だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting vol.21 「現実の創造」

人気ブログ『ヤスの備忘録』でもおなじみ、
社会分析アナリストの高島康司氏をお招きして、

1 世界で今、起きていること
2 人間の新たなる「精神性」「意識」「思考」

について、飲みながら自由闊達に話すシリーズ。
基本的に毎週更新。

〇『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』第21回
「現実の創造」

ゲスト:高島康司氏
聞き手:西塚裕一(五目舎)
2015年11月15日 東京・中野にて収録

西塚 こんにちは。『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』の第21回ですね。今回もヤスさんをお招きしております。よろしくお願いします。カンパーイ!

ヤス カンパーイ! どうもどうも。21回。

西塚 そうですね。20回を超えまして、ゲストもお招きしようかと思ってるんですが…。

ヤス ゲストもたくさん呼んでください(笑)

パリのテロ! 日本も予言されている!

西塚 前回、ヤスさんともビリー・マイヤーも含めてもうちょっとスピリチュアルな話を突っ込んでやろうってことになりましたが、やっぱりその前に金曜の、日本では昨日ですね、テロですね。フランスの。あれはまさしくエノク予言じゃないですけれども、ちょっとシャレにならないですね。

ヤス シャレにならないね

西塚 130人近くも亡くなって。一報をお聞きになってどうでした?

ヤス メルマガにも書いたんですけど、今後ですね、ISがらみのテロというのが全世界的に拡散するなっていうことは、まあ見えていた。僕が見えていたというよりも、ある意味道理としてわかりやすいと思うんですよ。予想しやすいと言うか。たとえば今シリアを中心とした難民がかなりの数ヨーロッパに入ってるじゃないですか。もう2カ月前の記事で、4,000人のイスラム国の戦闘員がヨーロッパに入ってしまったとすでに確認されているわけですね。現在フランスのみならず、ドイツとかイギリスとか、シリア難民に混じってイスラム国のテロリストがかなり入ってると思いますよ。今回の事件はフランスの非常に痛ましい事件ですけども、最初の事件でしょうね。

西塚 ということは、続くぞと。

ヤス 続くぞ、です。だからこの一回ではない。どんどん同じような事件がヨーロッパ各国で続いていくと思います。非常に残念ですけど。

今、ニュースの一報が一番早いはやはり『Russia Today(RT)』なんです。Russia Todayの報道ってものすごい早いです。アメリカのCNNとかのレベルじゃないんですよ。報道のスピードがね。なぜかと言うと、ツイッターとかSNSを丹念に見てて、SNSから上がってくるような情報をつかんで、それが実際にそうなのかどうかと記者が飛んでいって検証するわけですね。それが事実だったら、すぐに流すといった感じなんです。だからCNNとか、FOXニュースとか、あんなレベルじゃないですよ。SNSを実に効果的に利用する報道体制をとっているので。今回のフランスのテロ事件でもね、6カ所同時に起こるわけじゃないですか。

西塚 同時多発テロですよね。

ヤス 同時多発テロです。まさにね。ひとつはサッカースタジアムで、これはドイツとフランスの親善試合をやってるときに起こる。そうすると中にいる人たちがバンバン、ツイッターするわけですよ。フランス語でツイッターして、ツイッターしたものをすぐにRussia Todayの取材記者がつかんでね、今こういうことになっているとすぐに発表するわけですよ。

西塚 記者がいくわけですか。

ヤス 記者がサッカースタジアムの外に構えていて、内部でこういうことが起こってるとバーッとそこで報道するわけです。それがえらいリアルなんですね。それから小さいコンサートホールで乱射が起こりました。そのときも、乱射をしている最中にツイッターで送ってくる。それがRussia Todayを通してちゃんと報道されるという形のリアルさですね。僕はずっと見てたんですけど、まあリアルでしたね。

西塚 ちょっと前にも、エルサレムのアルアクサ・モスクの襲撃の例がありましたね。あのときもRTは早かったですね。

ヤス そうそう。

西塚 もう、即ツイッターで上がってきたものを流すという。あんまりヘンなことを言っちゃいけないけど、日本もターゲットになってるって話ですね。

ヤス 今回のテロを見ててギクッとしたのは、ジョセフ・ティテルという予言者がいるんですが、この人はだいたいその年の始めにね、たとえば2015年はこうなるであろう、2014年はこうなるといったような非常に長い予言をするんですね。その予言の中で、たしか第55番目の予言だと思うんですけど、パリでテロがあるということを予言してるんですね。

西塚 それはいつごろですか?

