だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting vol.19 「原理主義を超えて」

人気ブログ『ヤスの備忘録』でもおなじみ、
社会分析アナリストの高島康司氏をお招きして、

1 世界で今、起きていること
2 人間の新たなる「精神性」「意識」「思考」

について、飲みながら自由闊達に話すシリーズ。
基本的に毎週更新。

〇『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』第19回
「原理主義を超えて」

ゲスト:高島康司氏
聞き手:西塚裕一(五目舎)
2015年11月1日 東京・中野にて収録

西塚 みなさん、こんにちは。『酔っぱらいオヤジのSpirtual Meeting』の今日は第19回になります。今日もヤスさんにおいでいただきました。よろしくお願いします。カンパイしましょう。

ヤス カンパーイ! どうもどうも。

西塚 また相変わらず、もうすでに酔っぱらっちゃってます。すみません。

ヤス いえいえ、いつものことで。

アメリカが危険視した安倍政権

西塚 時事問題は毎回やってますけど、これはやはり必要と言うか、これからスピリチュアルな問題にもだいぶ入っていくと思うんですが、世の中の動きというのはやっぱり全部結びついてるわけで、我々の日常生活も含めて無視できない。だから最新の話題をどうしてもヤスさんにお聞きしたいので、そこから入っちゃうんですが、今週もいくつかあると思うんですけど、ロシア機が墜落しましたね。ISが我々がやったみたいなこと言ってますけど、ロシア側はその可能性は低いと。あのやり取りはどう思われますか?

ヤス ロシアから出てくる情報を中心に見てると、墜落する直前にですね、機体に不具合があると。そういう通信が管制塔まできてるので、おそらくですね、機体の不具合による墜落事故だと思いますけどね。

西塚 だとすればタイムリーと言うか、タイミング悪いと言うかいいと言うか。あれは不幸な事故ですよね。224人死んでるわけですから。

ヤス これから見なくちゃいけないですけども、おそらくですね、これが何かの大きな事件の引き金になるとはちょっと思えないですね。

西塚 僕も引き金になるとは思わないですけど、これは僕の幼稚な妄想かもしれませんが、何かあまりにもタイミングがよすぎると思うんですよ。この時期にロシア機が落ちるというのは。だから何かあるのかなあと。もしヤスさんが情報をつかまれてたらと思ったんですが。

ヤス いや、昨日起こったばかりですから。まだ出てきてないって感じですね。この2、3日でどんどん出てくる。何かあればね。いろいろなものが出てくる可能性はおそらくあると思うので。

西塚 わかりました。あとは真っ最中の日中韓の首脳会議。あれに関してはどんな結論になるんですか? 中韓は経済的なところでいろいろ結びつきを強めたという印象がありますけども。どんなところに落ち着くんですかね。

ヤス 基本的にアメリカがどう見るのかというのがポイントで、アメリカの基本的なスタンスとしては一貫してるものがある。これはアメリカのいろいろな外交雑誌や何かに出てきてるようなポリシーなんですが、日中韓のいわゆる東アジア経済共同体の形成は絶対に避けねばならない。これが始まってしまうと、ASEANもおそらく加入するだろう。そうするとアジア全域が日中韓の経済共同体によって、ほとんどの経済が実は回ってしまうという状態になる。なおかつですね、日中韓の軍事同盟、安全保障の何かの条約の締結まで一歩進んで、ある意味でEU型の同盟みたいなことになってきた場合は、アメリカの出る幕がほとんどなくなるということですね。だから、この形成だけは何が何でも阻止せねばならない。

この10年ぐらい、ずっと同じ外交雑誌に何度も出てくる一般的なアメリカの見方だと思います。特に日中韓が仲よくなると困る。中韓がくっつくのは、これは阻止はなかなかできない。ただ日本と中国、日本と韓国はね、やっぱり仲違いする状況を絶えず作っておくことがすごく重要なんだと。しかしながら作りすぎてしまうと、日米安全保障条約があるので、日本が中国に戦闘行為を働くぐらい関係を悪化させてしまうとアメリカが巻き込まれる。そこは一線を引かねばならない。ちょうどいいバランシングポイントのところにある程度の緊張関係を残しておきながら、紛争までに発展しない未然の状態においておくというのが、アメリカの理想としてる日中韓の関係の姿だと思います。

西塚 南シナ海の今回の出来事は、出来レースと言うかお約束事と言うか、前もってわかっていた。根回しされてたという話ですよね。

ヤス 根回しされてたと思いますよ、僕は。いろんな情報から見てそうですね。日中韓の首脳会議をやってますけど、最終的に背景になってる大きなものは、去年の10月にCSISというね、いわゆるジャパンハンドラーズが結集しているアメリカの一番中心的なシンクタンクがあるんですが、そこが出してきたレポートなんです。どういうレポートかと言うと、我々は今まで安倍政権を普通の日本の保守の政権だと思って放っておいたと。

日本の保守政権は、極端な保守、右寄りの政権が右寄りの政策をとると国民から強い反発があってね、別な首相、もうちょっとリベラルな首相の政権に転換すると。リベラルな政権がある程度続くと、ときおり右寄りな政権が出てくる。でもやっぱり最終的には人気がなくなって、失速してね、普通の状態に落ち着くという。そのバランシングメカニズムがどうも日本の政治機構の中にはあるようだと。

だから我々は、安倍のいきすぎたナショナリズムの国粋主義も安心して見ていられた。しかしながら最近変わってきたぞ、という論文なんですね。安倍はどうも特殊な例で、違うと。このままいったら本当にね、中国との戦闘も辞さないというくらいのナショナリズムの中に突入していくタイプの首相かもしれないと。これは何とかしなくちゃならないっていう論文だった。

それでね、我々は安倍政権を引き降ろすことができると書いてある。しかしながらそれをやるともっと矛盾が大きくなるので、安倍政権を直接説得するべきだと。特に中国、韓国に対する敵対意識をもうちょっと緩和するように説得するべきだと言ったのが、去年の10月なんです。論文が出たのがね。

実は安倍が中国の外相であるとか、韓国の外相であるとか、日本の政府の使節が対話を始めたのはだいたい去年の10月からなんですね。そのレポートが出た直後からなんですよ。つまりそれは、緊張緩和の方向に動くというハッキリとしたメッセージをアメリカに向けて出さない限りは、安倍政権そのものの存続が危ぶまれるという事態だったんではないかと思います。それが今の日中韓の首脳会議にも結びついていると思いますけどね。

