宗教性が保証するような超越的な体験というのは、そういうものですよね。同じことを言うようですけど、個を超越的な全体の中に溶け込ませることによって、実人生の自分自身を無意味化すると。そうすると、生も死も無意味化されるわけですよ。

西塚 もう酔っぱらったから、まあいいやという感じで言っちゃいますけど、そうするとバタイユまでいってですね、エロスとタナトスの話までなっちゃうじゃないですか。自分が死ぬ、もう死も生も同じ、快楽になっていくわけですね。そこまでいくと、本当に人間とはなんぞやといった哲学的な話までいくんですが、そこにいっちゃうといけないんだけど、もうこれからはそれを包含していくしかないかもしれない。集団的にある種の社会システムなりをみんなで面白おかしく営んでいくにはどうしたらいいのか、という話になった場合にですね、そこは一回考えなくてはいけないところじゃないですか。要するに気持ちいいということ。

僕は、ヤスさんが前々回かな、おっしゃったことで印象に残ってることがたくさんあるんだけども、その中のひとつは、思考停止は気持ちいい、という言葉だったんです。思考を停止すると気持ちいいんだと。危ないとわかってるんだけども、でも気持ちいいんだと。そこに僕はつながってくると思うんですね。その結果、ジハディストも出てくるだろうし、いろんな愚かな行為も出てくるんであって、気持ちいいんだけども、それはそれで何と言うか、うまくこうコントロールと言うんですか、しなきゃいけないのか、イッちゃってもいいのか、よくわかりません。よくわからないんだけど、そのへんをまず見据えた論議じゃないと、社会システムなり何なりを創るといった場合には、まず話にならないですよね。きっちりやらないと。

人類史は個に目覚めていく歴史

ヤス 西塚さんの本来の問題に、その個の問題に戻りたいと思うんですけどね。超越性ということでね。じゃあ、個の成立の原点は何なのかと言ったときに、一方では宗教といったものをひとつのモデルとするような、超越性に人間を吸い込んでね、解体するといったような極めて大きな装置があって、それに反応する我々の非常に深い心のレイヤーがあるわけですよ。それに触れてしまうと、本当に我々は個を捨ててしまうということも可能になるわけですね。それはジハディストであるとか、死を歓喜で迎えるということを行なってる人たちの一般的な心理状態だと思いますね。

また一方では、やっぱり我々の感性として、それに抵抗するひとつの個でなくてはいけないと。国家の全体主義化の流れはどんどん日本で進んでますけどね。やっぱりそれに抵抗する個人というのが存在しなくては駄目だと。超越的なものに感じてしまう我々の心の部分、そういった心を持ってる自分と、それと個の存在というものとどう折り合いをつけたらいいのかということになってくると思うんです。それは、非常に深い問題なんだけども、ただ解答が難しいかと言えばそうではない。おそらくね、一番個を楽しんでいる、その奥底にあるのが、実はそういった超越性の実感なんだろうなと思うんです、逆に。

たとえば仏教的に、大乗仏教ですね、親鸞でも道元でも日蓮でもそうなんですけど、彼らが至った境地というのは、それに近いんじゃないかと思うんですね。個の存在の一番奥底にあるのは、私は巨大な超越性の一部なんだと。それから分岐したひとつのエネルギー体みたいなものにすぎないんだと。でもそれが、大いなるもの、仏なら仏でも神なら神でもいいんですけど、巨大な超越的なものの一部であるがゆえに、私は尊いのだと。私は絶対的に尊いと。その尊い私を侵す何ものにも抵抗するということですね(笑)。なぜかと言うと、私自身が仏であり神であり、この超越的なものの一部であり、つまり私自身が超越であるからということになるわけです。

そうするとですね、自分の外部に超越性を認めるのではなくて、自分の個を掘り下げた一番の奥底の部分で超越性と出会うという体験。すなわち個を内向することによって、個の内面に超越性を発見するという体験。おそらくそれこそが今後の個、新しい個人主義でしょう。

