これまでの『おやすぴ』や『宗任問答』、また過去のブログでも、「考えるな、感じろ!」というブルース・リーの有名な“金言”に関しては、ちょっと安易に流通しすぎてるんじゃないの?みたいなことを言ってきたわけだが、ある程度説明しておこうかと思う。
もちろん私見だ。
あの「考えるな、感じろ!」は、ご存じのとおり、ブルース・リーの映画『燃えよドラゴン』の1シーンに出てくる。
ここが肝心だが、あれはリーが師匠として弟子に稽古をつける場面で放たれた言葉だということだ。
リーが少年に稽古をつける。
「私を蹴ってみろ」と言う。
少年が蹴りをかますが、リーは「何じゃ、そりゃ?」と言う。
「どこぞの見せもんか」と。「中身が何もねえぞ。もう一回やれ」
カチンときた少年がまた蹴りをかます。
リーがサッとかわして、「“中身”がねえと言ったんだ。“怒り”じゃねえぞ。もう一度やれ。“私と”やるんだ」
少年がようやく“気”の入った蹴りを繰り出すと、リーさんひどくご満悦で、「それだ! どんな感じだ?」と聞く。少年は「えーと…」と考え出したところでバシッ!とはたかれ、
「考えるな、感じろ!」
と言われるわけである。
そして、「たとえて言えば、月を指し示す指のようなもんで…」と言ったところで、少年がチンプンカンプンな顔つきでリーの指先を見つめると、またバシッ!とやられて、
「指に気を取られると、真実には辿りつけねえぞ」
と諭されるのだ。
ずいぶんな意訳だし、ブルース・リーがそんな下品な話し方をするはずもないが、だいたいがそういうことである。
「中身がない」の部分の“中身”も、正確には「emotional content」だから、直訳すれば「感情的な内容」というような意味だ。
しかしこれは、「蹴ってみろ」と言われた少年が、型どおりのキックをしたことに対する言葉だから、ただ形だけの蹴りを見せるのではなく、相手(この場合はブルース・リー)と自分との関係、それは「敵と自分」といった関係でもいいだろうし、「師匠と弟子」の関係、あるいは“武術を通して真実を掴もうとしている修行者”としての自分が、今、師匠から稽古をつけてもらっている「蹴り技と自分」との関係でもいいが、ともかく「相手」と「自分」と「蹴り技」の関係をしっかりと掴んでいるという意味での「中身」、「内容」、「emotional content」を見せろということだ。だからこそ、「with me」という言葉も生きてくる。
要するに、形骸化した技にしてはいけない。
そのためには相手(対象)と自分や、それらと技との連関、ダイナミズムのようなものを感じ取る必要があり、それがわからなければ相手に蹴りがヒットしたり、技がかかったりすることはない。ましてや、相手にいくら怒りや憎しみをぶつけたところで、技としては届かないのである。
そういうことを釈迦の「指月のたとえ」をも持ち出して、リーは弟子の少年に教えようとしたのだ。
賢者や聖者は、空に懸かる月を「あそこにあんべい」と指し示すことはできるが、その月の明るさや美しさは、自分で見て感じるしかないのである。そして少年は、まさしく釈迦が警告したとおりに“指”に集中してしまったので、バシッ!ときたわけだ。
そうしたもろもろの流れというか、やりとりの中で出てきたのが、「Don’t think、feel!」なわけで、この「感じろ!」もひと筋縄ではいかない「感じろ!」なのである。
少年にしても、いい蹴りを繰り出すことができたのに、「どう感じた?」と聞かれて思わず、「えーと…」と考えてしまう。つまり言葉に変換しようとしてしまう。そこをバシッ!とされる。
自分と相手と技とがせっかく一体化できたのに、思考が働き出すと、その一体化した世界の感覚、感触が、言語体系に搦め取られて形骸化してしまう。生きた技にならない。だからリーは、少年がせっかく学んだ感覚をそのまま感じ取ってほしかったわけで、思考によって感覚が硬直化していくことを諫めたのである。
そして、「指月のたとえ」で、月を差し示す指に気をとられるのではなく、月から離れるな、月を見ろ、月を体験しろ、月をつかめと言っているのだ。
「指月のたとえ」は、真実そのものではなく、賢者や聖者が真実について語った言葉にとらわれて、言葉自体を懸命に解釈・分析するという態度に対する批判としても使われる。
何だか長ったらしくなったが、ブルース・リーが言うところの「考えるな、感じろ!」は、
そう単純な人生訓とか警句ではなく、ましてや「私たちは感じたままに生きればいいのね♡」といった、思考を放棄する人たちの“わがまま許可証”でもない。
だいたいがワシントン大学の哲学科で学び、哲学書は言うにおよばず、古今東西の思想書、武術書、自己啓発本のようなものまで、図書館が建つくらいの読書量を誇ったブルース・リーが、そんなに単純なことを言うとも思えないわけだ。
ブルース・リーは、感じたもの、感じ取ったものを、ただのつじつま合わせのために論理的整合性のみを追求しはじめるべく起動する思考に対して警鐘を鳴らしたのであり、思考自体を否定したのではなく、むしろ考えることと感じることが一体となるような境地というか、世界観、哲学、思想みたいなものに触れていたのだと思うわけである。