西塚 なるほどね。じゃあ安倍さんとしてはイヤイヤいくという感じに近いですね。

ヤス ナショナリストですからね。かなり原理主義的なナショナリストだと思われます。ただ一方、先ほどの南シナ海にラッセンが派遣された問題ですが、あれはいろいろな複数のメッセージが入ってるんですね。そのうちのひとつは、日中が近くなりすぎないように楔を打つというメッセージです。

安倍政権のほうとしては、同盟国周辺、オーストラリアであるとかインド、ニュージーランドとか、ASEANの諸国、それと組んで中国をブロックするという安全保障のダイヤモンド構想を持ってますから、それを実現する一番いい機会なわけですね。そういうような認識もあって、最初にアメリカの行為を支持すると表明するわけじゃないですか。しかしながらこれは、中国に対する敵対行為です。したがって日中韓の首脳会議で、日本と中国があまりにも親しくなることに対する一種の楔として働いたということです。

勧善懲悪しかない原理主義の世界観

西塚 今、原理主義とおっしゃいましたけども、原理主義は僕も気になるところでして。やっぱり人間のマインドの話になってきて、いわゆるヨーロッパだったら今、難民問題ですね。どうしても右傾化して保守的になっていく。あの排除の仕方もすごいですよね。実際見ててもかなり深刻で、何万人単位で国境を越えてくるということになれば、それなりに排除せざるを得ない。選挙なども重なってる国もあるし、どうしても保守的な右系の民族主義的な政党が票を取っていくという流れができつつあります。

日本もそうだですね。安倍さんを中心にして。安保法制があったので、反ナショナリズムのいわゆる民主化の流れに近いように見えるけども、実はその反動のほうが僕は怖い。もっとナショナリスティックな、日本は神の国であるとか、世界における日本の役割はこうだとかいうものを、安倍政権側がブレーンとつるんで物語を強制し始めたときに、それこそ八紘一宇じゃないですが、戦前の物語に回収されちゃう可能性がある。その原理主義的なマインドと言いますか、みんな右ならえするとすれば、その精神状況、精神状態はどういうことなのか。僕は個人的に興味があるわけです。

当然、アンチもいるわけじゃないですか。そういうのはイヤだと。巻き込まれたくないと。俺は俺、私は私という人もいながらも、ほとんど大多数がどうしても巻き込まれていく。それはヤスさんが言ったキーワード、思考停止は気持ちがいいという話もありました。そのこととも関係すると思いますが、思考停止はものを考えないってことですね。何かに依存して流されていくのは気持ちがいい反面、結果として思考しなくなることに結びつく。今の原理主義的な流れと、人間本来が持っている思考停止の快楽との絡みで、何かお話をうかがえればと思います。

ヤス 原理主義に陥る可能性は誰しもが持ってるということです。日本の中にある嫌韓流とか、嫌中流をひとつのベースにした、神の国日本バンザイみたいなね、極端な日本のナショナリズムがひとつあります。たとえばアメリカのプロテスタンティズムにあるような、いわゆるキリスト教原理主義者の中にある原理主義的なメンタリティーがある。それから今、世界を席巻しているイスラム国的なイスラム原理主義的なメンタリティーもあるわけで、そうしたメンタリティーに共通しているものがある。

思想の内実はそれぞれ違ったとしても、それがもたらすメンタリティーはだいたい一致してる。それは第一に勧善懲悪です。善と悪で物事をすっきり分ける。勧善懲悪になってくると、間のグレーゾーンは存在しない。間のグレーゾーンが存在しないので、その枠組みから見ると問題がすっきり解決できるように見えるわけですね。

西塚 善悪二元論とか二項対立的な考え方というのは、簡単に反転しますよね。そこが僕は怖いなと思う。

ヤス そうなんですね。現実は善でもない悪でもない。だいたいグレーゾーンの中に普通の現実があるわけで、そのグレーゾーンをお互いに認め合った上でさまざまな交渉とか妥協が可能になるんですよ。お互いの異なった立場に対する是認とか容認が可能になってくる。原理主義的なメンタリティーというのは、そのグレーゾーンが存在しない世界です。まったくね。

西塚 これまでのお話の中で、エリーティズムがありましたね。エリート主義が一番まずいんだと。戦後、エリーティズムということで言えば、田吾作とか土人として国民を見下している連中は、左翼であろうが右翼であろうが、そういうことでは一致するし、交換も可能だと。要するに下をバカにしている我々が一番正しいんだという考え方は、右も左も関係ないってことですね。

ヤス そうです。エリーティズムに関することではね。しかし原理主義の場合はひとつの世界観です。

西塚 ああ、世界観ですか。原理主義は。

ヤス 世界観です、あきらかに。世界に対するひとつの見方を提示するわけですよ。世界というのは神と悪魔しかいないんだと。光と闇しかないんだと。それはたとえば、偉大な日本人とそうじゃない連中しかいないんだというような形で、極めて単純化して世界を把握するわけですね。そのように把握するとどういう精神状態になっていくかと言うと、ある意味で超越的な絶対感をもたらします。私はわかっちゃったと。私はもう世界がどういうもので、これから世界はどうすべきかっていう問題も、すべてわかってしまったとなる。

西塚 原理主義ってそういうことなんですか…

ヤス そういうことですね。このわかってしまったという感覚は極めて強い満足感、興奮を生みます。それによって、もはや疑いを挟む余地がない勧善懲悪的な二分化した世界に、自分が生きる。本当に思考停止の快感を味わえるというひとつのメンタルな装置なんだろうと思いますよ。

西塚 そこは僕、勉強不足と言うか、ちょっとヤスさんにおうかがいしたいんですけど、原理主義はある原理原則があって、そのもとに行動指針が決定され、それによって実際に行動していくというようなことだと思うんですね。その原理原則がみんな違うということが問題なわけです。イスラムもいれば、キリスト教系のエヴァンジェリストたちもいるし、ひょっとしたら日本もそうかもしれない。国家神道は宗教じゃないですから、でもそうかもしれない。わからないところですけども、そこをですね、原理原則とか絶対的なルールと言ってもいいですけども、その絶対的なものはおそらくひとつしかないのに、みんなが絶対的なものを持って争うわけですね。

そうなると、その原理原則というものはいったい何なのか。その人たちが持っているただの幻想かもしれないし、ヤスさんがおっしゃったように、何か全部わかってしまったということは、けっこう曖昧なことですよね。何がわかったの? 説明してって言ったときに、説明もするんだろうけど、宗教だったら経典とかあるだろうし、それでもこちらがわからないと言った場合にどうなります? それは、わからないお前がダメなんだということなのか。ヘタすりゃ悪魔にされちゃいますよね。

ヤス そうですね。だからふたつのカテゴリーしかないわけですよ。自分が信じてる絶対的に善なる原理、それに従わない連中がいたとしたならば、それは悪か、または無知かのどっちかなんですね。無知であると彼らが認めれば、徹底的に教育してこっちの仲間に引き入れてやると。しかし違った原理を信じると言うならば、それは壊滅するしかないわけですよ。

西塚 排除する。

ヤス 排除するしかない。原理主義的なメンタリティーって何かと言うと、絶対的な善なるものと絶対的に善なるもの同士の衝突ですよ。善と悪の衝突ではないんだということですね。

西塚 そこで、ちょっと突拍子もないかもしれませんが、親鸞っていましたね。善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。

ヤス 悪人正機説ね。

西塚 悪人正機説はどう思われます?