西塚 そうですね。ヤスさんとハンク・ウェルスマンとのご対談じゃないですが、自分自身が神であるということに気づくということにつながると思います。そこで僕が疑問に思うところは、本来人間がそうであるとすれば、みんなそうであるわけであって、そこで争いは起こらないですね、本来は。なぜ争うのかということです。もっとお互いに認め合えばいいんだけども、そうはならない。なりにくい。いまだになりにくいという。

感情の流れもありますよ。憎しみ、嫉妬、何でもいいですけど、そういうネガティブな感情はいろいろありますが、とは言え、もちろん反面もあって、仲良くなったりもする。僕は今、そのへんの感情の動きのダイナミズムの中を見ることでしか、真実はわからないような気がしています。(ヴァジム・)ゼランドの話で言うと、僕の中ではこれは反駁できないなというのが、真実は多面的であるということなんです。ひとつの面だけではないということですね。多面的だとすればですよ、その多面性をお互いに認め合うことが我々はできるんでしょうか(笑)。将来的にと言うか、今でもいいんですが。

どうしても排外的になる。排除するという気持ちがあるし、集団になるとますますそれが顕著になると言うか、顕在化し始めます。個人同士だったらダマせますよ、そんなものは。まあ、これからテレパシー社会になっていくので、そういうことは見抜かれるという話もスピ系にはありますが、それはともかく、集団になるともう少しわかりやすい形で現実化する。戦争という、まあ究極の形でしょうけども。

ちょっと話が違っちゃったかもしれませんが(笑)、人類の未来、展望として、ヤスさんはどのようにお考えでしょか?

ヤス やっぱりね、人間の歴史というのは個に向かう歴史ですよね。個の意識の覚醒。どんどんどんどん。たとえば今から300年前のね、どこかの、たとえばフランスのブルゴーニュ地方に生きてる人たち、農民たちを捕まえて現代に持ってきてね、対話した場合、おそらく同じ個の意識では全然ないわけですよ。全然違うと思う。

西塚 先ほどの、ちらっとお見せした「AI」のイベントのチラシで、『トランセンデンス』という映画の話が出てきます。この映画はスーパーコンピューターに人間の脳をアップロードする話なんですが、その中でサルの脳をアップロードする話があるらしいんですね。僕は観てないんですが。そうするとサルが止めてくれと。シャットダウンしてくれと叫ぶ。耐えられないと。要するに個と、何だかわかりませんが何かと分離するということは耐えられなくて、シャットダウンしろと言う話があるそうです。人間の場合はなぜかうまく分離してて、でも融合してる部分もあって、というところで出てくる苦しみと言うか、難しさがある。でも、またその難しさが面白いのかなと僕なんかは思っちゃうんですけど。ちょっと示唆的と言うか、興味深いエピソードでしたね。だから動物は本能のままに生きてるということでしょうね。善も悪もないですから。また、ちょっと話がずれました。

ヤス いえいえ。あの、経済史という分野があるでしょ? 経済史の本を読むと面白いんですね。たとえば19世紀のロシアの経済史ということになると、当時の農奴という制度が1860年代くらいまで存在してた。ツァーリズムのロシアですね。だいたい19世紀をずっと通じて農奴的な形態、土地とともに売り買いされる農奴的な存在というのがずっとあった。その農奴の意識に関して、彼らがどのような存在だったかと書かれた文献をいくつか読んだことがあるんですね。

農奴がどこかの、ペテルブルグかどこかのお金持ちのところにね、召使いに雇われてきてるわけですよ。当時の農奴というのは、村で食えなくなったらどんどん出稼ぎ労働者になって都市に出てくるわけですね。そしてどこかの下僕になったり、召使いになったりして食べてる。工場労働者にもなるんですけど。その農奴がですね、私に休暇をもらえないかと。ちょっと自宅に戻りたいんだということを主人に言うわけですね。主人が、何で帰りたいんだと言ったら、私の父がですね、私の嫁に第三子をもうける栄誉を与えてくれたと。簡単に言うと、この人の父親が自分の妻とヤッちゃって、第三子が産まれるから帰りたいって言ってるんですね(笑)。何だそれ、お前はそれで怒らないのかと聞いたら、いや、これは私が神から与えられた栄光なんですと言うんですね(笑)。これは君の奥さんだろう?と言うんだけど、これは私が神から与えられた宝物ですと言うわけですよ(笑)。

