だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

世界の創造~ゼランド編⑨

前回、願望をかなえたかったら、ただそう意図して行動すればいいと書いた。

少年ジャンプを買いに行く例もあげた。ジャンプを買いたければ、ただ買いに行けばいいというだけの話だ。

だから、そこには本来、“願望” などという大げさな言葉はいらないくらいだが、わかりやくするために書いた。

でも実際、ジャンプを買うという一連の出来事を緻密に見れば、家にいて、あ、ジャンプが読みたいなと欲し(まあ、願望し)、買いに行こうと “決意” し、財布を探し、チャリンコに乗り、コンビニに行って、ジャンプを手に取ってレジに行く。ということになる。(ちなみに私は何十年もジャンプは買ったことがない)

そんなことは当たり前のことだし、何で “願望” をかなえる話に、そんなくだらないことを言うんだという向きもあるかもしれないが、エネルギー面で言えば、いわゆる “願望” をかなえるということは、これとまったく同じであると言いたいのだ。

人は、ジャンプやボタモチを買いに行くことに対しては、基本的には何も “不安” や “恐怖” を覚えず、すんなりと行動し、ジャンプやボタモチを手に入れる。

しかし、たとえば東大に入りたいとか、歌手になりたい、あの子とつき合いたい、億万長者になりたい、世界を平和にしたい、編集者になりたいなど(最後の例はちょっとショボいが)、それが自分にとってとてつもなく大切であり、自分の全存在がかかっているとなった場合、そこに強い “願望” が形成され、過度な価値・意義、つまり “重要性” が付加されて、例によってエネルギーの平衡状態に偏りを発生させてしまう。

そしてその願望が強ければ強いほど、自然のエネルギーの偏りを解消させる力によって、願望がかなわないありとあらゆる現実化が起きるのである。

だからジャンプやボタモチにしても、それが何かの事情でアセるほど必要であれば、ゼランドの提示する理論で言えば、その人の内面は普通の平穏状態ではなくなり、いざ買おうとしても財布がなかなか見つからなかったり、途中でチャリがパンクしたり、コンビニが改装中だったり、近所の人にバッタリ会って、よもやま話につき合わなければならなくなったりして、ジャンプを買うことを邪魔しはじめる。

さらに、もしジャンプを買うことが死活問題に関わるほど重要なことだとすれば、ジャンプが休刊することまであり得るのだ。

まあ、普通は休刊までにはいたらないだろうが、それは “統計的にそんな非常識なことは起きない” という理由からではなく、“自然のエネルギーがジャンプを休刊させる労力を使うほど、人が強い願望を抱くということは普通はない” という理由による。

ゼランドのトランサーフィン理論から言えば、そうなるのだ。

人は、いろいろな現象を説明・解釈するにあたっては、いろいろな理論・理屈・モデルを参照できるし、いろいろな説明・解釈が可能なはずだが、だいたいにおいて、これまでになじんだ理論・理屈・モデルを自動的に採用し、自動的に説明・解釈することに慣らされ切っている。

だから私は、理論・理屈・モデルにもいろいろあるし、そのひとつとして、ゼランドの「リアリティ・トランサーフィン」を紹介しているにすぎないのだが、その話もまた長くなって脱線していきそうなので、とりあえずおく。

話を戻せば、逆に東大に入りたいにしても、歌手になりたいにしても、誰かとつき合いたいにしても、憶万長者になりたいにしても、何にしても、つまりそれぞれについて、ジャンプを買うことと同じように、あ、ジャンプが読みたいなと欲し(願望し)、買いに行こうと “決意” し、財布を探し、チャリンコに乗って、コンビニに行って、ジャンプを手に取ってレジに行く。ということを行なえばいいだけなのだ。

東大に入りたいからといってコンビニに行ってもしょうがないから、それぞれの場合によってそれぞれに必要な行動の順番があり、それを淡々とこなせばジャンプが手に入るようにそれを手に入れることができる。

ただ、その手に入れる方法や行動の手続き、また手に入れるまでの時間などが違うだけで、あとはまったく同じだということだ。

この手続きの方法、手に入れるまでの時間というのがクセモノであり、また最大のクセモノとして、人には “罪悪感” や “劣等感”、“完璧主義” などというやっかいなものがある。

実はこれが、前回の最後に書いたように、いわゆる願望をかなえるときの大いなる “邪魔” となっているのである。

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