ヤス 親鸞に関しては、意見がさまざまあると思うんですけど、僕はすごく面白いなと思うのは吉本隆明の親鸞論ですね。あれは僕はある意味ですごく言い当ててるんじゃないかと思ってるんです。実は親鸞は、宗教を原理化するのをやめた人なんだと。宗教を原理化した場合、絶対的な善と絶対的な善の原理主義的な争いになることは目に見えている。だから自分は宗教を原理化することをやめると。その結果、特定の原理のビリーバーのもとに成り立っている宗教教団というものの形成を諦めた人なんではないかと言うんですね。

西塚 善人なおもて往生をとぐの、その往生という言葉の意味合いは、親鸞はどういうふうな意味合いで言ってたんですかね。

ヤス 僕は浄土真宗は詳しくは知らないけども…

西塚 あれ、親鸞はわりとお好きじゃなかったでしたっけ?

ヤス いやいや、好きじゃない。

西塚 あ、好きじゃない? すみません。

ヤス いやいや、好きじゃないというのは、別に詳しくはないということですね。好きでも嫌いでもないんですけど(笑)。親鸞の言った悪人正機説ですけどね、その往生というのは浄土真宗では死ですよ。

西塚 単純に死ぬということと考えていいんですね。

ヤス そうそう。

西塚 要するに、あの悪人正機説はみんないろいろ言うじゃないですか。ある種の試金石じゃないけど、いろんな言い方があって面白い。先ほどの原理主義につながると思うので言ったのですが、ヤスさんはどういうふうに解釈してらっしゃるのかなあと。

ヤス 親鸞の悪人正機説自体を解釈すると、すごく長い時間がかかると思うんですけど、ちょっと原理主義の話と絡めて言うとですね、原理主義がなぜ気持ちいいか。まず第一にわかっちゃうということですね。世界が全部、もうグレーゾーンがなくて、善か悪か。

西塚 クリアになる。

ヤス クリアになって、目ウロコ状態になるわけですよ。まず原理を学んで、その原理を適用して世界を説明した場合、目ウロコ状態になって、俺はわかってしまったと。そうだったのか!ってことになるわけですね。それがもたらす快感と歓喜ってすごいものがあります。もうひとつは、自分がその原理を通じてこの世に生きている自分自身を対象化できる。相対化できるってことになるんですよ。俯瞰する目ですね。この対談で何度も言っているように。

そうすると、今の自分自身がどんなにみじめで、大きな悩みを抱えていたとしてもね、自分の信じた原理を土台にして俯瞰した場合、今現在生きてる自分自身というのは、実はほとんど意味のない存在のように見えてくる。現実の問題に悩む苦しみから解放されるわけですよ。これが原理主義のもたらす非常に強い快感だと思います。

誰の中にもある原理主義的なメンタリティー

西塚 今、おっしゃったように、俺はわかっちゃったというのがあるとするじゃないですか。もし原理主義に傾くと言うか、なびくようなメンタリティーの典型的なひとつとして、“俺わかっちゃった感”があるとすれば、僕なんてあの、しょっちゅうわかっちゃった感があるわけですね。

ヤス ああ、そうね(笑)。なんて(笑)。

西塚 いや(笑)、たとえば何かの本を読んだりとか、普通にそのへんを日常的に歩いてるときとか、電車の中のおばあちゃんを見た瞬間とか、何かわかっちゃった感と言うか、ああそっか、そういうことだったんだ的なことはいろいろあるんですけども、そうではなくて、もっと深い、根本的なわかっちゃった感なんでしょうか?

ヤス そうですね。仏教的にいろんな悟りもあるけども、極端に言うと、その悟りに近いくらい深いものだと思いますよ。悪い意味で深い(笑)。その原理主義的な世界観に対してわかっちゃって、本来の自分自身が何のために生まれてきたかもわかっちゃうわけです。そうすると本来、自分が何のために死ぬかもわかっちゃうわけですね。全部ね。

西塚 そこに譲歩とか留保はないんでしょうか。もうそこにいっちゃう人が原理主義ってことなんですかね。

ヤス そうです。

西塚 そういう性癖ということですか?

ヤス 性癖って、いやそうじゃない。すべての人間にそうなる可能性があります。ただしね、そういう原理主義の中にあえて入っていくうような人たちというのは、やはりいくつかの条件がある。日常生活が絶対的に不満足だという人ですね。満足してない。自分の日常生活が幸福に満ちていて、幸福な家庭があって、それなりに自分が安定した満足のできる仕事があって、なおかつ自分が持っている知的好奇心を満足させるだけの知的な刺激もある。そういう日常生活があったならば、ほとんど日常生活の中で充足してるわけですね。だから、わかっちゃおうという欲望もないわけです。

西塚 そうですね。そこは難しいところで、それこそいろんなレイヤーがあってですね、誰がどこでどう満足するかというのはバラバラだと思うんですよ。たとえば、お金持ちになっているだけで満足してる人もいれば、ましてやそれを目指している人いる。あるいは家族があって子どもがいて、それだけで満足だっていう人もいれば、ひとりで畑を耕して自給自足して、本当に仙人みたいなんだけど満足だと。いろいろあると思うんです。何をもって満足するかは、人によって違うということになりますね。

ヤス いや、あんまり複雑な問題ではないんじゃないかと思うんですね。簡単に生きる意味ですよ。生きる意味を見出してるか、見出してないかです。ただその一点だと思う。たとえば、普通に日常生活に満足してる人って、日常生活の中に生きる意味を絶えず確認して、見出してるわけですよ。家に帰る。自分の奥さんの顔を見る。子どもの顔を見る。子どもを抱きしめる。それだけでハッピーになるわけですよね。

西塚 その人は、それが満足なわけですね。

ヤス で、ハッピーになるでしょ? それで職場にいく。職場にいったら自分の営業成績がよかったって褒められる。やっぱり満足するわけですよ。それで何かに関して知的好奇心を持ったりすると、たとえば園芸でも何でもいいんですけどね、そして園芸サークルみたいなものに関わっていったら、どんどん園芸に対する知識が豊かになって、それで自分が満足するとかね。そういうようなこと。