ヤス 今年の1月1日です。元旦ですね。要するにイスラム国がらみのテロが今年は急に増えると。それが世界的に行なわれる。そのテロが起こる地域をいくつか指定してるんですよ。ひとつはパリで、もうひとつは日本なんですね。あともうひとつはアメリカ。

西塚 いやあ、ちょっと背筋が寒くなると言うか。パリの場合は一応厳戒態勢をとってたわけで、それでもやられた。日本だったらひとたまりもないですよね。そういった意味では。

ヤス 確かに。今回のテロ事件はこれからどんどん続く可能性が大きいです。基本的には歴史を変えるってところまではいかないかもしれないけど、ある意味で世界情勢のひとつの結節点、潮目の変換になるような事件ですね。

西塚 潮目とは、具体的に言うとどのようなことでしょうか?

国際秩序の再形成、超社会主義へ

ヤス ロシアを中心とした反テロ連合というのができつつあるってことだと思います。アメリカは何をやっていたのかと。ISに関して1年半も空爆をしてきたフリをしてたんじゃないかと。いわゆるアサド政権憎しで、むしろISを応援してたのではないかってことが欧米のメディアでもさんざん話題になっていて、それは多くのアメリカ人も知るところになってるわけです。

ただ今回はっきりしたのは、ロシアが現在イスラム国をシリアで空爆しているわけですけども、ロシアを中心とした反イスラム、反テロ多国籍連合みたいなものができる流れになってきたということですね。おそらくそのような流れができると思います。中東問題の解決のためのひとつの重要なカードとして、シアが現れてきた。アメリカではない。中東の全体的な秩序を作り上げ、それを維持していく主体として、ロシアを中心とした新たな国際秩序の形成主体が出てきたということだと思うんです。これがひとつの大きな潮目の変換だと思います。

もうひとつの潮目の変換は、ヨーロッパ国内でこれから起こるであろう極端なナショナリズムですね。今回のテロを機会として、やっぱり移民を受け入れてはダメだ。ヨーロッパはヨーロッパの価値観を守るべきだといったような、強烈なナショナリズムの嵐になって現れてくると思いますね。

西塚 各国家が国の文化を含めたナショナリズムに目覚めるということですか?

ヤス 目覚めると言うか、もう目覚めてるんですけど、むしろ極端な極右の政党と言うか、極端なナショナリズムを標榜するような政治運動が、今までは一般的な中間層であるとか普通の意識を持つ人たちの中には入っていけなかったわけですよ。でも今回のテロ事件がひとつのきっかけになってね、彼らの言うようなナショナリズムは正しいんではないか、我々の安全な社会を確保していくためには、何やかんや言っても排除せざるを得ないじゃないかといったような方向に、急速に世論が動いていく可能性はありますよね。

西塚 それは民族問題に関係ありますか? たとえばスペインだったらバスクとかカタルーニャとか、いろいろありますよね、民族的な独立運動みたいなものが。各国の中の、全部が全部じゃないでしょうけども、民族的なアイデンティティーに根ざしたようなものが、逆に盛り上がってくるということですか?

ヤス 盛り上がってくる。言ってみれば、今回のことが図らずもある意味でスイッチを押してしまったってことです。それは民族主義ないしはナショナリズムを通り越した、いわゆる民族的なアイデンティティーに目覚めて、それを強化していく。そしてそれを主張していくというようなひとつの流れに転化してしまったということです。

西塚 そうなると、ちまたでよく言われてる陰謀論も含めてですね、超国家社会主義、ヤスさんもメルマガでもよく書かれていますね。超階級社会、超格差社会という。それがヨーロッパを中心にこれからできていくという話がありますけど、そこにつながるひとつの事件だったということですね。

ヤス 結局、そこにつながっていくと思うんですね。この極端なナショナリズムの高まり、極端な民族運動の高まりというのは、現存する国家の秩序、現存するEUの秩序、社会の秩序といったものをバラバラに引き裂くためのね、非常に大きなモメンタムになってしまうわけですよ。

