だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

世界の創造~ゼランド編⑩

願望をかなえるのに邪魔になるのが、“罪悪感” とか “劣等感”、“完璧主義” と書いた。

ここで “罪悪感” についてだが、ゼランドは一般的にはとうてい受け入れられないことを主張する。中には怒り出す人もいるだろう。

ひと言で言えば、罪悪感は持つ必要がなく、すっぱりと縁を切るべきだと言うのである。

自然のエネルギーには善悪の概念はない。人間にとってわるい行ないでもよい行ないでも、自然エネルギーにとっては等価なのである。

ただ、平衡・平穏を保っているエネルギー状態において、どこかに偏りが発生すれば、自然のエネルギーは偏りを解消しようと、つまり元の平衡状態を取り戻そうとして、偏りを創った相手からその偏りを創った原因を排除するような、現実化=物質化を行なう。

人がわるい行ない(と思っていること)をする。そして罪悪感を持つ(=われに罰を与えよ)。

自然エネルギー状態には善悪の概念はないので、罪悪感を抱くということは、そこに人が無理やり本来あるはずのない架空の “悪” を創り、それに対してあるはずのない “罪” を感じることになるので、エネルギーの場に “偏り=しこり” を形成する。つまり平衡状態を乱す。

そしてエネルギーは、元に戻ろうとしてその偏りを解消しようとする。

しかも罪悪感を抱いたということは、その人は潜在意識レベルですでに罪を認めており、罰を受けることに最初から同意していることになる。

結果的に、その人は必ず何かしらの罰を受けることになるし、自然エネルギーのほうでも平衡力が働いて、そういう現実化を行なう。

逆に、よい行ない(と思っていること)をしたとしても同じで、人が架空の “善” を創ると、それに対して “優越感” などを感じ(=わたしに褒美を与えよ)、やはりエネルギーの偏りが形成され、その偏りを解消すべく、自然のエネルギーはその人に褒美ではなく罰を与える。

なぜなら、もし自然エネルギーの平衡力が、褒美を与えるような現実化を行なったとしたら、その人はますますあるはずもない架空の “よい行ない” を誇ったり、優越感を持つ感情を煽ることになってしまうからだ。

自然のエネルギーは偏りを解消するために、その人の優越感を挫く必要があるのである。

しかも、罪悪感の場合、それが他人などの自分の外部から与えられたものであれば、最悪なことになる。

「お前のせいだ」「お前がわるい」「お前が責任をとらねばならない」などと、自分が正しいと信じる人たちから責められた人は、良心の呵責から罪悪感を持つことになり、しかも責め立てる人たちからの “怒り” までも買うことになるからだ。そして、その人はあらゆる罰の現実化を被ることになる。

責め立てる人たちにしても、架空の “悪” に関わっているので、何かしらの自然エネルギーの平衡力を被りそうなものだが、そうはならない。

なぜなら、責め立てる人たちは、「お前は罪を犯したが、わたしは犯してない。だからわたしはお前よりマシだ」「お前は正しくなく、わたしはお前よりは正しいんだから、お前はわたしの言うことを聞かなければならない」などとして、実は自己肯定化をはかっているからである。

人を責め立てたり、説教をする人たちは、他人を低く見積もることによって、つまり他人を犠牲にすることで、自己肯定をしている。こういう人たちは、自分の内面では常に疑惑や自信のなさに苛まれているのだが、
周囲からは巧みに隠している。

だから、基本的に善良で気の弱い人たちが、何かで罪悪感を抱いたとすると、そのテの人たちは意識的か無意識かに関わらず、すばやく察知し、自分の自己肯定化をはかろうとしてすり寄ってくる。

こういうヤカラについては、“エナジー・ヴァンパイア” としてゼランドも触れているが、また別の機会に検証してみたい。

これはこれで深刻な話なのだが、そしてレプタリアンその他、いろいろな呼び方をされている地球外生命体とも関連していると、個人的には思っているところだが、今はおいとこう。

とにかく、人を責め立てる人たちが、自然のエネルギーの平衡力の作用を受けないのは、罪悪感を抱く人を犠牲にして自己肯定化をはかっているからで、エネルギーの動き的にはプラスマイナスゼロなのである。

つまり、客観的にエネルギー状態だけを見れば、罪悪感を抱いてる人のエネルギーを吸収することによって、
自分は被害を免れているのだ。

そして、罪悪感を抱く人のみが、自分を正しいと信じて疑わない人たちにエネルギーを補給し、ある意味残酷なことではあるが、エネルギーの平衡力によって罰を受けることになってしまう。

他人を犠牲にし、良心の呵責も罪悪感も微塵にも感じない厚かましい人々は、自然のエネルギーの平衡力の作用を受けず、場合によっては大成功を勝ち取ったりもする。

君主や権力者の罪悪感は可能な限り小さいか、あるいはほとんどないのが相場だ。

だからゼランドは、わたしたちはいかなるときでも、“罪悪感” や “良心の呵責” で悩んではいけないと主張する。

じゃあ、どうすればいいのか?

“罪悪感” や “良心の呵責” に悩まないように行動すればいい。

わたしたちは、誰の前であっても弁解をする必要はなく、義務も負っていない。あるとすれば、それは自分の信念によってそうするのであって、誰からも強制されることではない。

それでも、何かしら罪を犯したと思った場合に(刑法的犯罪は除く)、人はエネルギーの偏りを形成しない方法をひとつだけ、考案した。

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