そのひとつひとつの満足感、満足と充実を繰り返す家庭の中でね、その連続の中で生きる意味といったものが踏み固められていく。ああ、俺は家族にとって重要な存在なんだと。俺はやっぱりこの仕事にめぐり合えてよかったなとかね。俺はこのようにして自分の愛する娘、息子をどんどん育てて、俺なりに次の世代へバトンタッチして、俺は消えてくんだと。オレの人生は結局、充実してるだろうというような実感ですよね。生きる意味って、そういったタイプのものですよ。

そういう普通の日常の満足感から得られるような生きる意味から、疎外された人々だと。

西塚 ということは、いわゆる原理主義に走りやすい人たちというのは、そういったいろんなパターンがある生きる意味を、これは僕はわりとすばらしい表現だなと思うんだけど、日々踏み固めていくようなことがない人たちが、ちょっと飛びつきやすいということですね。

ヤス そうです。そうするとひとつの条件として、所得が不安定、やっぱり貧困層になっていく。日常生活を生きるという行為そのものが、生きる意味を踏み固めるんではなくて、苦しみを踏み固める行為になる。そうなると、なぜ俺は苦しまなくちゃいけないのか。なぜ自分だけなのか。あいつはあんなに豊かなのに、なぜ俺だけこうなんだと。

西塚 もちろん衣食住も含めて比較しちゃえば、自分は何でこんなに低いレベルでやっていかなきゃいけないんだってことになるんだろうけども。僕はですね、最近、高円寺とかで若い人たちを見ると、所得なんか低くてもけっこう楽しんでる人たちがいっぱいいるじゃないですか。まあガキだからしょうがないって話もあるかもしれないけど、僕はそこを考えちゃうんですね。かなり満足そうなんですよ。それとはまた違う話ですか?

ヤス いやいや、所得が実際に高いか低いかというわけじゃないんですね。高円寺で満足そうに過ごしている若い人たちを見てて、僕はメンタル的にすごく合うんですけど(笑)。

西塚 お好きですもんね、高円寺(笑)。

ヤス そういう若い人たちのメンタルとすごく合うんですけどね。ただ話してみるとね、日常は安定してるんですよ、どうにか。安定しているっていうのは、安定した収入がどこかにあるんですね、低くても。まったく不安定というわけじゃない。派遣社員でも何でもいいんですけど、そんなに高い所得ではないんだけど、ちゃんと安定してて、そして自分が依存できる仲間がまわりにいて、仲間のネットワークの中で安定した日常を生きてる人たちですよね。

西塚 安定した収入と仲間というキーワードが出てきました。

ヤス そうそう。仲間がいない。所得が不安定であると。そうすると、かなり貧困な状態におかれる。そういう人たちの日常というのは、苦しみの連鎖になってくるわけですね。

西塚 そういう人たちがいるとしてですね、どうしてそうなったかという発想は出てこないんですか?

ヤス いや、おそらく出てくると思います。何度も何度もそれを考え続けながら生きていくと思いますよ。ただし、それを何度考えたとしても、やっぱりなかなか答えが出るものではない。なぜかと言うと、多くの人たちの場合、もともとの生い立ちがそうだったからという場合があるんですね。環境とか条件が徹底的に悪くて、たとえば自分はシカゴの黒人で、本当にスラム街に生まれたと。もし俺の親がそういう親ではなかったら、違う条件のもとに生まれただろうといったように、やはり生い立ち的に条件づけられた貧困さは十分あるわけですよ。

アメリカの原理主義者たちというのは、かなり多くの人たちがそういう人たちですね。もともとある文化として、いわゆる日常生活の充実感から排除された苦しみの連鎖の中にいる人というのが、やっぱり原理主義に飛びつきやすいというメンタリティーを持ってる。

西塚 ちょっと端折っちゃうかもしれませんけど、その原理主義に飛びつきやすいってことで言うと、ひとつは宗教がありますよね。あるいは何かの運動でもいいんですけどね。何かの原理原則のもとにいろんな仲間が複数集まって、それに関してはみな同等と言うか、平等であるというような仲間意識と言いますか、そういうことだと思うんだけども。

僕なんかはそういった仲間意識が、何と言うか、天邪鬼かもしれないけどちょっと気持ち悪いっていうのもあるわけですね。まあ僕の話はおくとしても、それはどうなります? ある種、組織化もされるだろうし、誰かがグル化するかもしれないというところにいきますよね? いかないですか? 要するに組織化されていくってことですが。

ヤス そうそう。たとえばそういうような人たち、まあ普通の日常生活の積み重ねの中で生きる意味を感じられないというタイプの人たち。それは放っておいたら、いわゆる宗教的な教団や何かの組織からのアプローチがなかった場合、みんな集まってストレスをいろんなところで、暴動とかね、デモであるとか、ストリートギャングであるとか、いろんな暴力的な形で発散するというだけになると思うんです。そういう層にキリスト教原理主義的なものというのは全然違ったアプローチをする。

それだけ苦しんでいる原因を君はわかっているのか? というようなアプローチをするわけですね。それは、あなた自身が神から与えられている生きる意味を見てないからだと。生きる意味はこうなんだと言って、いわゆる原理主義を土台にした生きる意味を上からバンと与えるわけですよ。

西塚 意味が与えられるわけですね。

ヤス 意味が与えられる。我々と一緒にやってみないかと。それで意味を感じることができると。そのやり方で聖書を読む。彼らと一緒にある程度活動した場合、神が私のために与えてくれた生きる意味とはこれだったのか!と悟るわけですね。

西塚 それは悟ることになるんですか?

ヤス 我々の言う“悟る”というより、彼らには“気づき”になるわけですね。ひとつのね。

西塚 “悟る”って英語であるんですか?