今、スペインのカタルーニャの独立問題が話題になってますけど、あれに対してスペイン政府はものすごい強烈な抵抗を示している。国家の統合性を維持するという強固な意志ですね。それだけ地域の独立運動とか民族運動、ないしはその地域的なナショナリズムは国家といったものを最終的に分裂させる非常に大きな力になり得る。それは国家を超えたもっと高い統合性を主張しているEUみたいなところから見ると、やっぱり危機になるわけですよ。危機になるんだけどもこの危機を利用してですね、より管理主義的な体制が作りやすい状態にもなるんです。

西塚 ヤスさん自身はどう思われます? それは何かしらの力なり、どこかの少数のグループかどうかわからないですが、そこに向かって動いてるという話がありますけども。

ヤス 僕は超社会主義の方向に向かってると思いますね。

西塚 やっぱり向かってる…

ヤス 国家を分裂させるようなひとつの動き。これはチャンスであると利用するような超社会主義の実現を目指す支配層、そういう集団がパワフルになっている。

西塚 もっと言っちゃえば、そういう輩が演出したとも言えるわけですか? 可能性としては。

ヤス うーん、どこまで関与してるかはわからないけども、これを好機として捉えてる集団があることは間違いない。

西塚 いわゆる陰謀論となると、そのために演出して起こしてるって話になるんですが、それに関してはヤスさんどのように思われてますか?

ヤス 今、ちょうど情報を集めてるところで何とも言えないけども、イスラエルの関与がチラホラしてることはひとつあると思います。イスラム国そのものの結成にイスラエルが関与してるという疑いが十分ありますのでね。ただ問題は、単発の事件がどういう背後関係で引き起こされたかってことだけに終わらせるのではなくて、もっと古い歴史的な文脈の中でね、基本的にどういう流れに歴史を向かわせるのかといったところを押さえることがすごく重要だと思うんですよ。

向かう方向性があるとしたらふたつだと思うんです。ひとつは地域ナショナリズム、民族主義というものをどんどん強化して、EUみたいな国家を超えた統合体がバラバラになって、最終的には民族主義によってヨーロッパのいろんな地域とか国が、お互いに争い合う状態になってくる。その流れがひとつあると思う。

もうひとつ可能性としてあるのは、そのような危機を防止するためにね、むしろ超国家的な共同体を強化していくという流れがあり得る。EUの強化ですね。僕はこのふたつの流れがあるとしたら、後者のEU強化の流れに動くと思います。だから、いい口実になるわけです。

たとえば今回のフランスの事件はオランド政権に対するすごい痛手ですよ。あれほど厳戒体制をしいていて、オランド大統領が観戦してるサッカー試合の最中に爆発が起こった。オランド政権は何をやってるんだとフランス国内で声が上がってきてますけども、この議論はどこにいきつくかと言うと、やっぱり単一の政府だけではこの危機に対応するのは無理なのではないかということですね。だったら全EUのあらゆる政府が共闘を張って、より強固なセキュリティをシステムとして保障する体制を確保しないとダメなんではないかというところにいく。それは明らかにEUの強化の方向だと思います。

西塚 EUの強化は誰が望むということになるんでしょうか?

ヤス EU全体を帝国主義化したいという主体でしょうね。

西塚 そういう存在があるということですね。

ヤス あると思います。間違いなくある。EU全体の超社会主義化を狙う勢力はあると思います。

勘と直感は感情と分ける!

西塚 なるほど。ちょっと話しが変わりますが、ヤスさんにおうかがいしたいのですが、何となく怪しい感じがする、という感じがあるじゃないですか。以前にも話が出ましたが、その感じはあてにならないときもあるし、今回のパリのテロを見てもイヤな感じは誰でもすると思うんですけれども、その感じというものは何のか。

たとえば陰謀論系の超社会主義的なNWOみたいなものと結びつける人もいれば、そうじゃない人もいる。同じNWOに結びつける人でも、ちゃんと順を追って論理的に過去のことを分析しながら、結論としてそうとしか考えられないと言うか、その可能性が強いよねという人と、感覚的に何かこれはヤバい!誰かがこれを仕組んでるんじゃないかという感覚の人がありますよね。

