だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting vol.20 「トラウマの忘却と集合的感情の台頭」

人気ブログ『ヤスの備忘録』でもおなじみ、
社会分析アナリストの高島康司氏をお招きして、

1 世界で今、起きていること
2 人間の新たなる「精神性」「意識」「思考」

について、飲みながら自由闊達に話すシリーズ。
基本的に毎週更新。

〇『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』第20回
「トラウマの忘却と集合的感情の台頭」

ゲスト:高島康司氏
聞き手:西塚裕一(五目舎)
2015年11月8日 東京・中野にて収録

西塚 今日は『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』の第20回です。またヤスさんにおいでいただきました。今日もよろしくお願いします。カンパーイ!

ヤス どうもどうも。カンパーイ!

西塚 今日は缶じゃないんですよ。僕の合気柔術の先生は医師なんですが、アルミが溜まるということで、あまり缶ビールとか飲まないほうがいいという話がありまして。あまり気にしちゃいけないし、僕もガンガン飲んでますけど、一応聞いてしまったので、ヤスさんにアルミが溜まってもいけないかなと思いまして。ボトルからグラスで作ってます。

ヤス いえいえ、さんざん溜まってるかもしれない(笑)。

西塚 前回は最後にビリー・マイヤーの話になりましたが、まず今週の気になるところをお聞きしたいなと思います。BPOのお話はいかがでしたか? 放送倫理関係ですが。

ヤス ああ、文句をつけたという。NHKにあまりにも政府が介入したといって。

西塚 そうなんですよ。『クローズアップ現代』という番組でヤラセがあって、それに対する注意なんですが、自民党の人間がNHKの幹部を呼びつけて注意をしたと。それに対して不快感を表わしているわけです。BPOがですね。圧力だろうと。僕はそのBPOのことを別の原稿でもチラと触れたんですが、ちょっと気に食わなかったわけです。いろんな規制をしやがってと。しかし今回、BPOがそういう批判を思い切ってやった。僕は東京新聞ですけどね、けっこう大きく出てました。

僕は流れが微妙に変わったと言うか、そのことは何かの流れの一部のように感じているんですが、そのへんはあまり引っかからなかったですか、ヤスさんは。

ヤス いや、引っかかりますよ。何かね、来年の参議院選挙は日本の歴史を変える結節点になりますね。どの勢力が政治の主導権を握るかによって、我々の生きてるこの日本という国家が根本的に変わってくると思いますね。安倍政権の背後にあるメンタリティーは何かと言うと、ファシズムですよ。全体主義的なファシズムですね。国家こそ神聖なんだと。国家こそいわゆる万世一系の天皇に支えられた神聖な存在であって、その中に生きる国民は実は住まわせてやってるんだと。

西塚 この対談で何回も出ている田吾作、土人ですね。エリーティズム。

ヤス そう。エリーティズムによる田吾作、土人ね。田吾作、土人みたいな日本国民というのは、この神聖な万世一系の伝統的な国家の中に住まわせてもらってるんだと。だからそれなりの義務を果たせといった感じしかないわけですよ。そのようなファシズム型の国家になっていくのか、そうではない民主主義的な勢力が勝つのか、ある意味で結節点になると思いますよ。

西塚 なるほど。そのひとつの現われが今回の安保法制に対するデモであり、ひょっとしたら先ほどのBPOの幹部たちがちょっと関与しすぎだよと批判したという、そういう意識も絡んでいる流れですね。

「トラウマ」が戦争を回避させてきた

ヤス 当然そうですね。やっぱりひとつの危機感ですよね。我々は、歴史の作り出したトラウマというものを絶対無視できないと思うんです。たとえばよく中国崩壊論が日本では喧伝されてますでしょ? 現在の中国は輸出主導型の経済から内需依存型の経済へと構造転換しつつあると。これは相当、困難をともなう構造転換である。現在の中国のもともとの輸出型経済を担っていた企業は、いわゆる国営企業が中心ですよね。内需依存型の経済は、国営企業ではなくて国民のちっちゃなニーズに応えられるような民間企業中心へとシフトしなくちゃならない。

そうすると国営企業の持っている既得権益を奪うことになる。国営企業は共産党幹部と深い汚職の関係で結びついて、ある意味で既得権益の集団を作り上げている。だから共産党幹部までいって構造改革をやらねばならない。それはかなり困難がともなうと。その結果、中国経済はどんどんスローダウンする。スローダウンすると国民が反乱してくる。失業率も高くなる。国民がどんどん中国共産党に反乱を起こして、最終的には中国は分裂するんじゃないかといったような中国崩壊論がまことしやかにささやかれてます。

基本的にこれは、全部日本人が作り上げた幻想です。まず間違いなく外れるんですよ(笑)。僕は中国の専門家ではないですが、あまりにも中国の現状について知らなさすぎる。自分たちの作った幻想の中で、ただただ安住しているような人たちの作った論理だと思いますね。

西塚 僕もある種、目を啓かされました。ヤスさんによって。実はもっと習近平は合理的で、今の共産党をいかに維持していくか。そしてそれが、いかに中国の安定に関わってるかということを冷静に見てるという話ですね。

ヤス 中国共産党に対する反乱がなぜ起こらないのか。中国を分裂させるような政治的な反乱がなぜ起こらないのか。根底にあるのはやっぱり中国人が抱えている歴史的なトラウマですよ。中国は、1842年のアヘン戦争から1949年の中華人民共和国の独立までの107年間、植民地化であるとか、内戦であるとか、はっきり言ってひとつの国の体裁をなしてないような状態におかれていた。その中で1949年に中華人民共和国が独立して、一種の安定性を得るんだけども、ただ安定性を得てからもね、1950年代の毛沢東の失政によって三千万人ぐらいの餓死者が出る。それから1966年から文化大革命が始まって、極端な方向に走って国内が混乱する。本当に安定しないわけです。