ヤス enlightenと言います。

西塚 ああ、enlightenか。そうかそうか。

ヤス いずれにしろですね、そういうような原理主義的な思想によって、生きる意味を一気にパッケージ化して与えられる。神が自分のために用意してくれた、自分のみに与えられた生きる意味を発見する。それと同時に世界がわかっちゃうわけですね。勧善懲悪のグレーゾーンのない極めてわかりやすい世界ということでわかっちゃう。そうすると、そうか、俺を苦しめているのは悪魔なんだ(笑)。

西塚 僕はそこが相対的、あるいは絶対的なのかもしれないけど、テーマになってくると思うんです。たとえば今言ったような人たちが、どこかの組織に植えつけられて、あるいは諭されてですね、そうなのか、俺はこうだったんだというときに、生きる力が湧いてくるとするじゃないですか。それは違う言い方をすると、現実で創造していく力をもらったということですね。あるきっかけによって。その人たちが力がみなぎって、生命力が溢れるような感じで生きる希望も湧いてきたとするならば、それはそのきっかけによって自分の中から湧き上がってきたってことですね。だから本来、そういうものが自分の中にあるということです。

ヤス そうです。人間みんな持ってます。

西塚 持ってるということですね。それがたまたま、エヴァンジェリストたちの言葉かもしれないし、ひょっとしたらISに参加することになるかもしれないけど、もともとは自分の中にそういうパワーがあるというとで、僕は何が言いたいかと言うと、外から与えられたものじゃなくて、生きる力とか現実を創造する力は、もともと自分たちの中にあるということなんですよ。だから先ほどおっしゃったようなことは、いわゆるビリー・マイヤーの話にもつながると思うんです。現実を創造するということはどういうことかと。

ヤス そこに入る前に、この原理主義の話の延長で言うと、たとえばジハディストっているじゃないですか。いわゆる自爆テロをやる人間たち。そういう人たちを見てると、本当に教育水準が低くて貧困層である、ということではない場合があるんですね。

たとえばパレスチナ出身、まあパレスチナとは限りませんけども、たとえばサウジアラビアの中産階級の上のほうの出身で、それこそ欧米の教育を受けてると。ヨーロッパの大学院の博士過程ぐらいまでいってる。そういう人がたまたまジハディストになる場合もけっこうある。その理由は、やっぱり彼らから見ると同じイスラム教徒が、パレスチナにしろイラクにしろね、本当に西洋によって痛めつけられてるわけですよ。それが、俺だけがのうのうと生活してていいのかと。こんな人生に意味があるのかと思うわけです。それで悶々と悩む。

そういう人のところに、原理主義的なイスラム教の哲学が響くわけです。君は欧米で教育を受けて、いわゆる敵のキリスト教圏で教育を受けてね、それでのうのうと中産階級で生活してると。君は悪魔に魂を奪われたのか?と言われるわけですね(笑)。本来の自分の生き方を徹底的にはずされてると。改めろと。アラーの神の使命のもとに生まれてきた本来のお前の生きる意味を自覚せよ。その生きる意味は何かと言うと、魂をジハードに捧げることだったりするんですね。

西塚 今のお話だと、17、8歳から20代ぐらいに欧米の文化の中で教育を受けた十分知的な人たちですね。イスラムの人たちがそうなるというのは、根本は何なんでしょうか。たとえば自分はイスラム教の国に生まれたし、家族も仲間もみんなそうだという同胞意識からくる罪悪感なのか、あるいはある種の強制、お前の本当にやりたいことはイスラム教に基づいたものではないのか、お前は堕落したんじゃないかと強制的に自覚させられたものなのか。そこで、言われたほうがハタとして、もしジハディストになるとすると、良心の呵責なり罪悪感が根本的にあるってことですね。

ヤス そうです。根本的に罪悪感に訴えかけるわけです。だからジハディストというのはテロリスト扱いされてるけど、ある意味でやさしい。いわゆる虐げられているという情報を自分の苦しみとして感じるぐらいのやさしさは持っている。たとえばね、我々も友だちたくさんいるけども、友だちの中にあるカテゴリーに入るような人たちがいたとします。なかなかそのカテゴリーはうまく言えないけどもね。日本ではイデオロギーによる極端な差別とか人種差別はあまりないですから。

たとえば我々のまわりで、そうですね、在日朝鮮人の人がいたとします。僕の友だちにもいるけど、ある程度の割合でいたとする。我々の友人の在日の人たちだけが極端な差別と弾圧を食らっていたと。どうします? 日本社会が大きく変質して、仲のいい在日の友だちがね、社会制度からも差別されるし、役所からも差別される。日本国籍まで奪われるくらいの徹底的な差別をされる。弾圧をされると。そうしたときに、西塚さんはどんな思いに駆られる?

西塚 それはやっぱり救いたいと言うか、助けますよね。助けるような方向で動きますね。

ヤス ですよね。どうやって助けるのか?

西塚 ひとりではできないこともいっぱいあるだろうから、同じような思いの人を見つけながらやっていくしかないと思いますけどね。

ヤス そうですね。そうすると相手の弾圧側、差別する側、これがものすごく強大な権力を持った組織であり、機関だとしたら、それに対してどう戦う?

西塚 状況によりますけどね。効率的な案を模索するでしょうね。

ヤス そうでしょうね、やっぱり模索するんですよ。言って見れば彼らも模索した。模索した結果がある意味であのジハード。

西塚 これしかない、ということですか?

ヤス そうですね。それによって私自身が神の世界に召されて、そこで最終的な絶対的な幸福を味わうことができる。

西塚 それは僕は否定しないと言うか、わかるんですよ。たとえば三島由紀夫がそうだと思うんですね。あれも勝手な思想的なものかもしれないけど、最終的には自分が行動で示して後に続くものに訴えかけるということが、ひとつの究極としてあるわけです。いろいろネゴシエーションしながらですね、法律を作ったりするということができない場合、問答無用が出てくるわけでよ。殺しちゃうとか、それこそテロが起きるわけで、それはよくわかりますけども、テロは一番不幸な形ですね。だとすれば、今のジハディストたちは相当不幸な形に追い込まれていると考えたほうがいいのかもしれない。

ヤス そうです。だから原理主義的なものに入ってくるには、条件があると。第一に、毎日の日常生活に生きる意味を確認することが難しいという状態。毎日の日常生活の連鎖が苦しみをともなっていて、はっきりとした生きる意味のね、充実した確認を毎日の日常生活で拒絶されているような人々ですね。

それから第二に、自分の同胞が大変な苦しみを味わっている。それを救いたいという思いが極めて強い。これにですね、原理主義的な声というのは確実に響いてくる。まさにお前は神から与えられた本来の自分の生き方を自覚していない。自覚せよと。本来の神から与えられた生き方、お前の意味というのは、こうこうこういうような意味なんだと言って、その意味を知った段階で目ウロコ状態になるわけです。

それと同時に、その原理主義的なフィルターを通して世界を見ると、勧善懲悪的にはっきり二分化して見えるわけですよ。世界ってやっぱりそうだったのかと。俺は今まで知らなかった。俺のすべての生き方は今まで間違っていた。そのようにして、今までの普通に生きている自分自身を相対化して見ることができる。それによって今の自分自身のリアルタイムの苦しみから、ある意味で自分が相対的に引き離されて救われるわけですよ。