勘は正しいときもあれば、かなり間違えるときもある。ちょっと話しがずれていくかもしれませんけど、ニュースを見ても右から左に抜けちゃう人もいれば、何となく自分の知識でこれはヤバいぞ、世界はこうなってるぞというふうに思う人もいる。いわゆるスピリチュアル的にこれはこうこうこうで、次にこういうものが世界にくる前触れだという人もいる。いろいろな捉え方がある。その根幹にあるのは、論理をおくとすれば、おそらく勘なわけですね。直感とか。

何でこんなことをいきなり言い出すかと言うと、いろんなニュースで反応して、またさらに反応していく。そこにはどうしても各個人の勘とか直感が作用するわけですね。だから直感というものはもっと精査されて、検証されてしかるべきだということなんですが。ちょっと話が飛びましたかね。

ヤス 直感というのはあると思います。一般人である我々が抱く直感というのは、感情と密接に不可分に結びついていると思います。感情の場合、ほとんどがノイズですよ。

西塚 ノイズ? 感情がノイズであると。

ヤス 喜怒哀楽ですから。感情は、目の前の何か具体的なものに反応して起こってくると思うんです。あんたが嫌いであるとか、好きであるとか、基本的に感情というのは、怒りであるとか、悲しみであるとか、自分が生きる過程で経験する何かの出来事に対するひとつの反応として湧き起こってくる。それに対して直感というのは判断だと思いますね。非常に冷静な判断で、そこに感情はほとんど入っていない。

西塚 論理もないですか?

ヤス 論理もないですね。結論だけが先にくるという判断ですよ。こうなる、とかね。こうだ、とかといった形。これは僕だけの分け方で、それがどこまで妥当性があるかどうかはわからないけども、本来の直感はほとんど感情をともなわない。非常に冷静な判断としてやってくる。しかしながらですね、どこまでが自分の感情をともなわない判断で、どこまでが感情なのか、区別がつかない状態でやってくるんですね。

西塚 そうですね。そこがちょっと悩ましいところですね。

ヤス そうです。だから多くの人たちが、直感、直感と言ってるんだけど、基本的にはそれは感情にすぎないと思いますよ。

西塚 そこなんですね。僕がおうかがいしたいことも。直感なのか感情なのかという。都合のいい感情もあるでしょうから。僕もこれまでの対話の中でスピリチュアルという言葉とか、直感とか、けっこういいかげんに使ってたところもあるので、今日から徐々にもうちょっとそのへんは厳密にしていきたいなと思ってるんですね。ヤスさんにおうかがいしながら、ひとつひとつ定義していきたいなと。今日は、感情なら感情、ちょっと徹底的におうかがいしたいなあと。

ヤス 直感でも感情でも、判断という要素は必ず入ってると思うんですね。いいとか悪いとか。僕はいいとか悪いとかという判断にね、自分の感情が混じってるかどうか、すごく敏感になろうとしてるんですね。ああ、これは恐怖心から出てるなとか、これは何かの怒りから出てるとか。

怒りといったような気持ちと一緒になって出てきた判断というのは、直感ではない。また恐怖心という怯えの感情とともにやってくる判断は、直感ではないですね。ひとつの感情的な判断にしかすぎない。だから無視してもかまわないんですよ。判断ではない。そうではなくて、いっさい感情をともなわずに非常に自分の心の深いところから、間違いなくこうなるという確信として出てくるものは直感ですね。

西塚 なるほどなあ。それを検証する目はどこにありますか? 自分の感情が出てきてワッとなったときに、恐怖心だ、不安だ、嫉妬だ、怒りだとあるとして、それを判断する主体は何でしょうか?

ヤス まあそれは、自分の思考で判断してるんですけど。ちょっとでも感情が入ってるならば、これはもう直感ではないと無視するようにしてます。ほとんどね。なぜかと言うと、時間が経ったら消えるしね。変質してくるし、判断の内容が変わるので。これはほとんど関係ないなと無視するようにしてる。

西塚 すごいですね。それは昔からなんですか?

ヤス 昔からですね。だからそのような感情的な質をともなう判断というのは、ほとんど当たらないんですよ。間違ってるんです。たいていね。

西塚 それはご自身の経験があって、ということですか?

ヤス 僕の経験もありますよね。そのような感情的な判断を根拠に、自分が実際に行動した場合はたいてい間違う。

西塚 その間違った判断というのは、結果によって判断するということですか?