それでなおかつ中国が脅威であるということで、アメリカから封じ込め政策の対象にされるわけですね。国際社会から徹底的に孤立する。いつ中国が国際社会に復帰したかと言うと、1971年ですよ。そうすると1842年から1971年までの長きにわたって、分裂だ、内戦だ、国際的な孤立化だってきてるわけですよ。その歴史的な共通体験が作り出したとんでもないトラウマは、中国の民衆に共有されてると思う。

もし我々が強い中国政府をなくしたならば、我々の国というのは徹底的に分裂してしまうんだと。最終的にはいろんな国々の植民地になってしまうという、分裂に対するものすごいトラウマと怖れがあるわけですね。それは多くの中国人が教育を通してもそうだし、おじいちゃんおばあちゃんの話を通してもそうだし、ずっと継続して持ってきたトラウマだと思いますよ。このトラウマがある限りは中国が分裂するはずがないんですよ。絶対。

西塚 なるほど。僕は今のお話を聞きながら、ちょっと怖いなと思うことがひとつある。まずヨーロッパの30年戦争がありましたね。ものすごい悲惨な戦争のあとに、もう戦争はこりごりだということでデカルトが出てきた。近代的な自我の萌芽ですね。それと中国では、アヘン戦争による民衆の疲弊感や恐怖感から強い政府を求めるようになり、結果的にたしかに経済的には豊かになったので、みんなも一応納得している。あと前回のスターリンとトロツキーの話もありますね。いわゆる世界共産主義革命をやるトロツキーと、スターリンの一国社会主義。それもヨーロッパとの戦争に疲れた民衆が、とにかく自分の国で安全、安定を求めたいということでスターリンに落ち着いていく。

そういうふうな大きな流れを見ると、今のヨーロッパが僕はちょっと怖いわけですよ。いわゆるISを中心に難民問題の影響で右傾化している政府が多い。いろいろな国の選挙でもそっちに流れてるじゃないですか。そうすると、歴史の轍を踏むとすれば、ものすごい大きな戦争があって、そのあとに目覚めると言うか、安定するという流れに沿って言えば、これからヨーロッパででっかいことが起こるかもしれないわけです。そういう恐怖があるんですね。

ヤス 確かにね。でも逆に言うと、トラウマがある限りはね、実は極端な社会変動というのはあまり起こらない。中国の国民の場合、長い間ずっとトラウマを共有しているわけです。だからトラウマを共有している限りはね、今言ったように中国が分裂するってことはおそらくない。じゃあ中国が将来ね、分裂したりすることはないかと言うと、そういうわけではない。ずっと遠い将来にはそれはあり得る。それはトラウマがなくなったときですよ。世代が変わって、トラウマの共有がなくなって、そしてなおかつ中国という国が経済的、政治的に絶頂期になったとき。そのときが一番ヤバい。

西塚 何が出てきますか?

ヤス 民主化要求運動であるとか、中国共産党そのものに敵対するような極めて過激な政治運動が出てくる可能性がある。そういう過激な政治運動がどのような結果を招くのか。中国共産党を崩壊させてしまうと、場合によっては中国が分裂するといった、過去のトラウマのような悲惨な状態に陥ってしまうんじゃないか。そういった怖れがあるがゆえに、これまでは過激な政治運動ができなかったと思うんです。しかしもしね、経済的な成功によって、スーパー覇権大国として国際社会の中で認められて、成功の頂点に立ったとしたならば人々はトラウマを忘れていく。

西塚 そうなるとまた違ったことになると。習近平が台湾総統と会談しましたね。馬英九ですか。中国寄りなので仲よくやりましたけども。でも民衆の中で強いのは、アンチと言うか、台湾はひとつの国の中華民国だっていうことですね。今日はまさしくミャンマーの総選挙ですが、どうなるかわからないけども、サン・スー・チーが勝つと言われてます。アジアのこうした流れはヨーロッパとはちょっと逆だと思います。右傾化してるヨーロッパの政府に比べるとむしろ民主化の方向じゃないですか。それは背景が違うんですかね。

ヤス いや、そうなんですけどね、歴史のトラウマが何をもたらすかってことで見ると、面白いと思うんです。たとえば日本はどうだったのかと。我々はこの70年間、やはりあの太平洋戦争に負けて、原爆を落とされて、本当に国土が焦土と化したと。そのトラウマを共通体験として持ってるわけです。その共通体験のトラウマが前提にあったがゆえにね、何が何でも、どういうような状態になっても戦争はイヤだと。再軍備はイヤであると。だから戦争とか、原爆とか、再軍備とかに対してのものすごい国民的なアレルギーがあったわけですね。だからそのアレルギーに抵触しない形で、日本の政府が運営され、それが日本独特の平和主義をもたらしたんだと思います。

その背後にあるのは、まさに歴史的なトラウマなんです。ただ、今の日本で何が起こってるかと言うと、そのトラウマが消えつつあるということです。世代交代によって。戦争を知ってる人たちが死んでいってる。どんどん亡くなっていく。太平洋戦争のトラウマというものを共有できる世代がものすごく少なくなってくるわけですよ。新しい世代は全然そのトラウマを共有してないので、なぜ平和主義じゃないといけないのか。戦争になったっていいんじゃないか。日本が敗戦国だと言って、ずっと受け入れているのはおかしいのではないかと、トラウマというものをベースにしないさまざまな問いかけをするわけですよ。

西塚 ある種ブレーキと言うか、タガがはずれてくる。

ヤス タガがはずれる。今、どんどんどんどん日本はタガがはずれてきてるわけですよ。タガがはずれた国家が一番怖いんですね。ヨーロッパもそうです。ヨーロッパの場合もやはりあの第二次世界大戦で焦土と化したトラウマがあるわけです。ヨーロッパの国に住んでるどの人たちにも、我々はナショナリズムに走った結果、あのような悲惨なことになったのだというトラウマがある。ナショナリズムがどれだけの破壊と戦争をもたらすかということを身にしみてわかってるわけですね。

だから命がけでも何でもいいから、ナショナリズムを抜けなくちゃダメだと。それが、いわゆるEUといったものが成功していく背景にあったのではないかと思います。非常に単純な言い方ですが。でもおそらくですね、それがだんだん消え失せてきているところなんだと思います。

西塚 今、EUもちょっと危ないですもんね。各国の自国の問題に還元されてきてるし、いわゆる難民問題が現実問題としてワッときたときに、やっぱり排除する。ハタと自分の国とか、文化圏内というものを意識せざるを得なくて、もうEUがすっ飛ぶじゃないですか。そうすると、またさまざまなことが起こるんだろうけども。ということは、我々人類というものは喉もとすぎればじゃないですが、結局同じことを繰り返していくという。そういうことなんでしょうか?