西塚 僕そこでちょっとわからないと言いますか、詰めたいのですが、差別されてると。ある異国の宗教というだけで。そこであからさまな暴力が振るわれているなら、わりと戦いやすいと思うんです。たとえば、アメリカは僕はよくわかりませんけども、でもある州にいたら全員が敵であるということはなかなか考えにくいですね。今の世の中に差別があるとしてもですね。だからそういうのではないという気がするんです。

要するに、細かい戦いは無駄だな、あるいは無理だなという人たちが、究極の肉弾戦にいくと思うんですけども、それはあからさまな暴力じゃなくても、じわじわっとした空気だったりもすると思うんですが、だとすれば僕はそれはわりと解決しやすいんじゃないかと思うんですね。

だいたい三種類いるじゃないですか。いじめる人、いじめられる人、それを見て見ぬふりをする人という。見て見ぬふりをする人たちが何とかすれば、解決することはできるんじゃないか。だから究極なジハディスト、ジハードするというところまでいくのは、もっと違う原因、もっと先導された、ある種の絶望感に裏打ちされたような、皆殺しにしてやるというような…

ヤス そうですね。恨みですよね。だから出てくるのは同胞に対する愛情の裏側にある恨みですよ。これだけ苦しめてきたという。

西塚 あと自分は具体的な迫害を受けてないんだけれども、同じ民族であるがゆえにシンパシーを感じて、自分はわりと普通の生活はしているけども、何となくシケた感じを解消するためにそっちのほうに飛び込んでいって一生を捧げる。死んでもいいと。彼らのために戦うと。いわゆる特攻隊に近いものも出てくるのではないかと思うんです。どんどんどんどん。その負の連鎖と言うのか何と言うのか、まあもうちょっと冷静になったほうが、と言うとあまりにも甘い言い方かもしれませんが…

ヤス いやいや、ひとつやはり認めなくちゃいけないのは、どんな人間でもこの原理主義的なメンタリティーを持ってるということですね。

西塚 そうですね。それはあります。

ヤス ある社会的な条件がそろった場合、その原理主義的なメンタリティーが、多くの人たちの中でONにされるってことです。もしね、そういう原理主義的なメンタリティーは多くの人間が持っているということに、ひとりひとりの人間が自覚的になれば、ONにされるスイッチを外すことができるわけです。そうではない場合が多いわけだ。そのまま原理主義的なメンタリティーがONになって、うわーッって走っていくということですね。

西塚 僕はいろんなことを言ってますが、僕のメンタリティーはわりとそこに近いんですよ(笑)。

ヤス 原理主義ですね(笑)。

西塚 自分でわかるわけです。原理主義と言うかですね、うわーッてなるという…。ヤスさんとの対話の中でもわかるんですね。自分はやっぱりカッとなるし、熱くなっちゃうということがあって。そこで絶えずヤスさんの冷静な目があるということでクールダウンされるわけですね。それがいかに必要かということが、へんな言い方ですが身をもってわかるわけですよ。

僕はたまたまヤスさんとお話できてるからわかるんだろうし、あるいはヤスさんの本も含めて、いろいろ本を読むからわかる部分があるんでしょう。だからますますそういうメディアというものが今までとは違う意味で重要であるし、なおかつエンターテインメントとして、人口に膾炙する形で普及させるということがすごく大事なのだなとあらためて思ったわけです。話が逸れましたが。

現代の原理主義に対抗する現代の意識とは?

ヤス 原理主義的なメンタリティーはこれからどんどん主流化してくる。世界各地で。それに対するブレーキがだんだんなくなってきたということなんですね。たとえばね、それが20年ぐらい前であるならば、まだ原理主義的なメンタリティーに対するある意味でのブレーキが効いた。なぜ効いたかと言うと、原理主義的なメンタリティーがどれほどの破壊をもたらしたのかということを実感した世代が生きてたわけですね。

たとえば太平洋戦争というのがね、国民の支持を支えたのは原理主義的なメンタリティーですよ。勧善懲悪的な原理主義のメンタリティーですよね。それがどのような破壊をもたらすかいうことをもう骨身にしみた世代があったので、それが大きなブレーキ役を果たしてきた。今の時代というのは、そういうブレーキ役を果たすような世代がいなくなるわけですね。

西塚 みんな死んじゃってきてますからね。

ヤス 死んじゃってる。戦後70年経ってきてね。そうするとやっぱり世界各地で原理主義的なメンタリティーがどんどん、今も強まってるし、これからもっと強まる。たとえばヨーロッパのほうでは、シリアを中心とした中東諸国から入ってくる膨大な数の難民によって民族主義が刺激されて、原理主義的な民族主義的なメンタリティーになってくるでしょう。

じゃあアメリカはどうなのかと言うと、グローバリゼーションによる格差社会がどんどん進行してね、その中で生きる意味を見出せなくなったような膨大な層が出てきている。この中にキリスト教の原理主義的なメンタリティーが浸透していくでしょう。もう浸透してますけどね。じゃイスラムはどうなのかと言うと、はるか前からそのような原理主義的なメンタリティーがイスラム諸国のいろいろな層で浸透している。日本はどうなのかと言うと、やっぱり日本もですね、非常にナショナリスティックな戦前の原理主義的なメンタリティーがもう一回復活してるわけですよね。

そうすると世界各地で民族主義、原理主義的なメンタリティーがひとつの主流になってくる。問題はここなんですね。どうやって阻止するかなんですよ。僕はいつもそれを考えて思うのは、やっぱり30年戦争の例を思うんですね。1618年から1648年までドイツを中心とした30年戦争があった。これはルター派のプロテスタンティズム対カトリックの凄惨な争いですよ。それで数千万人、まあどのくらいの数かわからないけど、一千万人を超える数が死んでるんじゃないかって言われてる。それはそれこそ宗教的な原理主義の争い。本当にね。絶対的な善と絶対的な善がお互いに戦うわけだから。自分の原理に属さない連中は全員、殲滅してもかまわない悪魔になるわけです。それはもう妥協のない戦いになる。

妥協のない戦いになったあと、1648年にウェストファリア条約ができる。ウェストファリア条約は、現代の国際的な秩序の原点になっている。それはまず、それぞれの国家は主権を持つと。第二に主権国家の国内問題にはいっさい介入しないということ。彼らがどんなに我々と異なった価値観で国を運営してようが、その主権国家の価値観に他の国は介入することが許されない。そのように、お互いに独立した主権を持った国々が形成するのが国際秩序である。したがってこの国際秩序はバランスオブパワーによって運営されなければならないということなんですね。お互いの普段の原理に基づいたら殺し合うのでね。とにかく普段の交渉と対話によってバランスオブパワーを維持していくというのが、ウェストファリア条約だった。これが30年戦争が生み出した大きな知恵なんですね。現代にも続いている。