ヤス 結果によって判断する。あ、やらなければよかったなって。たいてい後悔の原因になりますね。

西塚 そのときに、人間万事塞翁が馬じゃないですけども、そのときはそう思ったんだけども、結果的にあれはよかったということもありますよね。

ヤス 未来ってずっと生きてるわけで、どの時点で捉えるかによって、よかったか悪かったかはわかりませんけどね。ただ多くの場合、自分の感情に基づいた判断というのはだいたいね、ネガティブな結果しかもたらさないですね。

西塚 わかりますね。いきなりちょっと面倒くさい話になってきてるかもしれませんが、いろいろな判断があるんだけれども、感情的だったとしてもですよ、あるいは論理的な結果かもしれないですけど、僕は感情的なこともそうなんだけども、同じように論理的な思考もちょっと疑ってるわけですよ。むしろ直感のほうが正しいんじゃないかというときもあるという。

いわゆる本来の直感はおいときますけども、今ヤスさんがおっしゃったものは本当に感情に近いものであって、そのときカッとして何か言っちゃうとか、そういう類の感情だと思うんですが、それはわかるんですけど、言っちゃったんだけど逆にそれによって反省したりもして、結果がひどければ、それこそ結果的にはよき方向へ持っていくという源泉にもなり得るという。

ヤス 間違いを経験することによって間違いを学ぶっていうのはあります。それはひとつあるかもしれない。そういう間違いを体験するのは大事だと思うんですよ。大事だと思うんだけども、だからと言って感情に基づいた判断で動くべきだとはちょっと言えないですね。

西塚 思わないですね。

ヤス それは絶対にありえない。それを経験しないと、いかにそれが間違ってるかを学べないよってことは言える。

現実を創造していく主体としての「霊」

西塚 ビリー・マイヤーの話はずっと何回もしようとして止まってますから、とりあえずやっちゃいますけども、僕はヤスさんから紹介していただいて、ビリー・マイヤーの本を読んで、その感情のことも含めて、間違う経験がいかに大事かということが書いてあるわけですね。そうじゃないと進歩しないと。

ビリー・マイヤーはヤスさんから説明してもらったほうがいいんだろうけども、僕が簡単に言っちゃうと、スイス人のビリー・マイヤーという人が、ある地球外生物なのか高次元の存在なのかはわかりませんけども、コンタクトを受けて、そのコンタクト記録をずっといまだに書いてらっしゃる人ですね。簡単に言えば。

それがビリー・マイヤーの文章かどうかは僕もわからないですけど、一応コンタクトしてきた存在が言っているという内容がずっと書かれる。それはヘタな哲学書よりも深淵であり、実践的であり、僕がその一端として思い出したのが、さっきの経験の話だったんです。順番があるのだと。我々は未来がわかったりするけども、それをいきなり教えるということはないのだと。経験を経ていかなければならない。そうしないとわからないと。そう言うんですね。それは僕はわりとわかりやすかった。自分で痛い目を見て、そこからステップアップしていくと言うか、広げていくことの重要性、必要性。経験に関して言えばそういう感じですね。

ヤス ビリー・マイヤーのことをおっしゃったので、それに絡めて言うとですね、ビリー・マイヤーの本の中で僕がかなり説得的だなと思ったのは、意識の分類なんですね。ビリー・マイヤーが何度も言ってるように、意識にはまず物質的な意識があると。物質的な意識というのは、現在生きるうえで必要になってる自我の意識ですよね。言ってみれば、我々が今感じている意識のことを物質的な意識という。

西塚 まさに我々が今こうやって話している意識。

ヤス 今こうやって話している意識が物質的な意識ですよね。その物質的な意識のちょっと向こう側に物質的潜在意識があると。それは我々が無意識とか集合無意識と言っているようなものですね。それもやっぱり物質的な潜在意識。さらにですね、この物質的な意識と物質的な潜在意識というのは、死後すべてなくなってしまうんだと。残らないという。

西塚 物質とともになくなる。

ヤス ただ、死んでもずっと輪廻転生しながら生き続けている本体になっているのは、ビリー・マイヤーが「霊」と言うものですね。霊とは何かと言うと、宇宙全体を創り上げてるひとつの「創造」というものですね。いわゆる神ではない。神ではなくて、宇宙全体を創り上げている一種の生命的なエネルギー体なんですね。その一部分が分かれた、あるちっちゃなものが霊なんだと。だから基本的には、宇宙全体のこの生命体の一部なんだという言われ方をする。それが我々ひとりひとりの中に宿っていて、これが人間のいわゆる核心を作り上げていると。これを霊と言う。その霊というのはひとつの人格を持ったものなんですね。

西塚 各個人に宿ったときに、人格を持つということですか?