ヤス そうですね。だからトラウマといったものをきちんと精神的な傷としてね、精神的なひとつの遺産として受け継ぐしかないと思うんですね。

勘に頼る危険性

西塚 たとえば本に出すとかですね。日本の生々しいトラウマの記憶を持ってる人たちが、だんだん亡くなってきた場合、本には残りますけども、語る人はいなくなっていく。だからどうしても若い世代になるほど生々しさが薄まっていく。感情移入できなくなっていくということですよね。それで理屈だけで中国はとんでもないとか、韓国がとんでもないと言ったときに、それに合わせてアニメなんかもかぶせちゃえば、ひとつの物語が簡単にできちゃう。今、かなり危ないかなと思うんですけど。

そのへんはもうちょっと、根本的な人間の勘とか何かイヤな感じ? ヤスさんもおっしゃったように、今回の安保法制に対するデモの人たちが感じたような何かヤな感じ。あの安倍のやり方はイヤだっていう感覚を信じたいですが、ヤスさんはおそらくそれをもうちょっと明文化したり、法則化したり、痛烈に認識するようなある種のメソッドなりを確立しなきゃいけないというお立場かなと。勝手に思ってるんですけど。

ヤス いや、お立場と言うか、何と言うかな、人の勘って一番あてにならない(笑)。

西塚 あれ? それは面白いですね。僕は勘が一番あてになると思うんですけど…危ういと…

ヤス だったらね、現在の安倍政権に対する支持率が50%もいってない。安倍政権のやってることは、これが神国日本なんだと。美しい日本なんだと。この美しい日本という枠組みにお前らは従えと。上から目線でくるわけでしょ? それからNHKも全部コントロールする。民放にもすごい圧力がかかる。我々が正しい美しい国家の枠組みを作ってやるという形ですよね。そのようなあり方に対して、おおッ!よくぞ言ってくれた!これぞ俺の求めるものだという、勘を持つ人が多いということですよ。

西塚 勘なんですか…。勘というのは僕はわりと信頼をおいてるんですけれども。ヤスさんがいみじくもご指摘なさったね、全体主義に寄り添うこと。思考停止して依存することは実は気持ちがいいんだという見方がありますね。僕もそのとおりだと思うんです。だから僕の認識で言う勘は、自分の勘でこれはまずいなと、こんなことに従っちゃまずいとわかるときもあれば、思考停止して快楽に負けるときもあるということなんです。

要するに快楽をとるか、勘にしたがってまずいと思うままでいられるか。でもその勘自体はですね、それ以外に頼るところがないような気がするんです。

ヤス 逆に、いわゆる全体主義の快楽の中に沈殿していく人はね、もう最初からこれは間違いないと思って沈殿していく人が多いと思いますよ。勘でここだ!これは間違いない!と。俺の直感がそう言ってるとかね。むしろ安倍的な全体主義に対して共鳴する人たちほどね、勘であるとか、直感を重要視するんだと思います。理屈で考えない。

西塚 ヤスさんのお考えで言えば、勘は狂いやすいんだから、むしろ強固な鉄のような論理に従ったほうがまだギリギリ安全だという感じですか?

ヤス まあ感性というのは信用できないんですよ。その場その場でガラガラ変わるので。自分が感性とか勘でつかんだものの内容を一回、やはり徹底的に理屈で精査しないとダメですね。

西塚 疑う。

ヤス 徹底的に疑わないと厳しいと思いますよ。

西塚 それは同感ですね。よく言われるように、考えるな感じろってありますね。考えなくていいという。それに対して、感じるのが一番まずいのでまず考えろと。まず思考だろうという立場も一方であります。でも、その「考えよう」の論理のひとつの危険性は、黒が白になるということなんです。いろいろと論理を展開していくと、本当に黒が白になるということが、理屈の世界では簡単に起こる。僕はその危険性をずっと思っていたので、やっぱり直感というのは大事だなという言い方をしてたんです。今のお話だと、その勘自体も実は危ないということですね。

ヤス 危ないですよ。勘とか直感が、そのままでパッと正しい結論に導くということはあり得ないと思うんですね。やっぱり思考というものを通さないと。だからどうやったら考えられるか。考えるってどういうこと?ということですが、これはいいか悪いか、まあ悪いんだけどもね、やはり日本の教育に一番欠けてる部分があるとしたら、考え方を学ばないということですね。

たとえば、ひとついい例があるんですけど、絵の教育ってあるじゃないですか。日本の小学校でも中学校でも、みんなで美術館にいったりする。いろんなところに絵画がある。先生がちょっと説明して、さあ、どう感じるかな?っていきなり聞くわけですよ。どう思う?美しい?とか。どう思う?って聞かれたら、そりゃ、ああ美しいとかね、ああなんか寂しい絵だとか、悲しいとかね、そういう感性的な表現にしかならないんですよ。

西塚 あるいは、何も感じませんとか。

ヤス そう。フランスって違うことやるんです。絵というのは文学と同じで、理解するものだから解釈を学べと言うんです。だから絵の中の意味をつかむための教育をやるわけですよ。絵の構図はこのようにできてて、実はこの絵の中に重要な配置がこうやってあると。この配置の構図はこうこうこういう意味だと言ってね。意味を読み取る訓練をするわけですね。あなたはこの絵からどういう意味を読み取ったか?と言うわけです。それで、なぜそのような意味を読み取ったのかを説明せよって言うわけですね。それが、ある意味で考えるということの訓練になっていく。