キッシンジャーがですね、最近面白い本を書いたんですよ。これが最後の本じゃないかって言われてるんですが、そこで言われてるのは、私が原点にしているのはウェストファリア条約だったと。私が何をやろうとしているかと言うと、ウェストファリア条約のバランスオブパワー、それによって異なる価値観を持ったさまざまな国を、バランスよく統治する方法を私は模索したんだと。それをやろうとしたんだと言うわけね。

それはかなりの長い間機能したと。戦後70年ぐらいは機能した。それは絶対的に正しい原理の主張ということを諦めたもとに成り立っていた。それがキッシンジャーの言っていることなんですね。キッシンジャーがなぜその本を書いたかと言うと、ウェストファリア条約の持つバランスオブパワー、すなわち絶対的に正しいという原理に依拠しないということね。依拠しないで、それぞれのさまざまな価値観を持ってる主権のグループが、お互いに利害調整しながらバランスを保っていくという秩序。どうもそのバランスオブパワーというものが、今の原理主義の進展によってボロボロになってきてるという本だったんですね。

まず30年戦争が生み出したひとつの利点はこれです。あともうひとつ大きなものを生み出した。それは現代科学です。前にちょっとお話したかもしれないけども、やはり宗教的な原理に依拠したならば最終的に殺し合いになる。宗教的な原理ではない、何か別の世界観を構築できる原理性が必要になる。それが科学だったということですよ。その科学というものを作り出していくための世界観が必要になってくる。世界に対する見方。その世界に対する見方を宗教的な原理に依拠したならば、それはもう科学でも何でもない。また原理主義の争いになるわけですよね。そうすると、どんな宗教に所属していても、誰もがみんな納得する統一された原理はどこにあるんだと。

西塚 興味深いですね。

ヤス 言ってみれば、デカルトがやろうとしたことはそれなんです。どんな宗教、イスラム教でも、仏教でも、ユダヤ教でもいいし、またはキリスト教でも、プロテスタンティズムでもカトリックでもいい。どんな宗教に所属しても、これだけは納得せざるを得ないという究極的な原則はあるのかってことからスタートしたんですね。デカルトは。それで思い立った究極的な原理は、我思うゆえに我あり。あれなんですよ。

西塚 じゃあ、いわゆる科学というのは人類のある種のプリンシプルだと。

ヤス そうです。

西塚 デカルトはそれを意図したわけじゃないだろうけども…

ヤス デカルトはそれを意図した。

西塚 意図した?

ヤス 意図した。デカルトは科学を作ろうと思ってるわけじゃないんですよ。そうじゃなくて、宗教によらない普遍的な原理原則を確立しないと我々は殺し合って終わるぞという感じですね。

西塚 デカルトは近代的自我を打ち立てたということで僕は認識してるんですけど、科学ということでは僕はアリストテレスになっちゃうわけですよ。

ヤス 科学的な現実性ではそうですね。しかしながら、アリストテレスそのものは科学的な世界観とまでは言えないと思います。いろいろ科学的原則はあるんだけども。やはりデカルトの求めたのは、宗教によらない基本的な普遍的な原理とは何か。

西塚 明確な意志があった。

ヤス 意志があった。『方法序説』がそうでしょ。あれは大ヒット作になったんですね。ベストセラーになった。何でヒット作になったかと言うと、みんなそれを求めてたからなんです。それを読むことによって、宗教戦争に疲れてるような人たちがハッとさせられた。これが普遍的な原理だと。この普遍的な原理に基づいていれば、我々は宗教的な非合理なね、ファナティックな熱情から自由になれると。

西塚 なるほど。30年戦争の末に疲弊した民衆がそれを支持したと言うか、求めてた。

ヤス 求めてた。そうするとですね、ここからある異なった意識が生まれてくる。それは宗教的な原理に依存した原理主義的な意識とは全然違う。宗教的な原理主義に依存する意識とは何かと言うと、私は神の使命のもとに生まれてきたと。私を創り上げたのは神である。超越的な存在によって私は創り上げられた。私が生きる意味も死ぬ意味もすべて神という超越的な存在から与えられる。神の僕であるといったようなね。そういう自己意識が出てくるわけですね。

そのような自己意識のもとで生きるとはどういうことかと言うと、聖書なら聖書であるとか、イスラム教ならイスラム教でも何でもいいんですけど、いわゆる神から与えられた原理を基準にして、自分自身をコントロールしていくわけです。やっぱりキリスト教的な原理に合わないような欲望を持ったら、その欲望を持った自分自身を罪ある人間として罪悪感を持つ。だから告白せねばならない。たとえば町に出て、いいオネーチャンを見たと。おお、つき合いたいな、一発ヤリたいなと思ったと。そうしたらそれは神の原理に違反するよこしまな欲望であると言って、その人間は自分自身を責めるわけですね。責めて、教会にいって告白をすると。その連鎖の中で生きていくわけですね。そういう自己意識です。

西塚 懺悔するわけですね。

ヤス 懺悔するわけです。それに対して、デカルトの『方法序説』が何を保障したかと言うと、近代的な自我ですよ。いわゆる世界そのものがこのようにして見えて、世界そのものを認識しているのは私なんだと。私という存在は絶対疑いようがない。この私という存在の大もとにあるものは何か。自我である。自己意識てすね。そうすると、この自己意識は神が創ったかどうかなんて関係なしにね、私は私であるという確固たる意識、個であるという確固たる意識。これが私の根本にあるんだと。これは自我意識と言えると思うんですけど、神を主体とした意識から自我意識への強烈な意識の転換ですね。

西塚 今の話を聞いて気になったのは、要するに30年戦争の結果、疲弊しちゃった民衆がですね、ある種デカルト的な科学というもの、絶対的なプリンシプルみたいなものが新たに出てきたことによって、その通りだと。宗教じゃないものが出てきたと。それはわかるんです。そうなると突拍子もないかもしれないですけど、ソビエトのときのスターリンとトロツキーの話でもいいですが、トロツキーは原理原則にこだわった。世界共産主義革命までいかなきゃいけないんだという。でもスターリンは一国共産主義で一国でまとめていくというときに、トロツキーが負けたのは、ドイツも含めた戦争で疲弊した民衆が、もういいよ戦争は、もう一国でちゃんとまとまってやっていこうと。そっちのほうに意識がいった結果じゃないかと思います。

僕は全然、共産主義者でも何でもないんだけれども、トロツキーの気持ちもわかる気がするわけですね。マジョリティがどちらにつくかというのは、そのときの生活観とか、面倒くささとかも含めて、わりと安易にこっちのほうがいいよってなびく。そうすると、上部のほうの思想の対立の本来の意味が無化される。上部も民衆を味方につけなきゃいけないわけですが、その民衆というのは意外と生活とか日常レベルのものに支配されてて、それにかなり動かされている。ここを見誤ると上では権力闘争に敗れる。