ヤス いや、もうすでに宿ってる。ひとりひとりに。まあどの時点で人格が宿るかはわからないんだけども、ただ、もともと我々の内部にあったその霊といったものがひとつの存在としてあるということですね。

西塚 それぞれ、「分霊(わけみたま)」と言うとわかりやすくなるのかもしれません。大きなものがあって、その一部がみんなに宿っていて、それぞれみんながユニークであるということですね。

ヤス これね、ある意味で日蓮の発想と極めてよく似てるんですよ。天台宗もそうなんですけど、要するに人間ひとりひとりの生命というのは、実は宇宙的な生命から本当にちょっと分かれた一分子と言うかな、そういうものなんだと。最終的には我々は宇宙的な生命の一部なんだと。このちょっとした分かれ目、ビリー・マイヤーが霊と言ってるような存在をたとえば日蓮的な仏法の中では、または天台的なものでは「仏」ということですね。

西塚 その話は本当に面白いですね。半田広宣という人がいるんですが、言ってみればビリー・マイヤーのような人です。その人も日蓮のことを言っていたと思います。そういった意味で親和性があると言うか、親近性があるのかもしれない。日蓮はキーパーソンの気がします。僕もかつてちょっとだけ勉強したことがありますが、日蓮は面白いなと思います。

ヤス ビリ・マイヤーのこの対話と実によく似てますよね、日蓮は。

西塚 そうですか。そこまでは僕はまだわからないのですが。

ヤス そっくりですよ。

西塚 対話として、日蓮は何か書物がありましたっけ?

ヤス 日蓮はいろんな文章を書いてます。経典やなんかも書いてる。それを読むと実にもうビリー・マイヤーにそっくりですね。

西塚 有名な何とか論…

ヤス 『立正安国論』。

西塚 そう、『立正安国論』ですね。あれもそういう感じですか?

ヤス 『立正安国論』そのものではないですけどね。日蓮はいろんな信者にお手紙みたいなものを遺してて、論文も書いてるし、その現代日本語訳が出てて、それを読むとですね、本当に仏の概念はビリー・マイヤーの霊の概念とそっくりです。

西塚 あと日蓮と言えば宮沢賢治ですね。「銀河鉄道の夜」などのいわゆる詩的な芸術的な感性。それと法華経がどう結びついてるか当時はわかりませんでしたが、何かの親和性があるんですね。言ってみれば芸術で、ビリー・マイヤーの本の中でもセミヤーゼかプターがですね、幾何学的な形とか数学的、物理的な考え方を重視するような記述があったように記憶してます。

ということは、やはり僕は芸術的な感性だと思うんです。言葉で論理的に追うことにはもう限界があって、違う感性を合わせることが必要になってきたということではないか。そういう感性を持ち合わせた上でいろいろと判断なり、検証なりをするという。もうちょっとその部分を拡大しないといけない。そういう知性が必要になってきたと思うんですね。

ヤス 基本的に日蓮のひとつのテーマとなってたのは、仏といったものをどうやって呼び覚ますかということですよ。これはビリー・マイヤーが持ってるようなテーマと同じです。どうやって霊にコンタクトをとって、本来の自分の生命、心の奥底にあるこの霊を呼び起こすかってことですね。僕はそういう意味で、直感というのは霊から出てくるひとつのメッセージみたいなものだと思います。

西塚 僕もそれは思います。ただそれはもちろん感情ではない。そのジャッジですね。それは霊なり仏なりにアクセスした人しかできないということなんでしょうか?