西塚 なるほど。それは面白いですね。僕なんかはわりと正反対だった。画家も完全に自分の趣味なんで、たとえばダリなんてのは嫌いなわけですよ。もうあざとくて、僕なんか見てらんないんですね。天才なのかもしれないですけど。むしろ分析できないもの。あるパワーみたいなもの。パワーなんて言うとインチキくさいかもしれないですけどね。とにかく圧倒されるもの…あ、絵で思い出しましたが、今の僕の話の典型的な例としては、ダ・ヴィンチの絵が上野の美術館にきたんですね。あれは「受胎告知」でした。天使ガブリエルが跪いてマリアに受胎を告げるという、あれなんです。

ものすごい混んでたし、アンビエントな音楽が流れてて牛歩のように進んでいくんですよ。絵の前まで。薄暗い雰囲気で、ああ演出しやがってと。僕は斜めに見てるわけです。だんだん絵に近づいてきて、まあパッと見て帰ろうぐらいな感じなんです。一応見ておこうかなと。せっかくきたんだからと。見た瞬間、パッと見たときにちょっと固まっちゃったわけですね。言葉では表現できないんだけれども、ものすごく打たれた。カミさんといたんですが、どうなったか自分でもわからないわけですね。

それで、あまりこう言うと何ですが、ダ・ヴィンチの気持ちがわかったんです。「受胎告知」の天使の羽があるんですね。羽の上部に肉肉しいところがあるんですけど、ここが一番苦労したっていうのがわかった。ただ、それは僕の幻想だと思います。妄想なんだろうけども、まあそういう感受をしたわけですね。しばらく動けなかった。何だこれはと。それで茫然としてて、カミさんとあとで上野で飲んで、実はこうこうこうだったと。あれは何だかよくわからないと言ったら、ひと言、それは感動したということなんじゃないのかと言われたんだけども、もしあれが感動だとすれば、僕は初めて感動したと思ったわけです。

まあ、絵で思い出したわけですが、先ほどの分析ということで言えば、たとえばダ・ヴィンチだったら遠近法であるとか、いわゆる黄金分割とかの話になるんでしょうけど、そういうことではなくてバーンとくるほうの話なんです。それとはちょっと違う話ですか?

ヤス 感動するのはいいと思うんですね。ただ、いったい何に感動したのかという意味にこだわるべきだと思うんです。

西塚 そこなんですよね。僕はわからないんです。

ヤス それは、やっぱり一回絵の構図とか、何か絵の意味を構築しているストラクチャーをちゃんと勉強して、それからなるほどこの絵っていうのはこういうような構図でできてるのかと。そこまで分析して追いつめたときにね、自分が何に反応したのかということが具体的にわかってくると思うんですよ。

西塚 なるほどなあ。そういう知的な作業がやっぱり必要だってことなんですねえ。

ヤス それは言ってみれば、直感とか感性すべてに言える。だから自分が直感的に、感性的に反応したものというのは、まず、言い方が悪いかもしれないけどね、たいてい信用できないんですよ。たいてい間違ってる(笑)。したがって自分が反応したものを、なぜ反応したのかということを、まず分析的に思考で考える。そうしたときに雑居物、ノイズが排除できる。

西塚 ヤスさんは今、間違ってるという言い方をしましたけども、僕の言い方に変えちゃうと、直感は直感でいいんだけど、その判断が自分にとっていいものなのか悪いものなのか。ある直感に従ってそっちの方向にいこうとしてるんだけど、そっちが果たして自分にとって本当にいい方向なのか、どうなのかっていう意味ですよね?

ヤス もっと言うとね、思考という部分を通して精査しないと自分が直感で感じたもの、自分は何に感じたのかという対象がよくわからないと思うんですね。直感だけでは漠然としてて。何となくって感じで。

西塚 僕なんかまったく、さっきのダ・ヴィンチの話ではそうですね。全然わけわかんないですもん。何に打たれたのかわからない。

ヤス わからないでしょ? 興味ありません? 自分が何に打たれたのか。

西塚 ありますね。

ヤス 自分が打たれたものの核心をつかんでみたいと思いませんか?

西塚 つかんでみたいですね。

ヤス 僕はつかんでみたい(笑)。

西塚 つかんでみたい。それが何かの構図によるものなのか。子どものころから持ってるトラウマなのか。自分ではもう無意識に抑圧したものが、そこに何か描かれてたのか。そういうような話になるかもしれない。

ヤス そこで、極めて大きな自己発見になるかもしれない。だから、何か私見て感動しちゃった、だけではわからないんですよ。

西塚 それで終わらせちゃいけないということですね。

ヤス そうそう。やっぱり感性はすごく重要だし、直感も重要なんだけども、いろいろな論理とか思考とのバランスって極めて重要かなと。

西塚 そこは、そのとおりだと思います。そのバランスなんですね。論理だけだとまたおかしなことになる。感情に裏打ちされた、あるいは感情を乗り越えた上の論理ではなく、ひたすら教条主義的になっていくと、またこれはこれでものすごくひどいことになっていくわけで。

理屈だけで虐殺につながる。感情ではなく、本当に僕は論理だけで人は殺せるんだと思うんですね。感情では逆に殺せなかったりする。あるいは感情のほとばしりで殺すってことはあるかもしれないけど、論理による虐殺が一番怖くて、論理が大量殺人なり破壊をもたらすんだと僕は勝手に思ってるんですけどね。

トラウマの“タガ”がはずれて噴出するもの

ヤス そうですよ。論理って何かと言うと、人間を抽象的に見るという眼差しですよね。具体的に生身を持ってる人間ではなくて、人間をある意味で抽象的に見るという眼差しだと思う。ちょっとこのことを含めてトラウマの話に戻りますけど、やっぱりヨーロッパはナショナリズムを生み出した苦しいトラウマを忘れつつあると思うんですね。トラウマを乗り越えたという成功体験が続く場合、そのトラウマを多くの人間が忘れる。

ヨーロッパに関して言えば、ある意味ではナショナリズムを乗り越えたEUの成功であり、今はそうでもないけど、EUによってかなりの経済発展が確立されたんだと。そして現在のEUの枠組みというのは、超国家的な共同体が厳然と残っていて、それがちゃんと機能するものであると証明された。そのような成功体験が長く続くと、人々はかつてのヨーロッパが持っていたナショナリズムの狂気を忘れるんです。