そうなると、マルチチュードではないいわゆる一般大衆の動きというのはかなり大きいし、危険だっていう気がするんです。でも僕のこの言い方は敷衍させていくとエリート主義になっちゃう。大衆はバカだ、愚かだ、田吾作だと言って、だから我々がコントロールしていかなければいけないという、官僚とか左翼と同じになる。

その微妙な加減なんだけども、結論的に言えばやっぱりヤスさんが言った「カオスの縁」を意識して、今じゃあどういう状況に世の中がなっているのか、どういう感じで日本だったら日本人の気持ちが動いているのかということを見なきゃいけない。そのときに一番必要なのは日本国内外の情報であって、それでしかおそらく判断できないでしょう。自分の意見がそこに加味されて、ましてやこうしてヤスさんと情報交換していくということしかないのかなと思うんです。絶えず頭の中を動かしていく。

ヤス 確かに。どういう方向に動いていくかと言うと、今の話を総合していくと、デカルトの『方法序説』がウケたというのは当時の民衆一般がですね、やっぱり原理主義的な戦争に疲れてた。それは宗教的な原理性によらないような普遍的な原理に対する希求が、普通に存在していたがゆえにベストセラーになったということだと思います。じゃあ今はどのような状態にあるかと言うと、結論から言うとね、デカルト並の意識の転換が必要だということなんですよ。

今またあらためて出てきてるのは30年戦争どころではない。もっと極めてグローバルな意味での原理主義化がどんどん始まってるわけです。その原理主義化の流れといったもの。たとえばイスラム圏の原理主義化、キリスト教のような一神教の原理主義化、ユダヤ教の中の原理主義化、それから日本のような国家神道的なものの原理主義化といったメンタリティーが、どんどんどんどん強化されてるわけですね。これがものすごい破壊にいたる前に、我々は新しい意識を獲得せねばならないということです。僕はそこで一番鍵になるのはビリー・マイヤーなんではないかと思う。

西塚 まさしくおっしゃるとおりですね。前回、一向一揆の話をちょっとしましたね。日本においては一向一揆ほどヨーロッパの30年戦争並みのものはないのではないか。浄土真宗ですけども、中でも一向宗の一揆がものすごい力を持ってですね、それで自治権も持ってもう自分たちで全部やるんだと。それで加賀から始まってやるんだけれども、最終的に織田信長に徹底的にやられるわけです。子どもから何から根絶やしにされるじゃないですか。なぜかと言うと、宗教だからですね。ちょっと根っこがあるといつまた復活するかわからない。そういう争いになりますよね。何万という、おそらく日本最大の虐殺です。日本人が日本人を殺した唯一に近い大虐殺だと思いますが、そういうものを日本人は持ってるじゃないですか。

ヤス 持ってますね。

西塚 世界的にももちろんあり得る。僕が怖いなと思うのは、原理原則の話になるんですが、彼らは理想を求めたわけですよ。ある信仰のもとにまとまるというだけの話なんだけども。でもあそこまでいってしまう。そうなると簡単な算数の話で言えば、じゃあ地球の人類がひとつにまとまる宗教なり原理原則があれば一番いいって話になりますね。と言うことで、各宗教がいろいろと目指している。目指してないのかな? 自分のところだけよければいいのか。

ヤス だから、自分のところが世界的な原理であると主張してるわけです。それ以外はあり得ないと。

ビリー・マイヤーの重要性

西塚 あり得ないということですね。そこで僕はまさしく、今おっしゃったビリー・マイヤーの書籍が主張していることがひとつの可能性を秘めている気がするわけですね。要するにひとつにまとまれるような、みんなが納得できるような原理原則に近いものを提案しているという意味において、稀有な書物かなという見方をしていますけども。ヤスさんにちょっと解説していただいたほうがいいと思うんですが。

ヤス ビリ・マイヤーはUFOのコンタクティーということでみんなに知られるようになった。それでいろんな予言とかね、プレアデス星人がいるかどうかわからないけども、コンタクトの記録を読むとね、極めて高度で、何と言うかな、思想の内容としてのクオリティーが高いので面白いと思ったんですね。それで読んでいったんだけど、これはUFOのコンタクティーというような本当にちっちゃな、どちらかと言うとトンデモ系のカテゴリーで理解すべきような人間ではないということがよくわかった。

彼は膨大な書物を出していて、ほとんどが哲学書に近いんですね。原理は極めてシンプルなものなんです。人間の中には物質的な意識があると。その物質的な意識の向こう側に本来の霊性、ソウルがあって、それは宇宙的に生命そのものを創り出している根源的な、宇宙的な創造というものが人間の体に宿ったものだと。そういう超越的な霊性がある。その説明をどんどん読んでいくとですね、たとえば日蓮の言う仏教の中の仏という概念にかなり近かったり、グノーシスといったようなユダヤ教の密教的な部分ですね。西洋の中でもあるような密教の言ってるいわゆる神の部分、すなわち人間自身の内部に存在する神という概念にかなり近いということなんですね。

西塚 もう今日は時間も過ぎましたが、次回からはそのへんからいきなり入って…

ヤス 入ったほうがいいですね。ユングが最終的にこういうことを言ってるわけです。何度も同じようなことを本には書いてるんですけど、要するに我々自身の内部に、超越的な霊性と言うか超越的な意識をいかに発見するか。それにアクセスすることによって、実は我々自身が現実を形成することができるのだと。

30年戦争のときの原理主義を乗り越えるには、自我の発見でよかったんですよ。今は無理です。自我の発見でね、デカルトに戻ることによって現代の原理主義を乗り越えるというのは無理です。今は現代的な原理主義ですから。デカルトであるとか科学主義をはるかに超越したところにあるような、最もモダンな原理主義ですからね。そのような原理主義に対抗するためには、やっぱり個の内部にひとつの超越性を確実なものとして発見する。その発見に基づいた新たな意識性が絶対に必要になるということです。

西塚 最大のと言うか、何回目かわかりませんけども、人類のある種のパラダイムシフトが必要であると。

ヤス パラダイムシフト。これが本来あるべきスピリチュアリズムだと思いますよ。

西塚 おっしゃるとおりです。じゃあ次は時事問題をちょっとやってからいきなりそっちにいきますか?

ヤス いきなりそっちにいきましょう。そっちのほうがいいですね。

西塚 ありがとうございました。また次回よろしくお願いします。

ヤス いやいや、こちらこそ。どうもどうも。

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