ヤス そこまで神秘的なものじゃないと思うんです。おそらくビリー・マイヤーの本もそうなんですけど、絶えず霊はこちらにコンタクトしようとしていると。我々がそのコンタクトを捕まえるかどうかなんだということですね。普通、我々の物質的な意識というのは、ある意味で感情のルールの中に生きているわけですよ。感情というのは脳みそなんで、脳みその海の中に生きてるときにね、霊からいくら直感的なメッセージが加わったとしても我々が捉えられないということなんだろうなと思う。

西塚 ノイズが多すぎちゃって聞こえないということですね。

ヤス 聞こえないんです。全然。たとえば、ほとんど感情がないような状態で湧き上がってくる判断ってたまにあるわけですね。それはですね、僕の場合ですけど、やっぱりものすごい強い確信として出てくるんです。間違いなくこうなるとかね。こちらの方向だとか、これはこうだという直感的な強い判断として出てくる。その出どころってものすごい深いところから出てきてる感じがするんですね。そういう意味では、やっぱりそれは霊的なものかなというふうに思いますね。

西塚 そこでちょっとわからなくなってくるのは、あらかじめあったものが根本から出てくるから確信になるのか、あるいはこうしたい、こうすべきものだというものがあって、自分がそれを創造していくときの喜びが確信になるのかっていうのは、僕はちょっとわからないんですよ。

つまり決められたラインがいくつもある中で、あるラインを自分はこうありたいと選んでつかんだということなのか、あるいは自分で創り上げられるということ自体を確信しているということなのか…ってちょっと伝わってないですね。僕はクリエイトするほうだと思ってるわけですが。

ヤス もっと言うとね、理屈はそこにはいっさいなくて、自分はこのような現実を創り上げるという確信ですよね。それしかない。自分が将来がこういう現実を創り上げるんだというものすごく強い確信ですよね。

西塚 そこをもうちょっと細かく言うと、ある未来の現実があるとするじゃないですか。それはわかってるわけですよ、自分が。そのときにわかってる現実は、未来の自分を見たのか、あるいは自分がそういうことをやるという力があるから、その確信が生まれたのかがちょっとわからないんですね。

ヤス いやいや、だから将来そういうふうにあるというような客観的な現実ってもともとないんだと思いますよ。我々が創ってるんです。

西塚 やっぱり、そういうことですね。

ヤス そう。それは、そのような現実を私は創りますよという宣言なんです。その確信というのは。だから初めから決められているわけではなくて、感情をいっさいともなわない確信としての判断で、自分は将来的にそうなるということ。私はそういう現実を創り上げますというね、宣言です。

西塚 そこなんです。もうちょっと突っ込んじゃいますけども、僕はゼランドをずっと読んでて腑に落ちてるから言うんですけどね。未来のシナリオは無限にあるんだと言うんです。スライド写真のようにして無限にある。自分が創り上げるというより、すでに無限にある。自分のどの将来、将来じゃなくてもいいんだけど、シナリオは無限にあるから、それを選ぶだけだと言うんですね。自分が創り上げるというよりは選ぶだけだと言う。ただ選べばいいだけだと言う。その選べばいいということと創り上げるということは、僕は実は同等だと思っているんですが、そこの関係性がうまく解釈できないんですね。

ヤス 創り上げるにはイメージがなくちゃいけないわけでしょ? イメージって有限だと思うんですよね。だからどのイメージを選ぶのかっていうこと。それは知ってるどの現実を創り上げるのかってことだと思うんですね。

でも僕はね、おそらく客観性ってほとんどないと思う。客観的世界は場合によってはないかもしれないということですよ。すべてのものは実は自分が創り出してる。ということであれば、選ぶべきような対象が事前にあったかと言えば、それもない。だから自分がこうすると思った段階でひとつの現実ができ始めるということだと思います。それがビリー・マイヤーの言うような霊の持つ現実生成力だと思います。

西塚 すごく面白い話で、逆に言えばですよ、ただの表現の差であって、シナリオが無限にあるという言い方じゃなく、自分で何でもできるという言い方にも変えられるわけですね。

ヤス まあ、簡単に言うとそうですね。

西塚 ちょっと、つまらない表現の仕方で悩んでただけかもしれないなあ(笑)。

ヤス そうそう。だから事前に何かがあって選べよ、じゃない。そんなものもないという。

西塚 何でも可能なんだという世界。

ヤス 何でも可能なんだということだと思います。

西塚 ああ、そっちのほう能動的だし、ちょっとワクワクする話ですね。確かにね。

ヤス だから現実そのものを創り出すような無限の生成力というのは、実は我々の心の深いところに存在してる霊の本来の力なんだと。

スピリチュアリズムっていう言葉がありますでしょ? これは整理し直したほうがいいと思うんですね。

西塚 そうですね。

ヤス 我々が使ってるスピリチュアリズムって何かと言うと、人間の心の底にですね、宇宙的な生命の一分化と言うか、ひとつの分子が実は宿っているということね。それが我々の生命の根源にある実態なんだということ。これに気づくということが本来のスピリチュアリズムのあり方ではないかと思うんですね。だからそれ以外のものというのは、わりと枝葉末節のことかもしれないなという感じもしますね。