じゃあ日本はどうだったのか。日本もそうですよ。1945年から70年ぐらい経ってますが、高度経済成長もそうだし、バブル期の成功もそうです。それから失われた20年なんて言っても、まがりなりにも経済大国の中の低成長ですよね。そのようなある意味安定した成功体験の中で、我々はかつての狂気が何を生み出したのかというトラウマを忘れ去った。そうするとね、過去の歴史と同じ轍を踏むんですね。

そのようなトラウマという視点から中国とかロシアを見ると、中国のトラウマはまだまだ新しいんです。1966年の文化大革命だし、その次のトラウマは1989年の天安門事件だし(笑)。かなりトラウマが新しいわけですよ。まだまだ国民が共有している。その国民の感情と認識に訴えかけることによって、ひとつの国家を統治している。

ロシアはどうだったかと言うと、ソビエトの崩壊ですよね。1991年じゃないですか。それによってマイナス14%の逆成長をするわけですね。食えなくなる。それは大変なトラウマですよ。いわゆる強力な国家をなくした場合、我々は食えなくなるんだというものすごいトラウマですね。

現代の危機というのは、我々がリソースとして使えたような歴史のトラウマを使い果たしつつあるということじゃないかなと思う。

西塚 使い果たしてしまった…

ヤス ロシアとか中国に関してはいいんだけども、特に日本とかヨーロッパが過去に培った第二次世界大戦以降のね、そのトラウマのリソースはだんだん枯渇しつつあるということだと思うんですね。

西塚 今のお話は、要するにトラウマにはむしろ徹底的に直面してですね、トラウマはトラウマとして見つめた上で、日本人なら日本人が乗り越えていかないといけないものなんだけども、経済的な繁栄によって忘れ去っていくと。高度経済成長期には逆にそれがジャンプの材料だったかもしれないけど、どんどん忘れちゃう。でもトラウマ自体は残っている。それが何かの弾みでムクムクと起き上がってきてですね、また同じことが繰り返されるよっていうことかと思うんですけど。違いますか?

ヤス いや、そうじゃなくて、ムクムクとトラウマが起き上がってくるならば、もう二度とあの戦争はイヤだというトラウマですよ。二度と原爆は落とされたくないと。もう二度と、戦争のせの字にも関わりたくないっていうトラウマですよね。

西塚 ああ、そうかそうか。

ヤス それが忘れ去られてきてると。

西塚 ああ、なるほどなるほど。そういうことですね。要するに日本も戦争せざるを得なかった。いろんな理屈はありますよ。アジアを守るとかいろいろありますけども、戦争にいかざるを得なかった大もとにある感情なり何なり、戦争に駆り立てるものではない話ですね、それは。戦争体験として、あれは二度とイヤだという人たちがどんどん亡くなっていくということですね。そうか、そういう意味ですね。

ヤス そうです。どんどん亡くなってきて、もう二度と戦争はイヤだという共通体験がだんだんなくなってくる。

西塚 なるほど。そうした意味ではトラウマのリソースがなくなりますね。

ヤス なくなる。そうなんです。トラウマというリソースがなくなる。

西塚 そういう意味ですか。わかりました。

ヤス そうすると戦前の歴史といったものを美化してくるんですよね。すごくロマンチックなものにして、日本がアジアを解放するための戦争が、太平洋戦争だったのではないかとかね。

西塚 小林よしのりなんかもそういうこと言いますけどね。漫画家の。影響力もでかいわけですから。安倍なんかもそれ持ってきますかね。今後。

ヤス 出てくるでしょう。

西塚 憲法改正までいきたいんでしょうから。

ヤス 参議院選挙で過半数をとった場合、憲法改正までいくと思いますよ。

西塚 まあ先のトラウマというのは、個人であれ、その集合体である国であれ、やっぱりかなり大きな原動力のひとつにはなると思います。ヨーロッパはもうそのリソース、戦争は二度とイヤだというものが日本と同じでなくなってきていると。

ヤス と思います。ナショナリズムがどれだけの狂気を巻き起こしたかという悲惨な体験。それがやっぱりだいぶなくなりつつあると思いますね。

西塚 それで今一番危ないという。

ヤス 一番危ない。ヨーロッパも日本もかなり危ないと思いますね。そのトラウマがなくなって、リソースを使い果たしたときが危ないと思いますね。

西塚 そのときは何が必要でしょうか? 何か危ないぞ。このままだと危ないぞという危機感を持ったときに。

ヤス トラウマがなくなってくると、今までトラウマによってせき止められてきた集合的な感情が逆に吹き返してくる。過去の歴史で大きな悲惨を招いた集合的な感情です。極端な民族主義であるとか、極端なナショナリズムとか、そういった極端なものに対する集合的な感情が一気にワーッと出てくると思うんですね。

そのような極端な集合的な感情、極端なナショナリズム、極端な民族主義といったものにブレーキをかけて防波堤になってきたのがトラウマなんです。そのトラウマがなくなってきたら、そういう極端なものが噴出してくる。津波のような感情となって出てきますよ。今、日本がそうですよね。

西塚 ちょっと唐突かもしれませんが、宗教ってありますね。イスラム教でも仏教でもキリスト教でもいいんですが、各個人が、それぞれの理由はあるんだろうけども、あるトラウマがあるとするじゃないですか。男でも女でも、虐待されたとか、社会人になったんだけど会社の中で挫折したとか、いろいろ傷つくと。それがトラウマになってなかなか生きづらくなったときに、ちょっと宗教とか仲間とかですね、そこに救いを求めていくわけですね。あるいは極端にグールーに帰依することによってトラウマを忘れられる。そして自分の役割を見つけてしまうというようなことがありますよね。

それは、かつてヤスさんがおっしゃったように、宗教がかなり大きな救いの装置として機能してたということですね。イスラム教もキリスト教もおそらくそうでしょう。でもそれ自体が今、ものすごく危ない話になってきているわけです。そうするとトラウマをどうやって救っていくのか。個人的にやるものなのか。あるいは仲間といろいろ克服して乗り越えていくのものなのか。そのあたりはいかがですか?