そしてそれは、私に言わせれば、まさしく“スピリチュアリズム”そのものなのである。
Commentコメント
西塚裕一様
西塚様の考察をすべて拝読した後で、師匠から「どう感じた?」と聞かれた時、弟子は、叱られないように、どう対応すべきだったのかと考えることは、出そろった料理の中から一番おいしい料理だけをちゃっかりいただこうとする姑息な態度だなあと反省しながらではありますが考えてみました。
ブルース・リーが喜んだ蹴りを少年が放った時、少年の心の中には、叱られた時の蹴りとは違った手応えがあったと思います。
ブルース・リーは、その蹴りを評価して、さらに少年が感じているその手応えを深めさせようとして「どう感じた?」と聞く。
ここからが、一番おいしい料理をちゃっかりいただくことになりますが、それだけだと吝嗇ということになりますのでデザートは自分で用意致します。
つまり少年が、その若さにも関わらず鋭い気のセンスを持っていたらどうなるのかと、ささやかな知識をもとに単細胞頭脳を絞り尽くして考えてみました。
(ところで私の武術的才能はゼロを下回っておりますので、どこまで類推が的を得ているのかまったく分かりませんので、眉にツバをつけて、お読みくださいませ。)
まず一番おいしい料理の確認。「むしろ考えることと感じることが一体となるような境地というか、世界観、哲学、思想みたいなもの」。
少年は、さっき叱られてますから、今度は、もう叱られたくないと(頭ではなく)身体で実感しています。
能動化した身体。
その身体は、ピリピリと緊張して、彼の武術的対応力、つまり瞬発力を最高レベルまで研ぎ澄まして待機させています。
その研ぎ澄ましによってピリピリした緊張感は、透明になる。
心の力みが抜ける。
待機させる場所は、丹田。
気の貯蔵庫であると同時に、気の増幅装置としての丹田。
少年の上半身の筋肉からも力みが抜ける。
研ぎ澄まされた瞬発力が、身体を臨戦状態にシフトさせる。
なにせ目の前にいる師匠は、ブルース・リーなのであります。ポカンとしていると、いつ、指導としての高速な突きや蹴りが飛んでくるか、まったく分からないのであります。その突きや蹴りを防御できなければ、痛いのであります。究極のサバイバルでは、死を意味するのであります。
上半身の力みが抜けると同時に体重が丹田に掛かる。
それを気分で感じると同時に気も丹田に落ちる。
防御と攻撃に向けて充実する丹田。
師匠から指導を受ける状況なので、右半身や左半身の構えは取っていない。
しかし両膝は微かに揺るんで、いつでも半身の構えに入る用意はできている。
それによって全身の体重が両足の裏に掛かる。
心がそれを実感することによって全身の気も両足の裏に落ちる。
人間の「立つ」という営みは、重力に抗って立つという営み。
そのようにして、立つことによって両足の裏から反発力が発生し、その反発力に乗って両足の裏に集まった気が丹田に流れ込み、ますます丹田は充実し、それによって瞬発力もさらに研ぎ澄まされる。
こうして(脱力したまま)全身に漲る瞬発力から、全身を包むように、あるいは全身から発散するように武術的に精錬された気が生み出される。
それは、肉体に先立って「先行する勢い」のようなもの。
少年の身体は、まだ静止しているが、全身を包む「先行する勢い」は、瞬時に動く体勢を充分に整えている。
そして、自分は、今、手応えのある蹴りを師匠に放ったばかり。
少年は充実感を感じている。
師匠の問いに対して、少年の身体は、瞬時に、今自分が「感じた」のは、身体に生きいきと存在しているこの手応えだ、と答を出す。
それは、さっき心を込めて全身で師匠に放った蹴りそのもの。
その答を、感じたままに師匠に答えるなら、全身で応えるしかない。
「先行する勢い」に満たされた身体は、一瞬で、そのように結論する。
またたくまにその結論は瞬発力と重なる。
重なった瞬間、少年は、沈黙したまま師匠であるブルース・リーに敬意を込めた眼差しを送る。
《今から、「どう感じた?」という質問に対して全身で答えます。》
それと同時に、瞬発力は、「先行する勢い」に流れ込み、その気が動く。
気に先導されて生きいきと滑らかに身体が反応し、少年は、さっきよりも威力のある蹴りを師匠に放っていた!
(気のプロセスを分節化して書きましたが、実際は、複数のプロセスが同時進行していると思います。)
好本健一
好本様
興味深いご考察、ありがとうございます。
もし少年が師に違う応え方をするなら、
といった仮想物語ですね。
私のほうこそ単細胞なので、
おそらくブルース・リーは、
単純に師との「一体感」のようなものを、
技を通じて感じてほしかったのだろうと思います。
でも、少年は感じたまま言葉に出す前に、
既存の言葉の中にリサーチをかけようとした。
だから、すぐさまバシッとはたかれて、
思考を止められたのだと思います。
せっかく感じたものが身に入る前に、
思考で固めて宙づりにされるのを防いだわけですね。
だから、そのあとで、
heavenly gloryを得られんぞ、
と言ったのではないでしょうか。
西塚