西塚 だいたいこのミーティング自体が『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』というネーミングで、初回の冒頭で、人間のやることは全部スピリチュアルだって僕が勝手に言っちゃったんですけども。僕の考えだけで言うと、人間が関わるものは全部スピリチュアルだと思ってるわけですね。スピリチュアリズムは何かと言うと、要するに神秘であれ、心であれ、魂であれ、とにかくこの世に人間が生きている限り、そういうことはすべて関わってくるだろうということでスピリチュアルと括ったんですけれども、それとは別にですね、そういうことすらも統制する原理原則とか法則みたいなものがあって、実は僕はそれを探究しているんですけども、それとは違う話かもしれませんね。

僕が勝手にスピリチュアリズムにそれも入れちゃって、いわゆる原理原則なり宇宙の法則、自然の法則も取り入れちゃってスピリチュアリズムと言ったものだから、けっこう混乱してしまった。ちょっと反省としてあります。それをヤスさんが整理してくれるとは思うんですけれども。

ヤス いえいえ、だから今、西塚さんがおっしゃったことを僕なりの言葉で言うと、人間の行動のすべてがスピリチュアリズムだということですね。我々が関わっているあらゆる客観的な現実すべてのものを創り出しているのは、人間だっていうことです。それが本来のスピリチュアリズムで、西塚さんが言ったことを僕なりに言い換えるとおそらくそうなると思うんです。

したがって人間がどのような現実を創り出してきたのか。それは我々の根底にあるこの霊といったもの、仏といったもの、これが実は現実を創り出す本体にあるものだから、我々が創り上げてきたすべての現実というのは、実は我々の本体にあるものが創り上げている。そのゆく末と言うか、それをどのように創り上げているのか、それを見るのがスピリチュアリズムでしょう。基本的には。

西塚 まさにそうですね。僕がこれもスピリチュアル、あれもスピリチュアルってんで、ちょっと曖昧になってたところを整理していただきました。今回21回目ですけども、よかったなあと(笑)。

ヤス ちょっと話しておきたいと思うのは、ここでほら、ウェストファリア条約であるとか、30年戦争などの宗教戦争の血みどろのね、殺戮の中から「コギト・エルゴ・スム」といった自我哲学が生まれる。すなわち宗教によらない、普遍的に納得できるものは何なのかという探索の中から出てきたという話をしました。

我々というのは今、30年戦争以来のですね、ものすごい不合理が荒れ狂う世界の中にこれから生きていくわけですよ。それはおそらく30年戦争という宗教戦争を上回る破壊性と不合理が出てくる世界ですね。

西塚 パリがそうですね。

ヤス 今、パリがそうです。このテロというのは間違いなくそのひとつの現われだと思う。そうなってくると、ある意味でデカルトと同じような問いが現在も問われねばならない。それは宗教によらない普遍性があるのかと。ただ今回は、それは自我ではないですね。それは何かと言うと、我々の心の中にある普遍的な霊性、普遍的な現実の生成力を持った霊性、仏といったもの。これを実感できるかどうかですよ。

西塚 そうですね。デカルト以上にと言うか、それを超えた新しい意識を…

ヤス 意識ですね。ただ、それを実感できるということ。実感するということを根底に共通したひとつの体験としてみんなが持つこと。それが新しい意識を生む前提になってくると思う。

西塚 まったくその通りだと思います。それが問われているということですね。

ヤス 問われてる。だからどうやったらみんなそれを実感できるのか。それはビリー・マイヤーは瞑想とはっきり言うわけですけども。

西塚 僕なんかに言わせると「合気」もそうなんです。今、サボってますけど(笑)。その話も今度したいと思います。

ヤス そういうことで、じゃあ次回。

西塚 ありがとうございました。

ヤス こちらこそ。

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