ヤス ちょっとその歴史の話をすると、トラウマがあるがゆえに実は肯定的なブレーキとして働いてたってことですよ。そのトラウマのリソースがだんだん使い果たされてきたので、歴史そのものに歯止めが効かなくなってくるってことなんですよ。

何に歯止めが効かなくなってくるかと言うと、過去に大変な悲惨と破壊を巻き起こしたような感情の流れですね。極端なナショナリズムとか民族主義。自分の民族がですね、世界のどの民族よりも一番優秀な民族であって、世界をリードする使命を持っているといったようなね。そのようなことをみんな信じたがってるわけです。

自分の生まれた国こそがまさに神によって選ばれた国であってね、我々こそが神に選ばれた民であるってことね。そのような選民思想ってどの文化にもあって、みんな信じたがってる。ただそれを信じたときに、どれだけの破壊と悲惨を作り出してきたのか。そういうトラウマが現実にあったので、そのような感情に対しての歯止めになっていたってことですね。

西塚 僕の言い方がちょっと悪かったんですが、僕は個人のことを考えちゃうんですね。個人に還元していった場合、さっき僕が言ったようにいろんなトラウマがあって、それを乗り越えるための装置、宗教じゃなくてもいいんですけど、何かに入っていく。そしてトラウマを忘れていくわけですよ。

本来はトラウマがあったんだけど、それを忘れるために、克服するためにある宗教に入ったりとか、ある人に帰依した場合に、自分は本来こうだったんだと。要するにさっきヤスさんがおっしゃったように、国が優越感とともに突出していくように、個人もとんでもないところにいってしまう。そういうことを考えると、ヤスさんの話を僕なりに言い換えると、個人は自分で抱えてるトラウマと直面してるほうが、まだ歯止めになるっていう話になりますよね。

ヤス そうですね。

西塚 どこかに帰依したり、何かの集団に吸収されるよりは、まだ安全だという言い方もできるじゃないですか。

ヤス できますね。

西塚 すごく苦しいかもしれないんだけど、自分のトラウマとずっと向き合ってるほうが歯止めになる。とんでもないほうへはいかないという話になりませんか?

ヤス そうです。個人でもそうだと思う。ただ、社会、国家というものを考えてみると、もっとそうだと思いますよ。トラウマというのは当然、裏表と言うかな、いろんな意味がありますので。過去に自分自身が悲惨な体験を引き起こした感情というものに対して、ひとつの歯止めとしてトラウマが働く。同時に過去に自分たちを苦しめたそのトラウマを作り出した、その対象に対する復讐心という形でも働きますよね。必ず復讐してやるというね。

西塚 その解消の仕方としては、自分が持ってるトラウマをもたらしたかに見える対象の殲滅ですよね。

ヤス そうそう。対象の殲滅ですね。

西塚 そいつがいなくなれば、俺のトラウマは解消するんだというような発想ですよね。

ヤス そうね。だから「ヤヌスの鏡」じゃないけど、ある意味でふたつの側面があります。トラウマがあるがゆえに、ある意味で歴史の悲惨を繰り返すような極端な感情は抑制されていた。しかしながら、もう一方のトラウマの果たす役割は、自分を傷つけたものに対する過剰な復讐心として働く。

西塚 そうなると、やっぱりどうしても中庸、中道という発想になってきて、自分のトラウマをちゃんと理解して、こちらにいけば復讐になるし、こちらにいくとそれを忘れてまた違うところに突っ走る。その両方があるということを絶えず認識し続ける中庸の道が重要になってくる。

津波に飲み込まれない「個」であれ!

ヤス 中庸の道は重要だと思う。今、我々がどういうような歴史的な時代に生きているかと言うと、歯止めになっていたトラウマがだんだんと薄れてきている時代です。その結果ですね、極端な民族主義もいいんじゃないかとか、極端なナショナリズムの何が悪いのと。そしてもっと言うと、極端な復讐心もいいんではないかといったような、今までタブーとされてきたさまざまな感情に対するタガがはずれ始めたってことなんですね。

西塚 正当化し始める。

ヤス そうするとヨーロッパでも日本でも、アメリカでもそうですけども、タガがはずれて極端な感情が集合的なレベルで出始めているってことですよ。それは恨みであるし、極端なナショナリズムであるし、極端な民族主義である。そういう感情は個人レベルで出てくるわけじゃないんです。社会全体の集合的な感情として津波のようにして出てくるわけです。津波ですよ、これ。ボーッと生きてるとその津波に流されるんですよ。

西塚 巻き込まれるということですね。

ヤス 巻き込まれないためにどうしたらいいかと言うと、やっぱり個人であるってこと。徹底的に個人であるということです。民族と一緒にならない。国家とは一緒にならない。ちょっとでも一緒になると本当に津波に巻き込まれていきますからね。僕らはね。

西塚 あと重要だと思うのは、情報とか冷静な目と言いますか…たとえば津波でも、海の水平線を見てて何かあそこがざわめいてるなとか、何かヘンだぞと。だんだん大きくなってきたなという目があれば、これはヤバいかもしれないと高台に登れるじゃないですか。その水平線を見ないで、こっちでドンちゃん騒ぎをしてれば飲み込まれてしまう。そんなイメージに近いですよね。

ヤス そうですね。ただね、感性と勘だけに頼っていると簡単に流される。

西塚 なるほど。僕はじゃあ流されるかもしれない(笑)。

ヤス いや、朝起きたらいきなり変わってますよ。人間って。テレビを見てたら、あれなんか変わったなと。これ大好き!ってスイッチが入っちゃったら、終わり(笑)。そのぐらい簡単なんです、人間の感情って。勘とかね。そうすると、その歯止めになるもの。自分は絶対に流されないぞという歯止めになるものは何かと言うと、個人としての意識の高さでしょうね。