経済史の記者が、やっぱり農奴の存在というのはこういうものだと書いてるわけね。そこには個が存在しないということで、ずっと延々と書いてるんです。

西塚 それは日本でも、『武士道残酷物語』という映画になってますよね。江戸時代から主人と家来の関係があって、それでどんどん転生していく話です。とにかく、家来が主人のものすごい暴挙に甘んじるわけですよ。それが現代に転生しても同じで、まさしく自分の許嫁がヤラれちゃうわけです。その主人に。主人は全然生活能力がなくて家来が面倒みてやるわけです。何だか知らないがエライ人だということで。それでヤラちゃう。それでもハハーッと平身低頭で。延々とそういう関係で何代も続く。それに今の話は近いですね。

また、ロシアで思い出しましたけど、ミハルコフ監督の『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』、あれもロシアの貴族とか大地主がですね、大きな食事のテーブルを囲んでひとりが演説をぶってる。そのときにみんなシーンとして聞いてるんだけど、そこに給仕する召使いがいるわけです。その召使いがちょっとキレるわけですね、静かに。いろいろこう、かつらかぶった貴族だか大地主がガンガンもっともらしいことを言ってるんだけど、召使いが静かに言うわけです。あなたが食べてらっしゃる肉もワインも、みんな私たちが作ったものだと。

要するに、なんだかんだとエラソーなことを言っても、何もできないじゃないかということです。みんなシーンとなる。それまでは、内容は忘れましたが、いろいろ知的な会話が続いてるんですね。そしてその貴族だか大地主が議論で何か突っ込まれると、そういう例外もあると言って言い訳をする。そうすると、じゃあお前の言ったことは正しくないじゃないかとまた突っ込まれると、いや、例外があること自体が本来の規則の正当性を証明しているのだとか何とか、詭弁を使うわけです。例外があること自体が、本来のオーソドキシーの正しさを立証しているという、詭弁ですよね。それで何となくみんなも、煙に巻かれたようになるんですけども、収まってしまうという。広大なロシアの中の貴族とか大地主と、まさに今おっしゃった農奴との関係のある一部を抉り出したシーンだったと思うんですが、僕も若かったですけども強烈な印象として残ってますね。

ヤス なるほどね。言ってみれば、農奴のレベルの意識の希薄さは、19世紀とか18世紀では当たり前だったんですよ。だから個が意識を持つ存在であるということに関して、どんどん自覚的になってくるという。我々に長期的な意識の進化の流れがあるとしたら、まさにそのような歴史なのだと思いますね。だから基本的には、我々の個としての存在、我々は意識を持つ個の存在であるというような、個の特殊性に対してどんどんどんどん自覚が強まってきているのだと。まさにそういう歴史的な過程にいるのではないかと思う。

西塚 江戸時代に戻る必要はないんですが、あの時代のヨーロッパは女と子どもは労働力だったらしいんですね。労働力でしかないと。当時の外国人特派員みたいのが日本にきたときに、子どもと女性が笑ってると。女と子どもがこんなに楽しそうに笑ってる国は初めて見たと言うわけです。何だこれはと。そういう文献がいっぱいある。貧しいんですよ、みんな。真っ黒な顔してアカだらけなんだけど、みんな笑ってる。何だと、何で楽しいんだ、何で幸せそうなんだと。

すみません話がずれて、もっと個の話でスピリチュアル的なところまでいきたかったんですが…

ヤス じゃ、次回やりますか(笑)。

西塚 はい、毎回言ってますが、次はもっと突っ込んだ話をしたいと思います。すみません、今日は無茶苦茶になりましたが、ありがとうございました。

ヤス いえいえ、酔っぱらいオヤジですから(笑)。

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