西塚 そこが悩ましいところで、勘って言っちゃいけないかもしれないけど、違和感とか、要するにちょっとヘンだぞっていうね。理屈じゃない。論理的ではない何かが自分に知らせてくれる何かがあるわけですよ。それを勘って言っちゃうと、ひと括りになって危ないかもしれないですけど、でももうそこに従うしかないようなものと言いますか。

理屈ではこっちにいったほうがいいんだけど、でも何かイヤだという勘。感じでもいいですけど、それはヤスさんは危ないし、あてにならないとおっしゃいましたけどね。僕はまだね、そこにあてになるものもあったりすると思うんですよね。勘でも、何か当たるか当たらないかみたいなくだらない話になっちゃうとまた違いますが、僕はうまく言えませんが何かあると思うわけです。

ヤス ちょっと話しを変えるとね、個人の極めて高い意識を堅持してればそれはあり得ると思う。ただそれは、個人としての意識を徹底して堅持してないと、正しいと言うかな、自分を守るような勘はなかなか働きにくいんじゃないかなって感じがする。

面白い例があるんです。プリンストン大学かどこかの心理学の実験だったと思うんですけど、学生ボランティアを100名ぐらい募るんですよ。その学生ボランティアにはこういうことを言うんですね。君たちはこれから心理学の学説を変えるための極めて重要な実験に参加するんだと。お金もちゃんと与える。私の実験に協力するということは、歴史的偉業に参加するということなんだぞと言われる。

どういう実験かと言うと、ひとりひとり学生がある部屋に通される。部屋には1から10までのボタンがついた机がある。この装置から電源コードが向こうにいる裸の男の体についてるんです。1は弱い電流、10はすごく強い電流だと。そして、私が言うとおりにボタンを押してくれって言われるのね。中に男性がいるんですね。まず1のボタン押してと言われて、1のボタン押すと微電流が流れて男性がウッて苦しんでる。2のボタンを押してって言われると、もっとワーッて苦しむんですよ。3のボタンを押すともっと苦しむわけね。

西塚 拷問みたいですね。

ヤス それで、どこまでのボタンを押せるかっていうことで、君ね、じゃあ4のボタンを押して、5のボタンを押してと。だいたい4か5ぐらいにくると男性がワーッ!とすごく苦しみ始めるので、もう私は押せないと。そのときに、何で押せないんだと。君はね、この歴史的な実験に協力することを誓ったではないかと。金をもらったじゃないか。これは君の仕事で、君は押す責任があるんだって言われる。それで何パーセントの学生が10まで押したかなんです……ほとんど全員です。

10まで押すと、ウワーッ!!って苦しむわけですね。学生のほうは、さっきの勘っていうところから見たら、勘のレベルから言えば良心の呵責ですよ。もうたまらないと。これはとんでもないことをやってると。おそらく思ってると思う。でも押しちゃう。

西塚 勘と言うか、感情ということですね。

ヤス 押しちゃう。この実験の中身を種明かしすると、ケースの向こう側の男というのは役者。別に電流も何も流れてるわけじゃないんですね。調査の対象になってたのは100人の学生なんです。どこまでボタンを押せるのかと。そこではっきり結論が出たのは、どうも責任と役割と役職、この3つを与えられれば人間はあらゆる残虐なことができる。すなわち個人を捨てるわけですよ。責任と役割と役職というのは個人を捨てるわけです。

西塚 すごくよくわかります。でもヤスさん、その役職、役割、義務を与えられた場合に個人を捨てられると。要するに10を押しちゃう。だとすれば、逆に言えばね、感情的な個人であるほうが安全だとも言えませんか?

ヤス そうです。勘というのは何かと言うと、感情的な個人であり、普通の個人の中から出てくるわけですよ。ただ、その感情的な個人というのは弱い。役職とか役割を与えられたら簡単に個人なんてなくなってしまうんですね。ロボットのような、兵士のような状態になるわけですよ。

たとえばサラリーマンの人たちだってそうですよね。どこかの企業の課長になってリストラを命じられると。自分が本当に親しくしてきた同僚とか部下を切らねばならない。サラリーマンの美学じゃないですけど、自分の与えられた責任と役割においてこいつを切るんだ。これが俺の仕事だから切ると。でも個人的な感情ではやりたくない。しかし切らざるを得ないといって、実際切るわけですよね。ほとんどの人たちはね。

組織の中の役割とか、立場とか、役職とかといったものによって、個人といったものは食われてしまって、崩されていくわけです。じゃあ、そうならないためにはどうしたらいいかと言うと、いっさいの役職を突き抜けるくらいの強烈な自己ですよ。

西塚 個人ですね。個。

ヤス 私はどんなところでも個でいると。

西塚 さっきの話につなげちゃうと、そこまでの個である場合、そこまでの個人、自立した個人である場合は、勘はいいわけですね?

ヤス いいですね。

西塚 そういうことですね。わかりました。

ヤス そうです。だから勘だけというのはダメですね。そこまで強烈な自己意識といったものをはっきり持ってないと、勘ってのはあてにならないと言うか。

西塚 全部自己責任で、全部自分で責任をとるという痛烈な認識があった上での勘だったら、まあいいって言うか、逆に言えば、勘は本来そうあるべきだって話ですね。

ヤス そうですね。だからもっと言うと、自分は個人であって、たまたまお金を稼ぐためにそういう役職とかね、仕事をやってるけれども、最終的に決断を迫られたら、すべての役職と責任をすべて自分は投げ捨てると。個人に生きるという覚悟ですね。

西塚 そうですね。そう思います。

ヤス だから問題は、かなり強固な個人としての意識が、極端な民族主義であるとか、ナショナリズムであるとか、集合的な感情の津波から、自分を守ることになると思うんですね。

自己の再実感

西塚 そうなると、冒頭に申し上げたビリー・マイヤーですが、彼の書籍は強烈に個であるということを徹底的に言ってますよね。僕はそれしか感じないわけです。とにかく個であれ。個人であれと。おそらく人は死ぬんでしょうけども、それまでに関わってくる現実というのは、全部自分の責任であるからこそ、自分で現実をクリエイトしていくんだという。その痛烈な意識をとにかく持てと。すべてに関してですよね。そういうふうに僕は受け取ってるんです。そうすると全部僕の中で話がつながってくるんですけども。

ヤス ええ。そのような集合的な津波のような感情にね、どうやって抵抗したらいいのか。ちょっと話を戻すと、今我々が生きてるような時代は、トラウマというリソースがだんだん枯渇してきて、今まで多くの歴史の悲惨を繰り返したような集合的な感情が再活性化してくる。おそらくそれは極端な民族主義とか、ナショナリズムというタイプのものだと。じゃあ、それに対してどのようにして抵抗していったらいいのか。

1930年代のヒットラー政権のとき、ユングは「個性化」という言葉を出したんですね。何かと言うと、人間とは個なんだと。人間というのは、人生の中でユニークな個人として生きることを、魂のひとつの衝動として持っているんだと。そのユニークな個人として生きたいという、その衝動に従って生きるのが一番いいんだってことを言うわけですよ。そのようにして当時の極端なナショナリズム、極端な民族主義といった流れに抵抗しようとした人だと思うんですね。

ある意味で我々は、これから同じような立場になるんだと思います。やっぱりどこかで抵抗線を張らねばならない。それは自我なのか? 個人を支えるのは普通の自我なのか? あるいはユングの言うようにね、我々ひとりひとりの個性化と言うか、個人としてユニークに生きたいという衝動があるから、その衝動に従ってさえいれば大丈夫なのかと。おそらくそんなものではない。もっと高度なものが求められる。

西塚 だと思いますね。僕の浅はかな知識ではあまり言えませんけども、その自我というのは、要するに自分の外に絶対的な神なり、絶対的な存在がないように、自我とか自分というものも孤立してあるとは思わない。とにかく相対的なもの、ある大きなエネルギーの中での相対的なものとしか捉えられない。それらは連関してくるし、セパレートできないっていうことですよ。

そういう認識でじゃあ、どうやって生きていったらいいのか。あるいは社会生活を営んだり、人間関係を取り結んでいけばいいのか。それをみんなで考えていかないといけないし、そのこと自体は僕はむしろ面白いと思うんですけどね。たぶん、昔からそんなことをやってきてるんだろうけども、結局はドンパチやっちゃって、おかしくなって、また忘れたころに新しくピュアなものが出てきて、また今おかしくなってきてという…。ある説によればこれで7回目だってことですが、実際じゃあ、それを延々と我々は繰り返すのかと。我々は今そういうところにきている。

で、どうするんだ?って話ですね。

ヤス そうです。その歯止めになるのは単純な自己意識ではないだろうと。単純な自我ではないだろう。おそらく自我だけではね…集合的な感情に飲まれたときってものすごい快感がありますから。その快感の中に簡単に持っていかれますよ。

西塚 ヤスさんが前回おっしゃったように、30年戦争を経て、自我を打ち立てたデカルトが出てきた。でも今はデカルトじゃダメなんだと。

ヤス ダメなんです。そう。

西塚 近代的な自我とか個人ではダメだ。その次のパラダイムシフトが必要なんだと。そこに今、直面してるわけであって、どうやって模索するか。いろんな人たちがいます。ある種、逆行するようなスピリチュアル的な集団も出てくるだろうし、個人も出てくるだろうけども、そういう中にあって何を試金石にして基軸にしていくか。あるいは、少なくとも基軸だと思ってみんなで考えていくのか。そういうものが必要になってきますね。そういう意味で、僕はビリー・マイヤーの書籍ではないかと言ってるわけですね。

ヤス 僕も同じ意見です。僕は本が好きでたくさん読むんですけども、やっぱりその中でビリー・マイヤーってすごく大きな発見だと思うんですね。彼はプレアデス星人とのコンタクティーだということなんですが、そういう存在があるかどうかはわからない。あるかどうかはわからないんだけど、ビリー・マイヤーの本の哲学的な質の高さって際立ってますよね。

西塚 いやあ、際立ってますね。

ヤス 間違いなく際立っている。ビリー・マイヤーの本の中で力説してるのは、実は宇宙全体を創り出した創造的なエネルギーというのが存在すると。これは神ではない。これは自然法則、宇宙全体を創り出したいわゆる自然の法則であると。我々ひとりひとりの人間というのは、実は創造という巨大な宇宙的なエネルギーの、ある意味でちっちゃな小片みたいなもので、それが我々の本体を形成している。それが本来的な自己なんだと。

その上にですね、それとは相対的に分離したところで物質的な自我、物質的な自己、物質的な意識がある。物質的な意識は、この世の中で自分のさまざまな傾向を作り出してきた自己意識なんだと。ただ本体である、いわゆる我々の本来の自己は、宇宙的な意味での創造のひとつの分離と言うか、分かれたひとつのちっちゃな小片であり、物質的な意識とは基本的に違う。

その本体にある自己は絶えず物質的な意識に語りかけてる。本来である自己、創造といったものに早く気づいてくれと。絶えず語りかけてきてる。言ってみれば自我による個人の設定ではなくてね、本来的な自己、強烈なエネルギーを持つようなひとつの自己として、我々が我々自身といったものをもう一回個人として実感し直さなければならない。

西塚 まったくそうだと思いますね。だからデカルトであり、カントであり、たとえばカントは認識を限定したわけですね。認識は空間と時間というもの以上に還元はできないと。でも、その還元できないということ自体も変わり得るというところに今きている。

すみません、僕の流れがいつも悪くて。ビリー・マイヤーからいきなり入りましょうと言いながら、時事問題の話をついつい引っ張ってしまいます。次はもう時事問題は10分ぐらいにして、いきなりビリ・マイヤーの話にいったほうがいいですね。

ヤス いいですよ。だから今、我々のパラダイムシフトって何かと言うと、自己の内部にある超越的な本来的な自己、それをいかに実感するかですね。それが我々の持つスピリチュアリズムの本来あるべき道だと思いますよ。それが抵抗になる。

西塚 わかりました。次回またよろしくお願いします。どうもありがとうございました。

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