だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting vol.17 「エリーティズムとフレキシビリティー」

人気ブログ『ヤスの備忘録』でもおなじみ、
社会分析アナリストの高島康司氏をお招きして、

1 世界で今、起きていること
2 人間の新たなる「精神性」「意識」「思考」

について、飲みながら自由闊達に話すシリーズ。
基本的に毎週更新。

〇『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』第17回
「エリーティズムとフレキシビリティー」

ゲスト:高島康司氏
聞き手:西塚裕一(五目舎)
2015年10月18日 東京・中野にて収録

西塚 みなさんこんにちは。『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』の、えーと17回になりますねえ。いつものとおりヤスさんにお越しいただきました。よろしくお願いします。カンパーイ!

ヤス カンパーイ! どうも。

西塚 何か今週は気になることありましたか?

BRICs諸国とアメリカの国債の下落が加速する

ヤス いや、いっぱいありますね。まだ報道されてないけど、経済がちょっとヤバくて。メルマガに詳しく書くつもりなんですけど、新興国からの資本逃避が激しいんですよ。新興国の多くは資源産出国なんです。特にBRICsなんかではね。BRICsの中でも資源産出国から資本の逃避が激しくなってる。その一番大きな理由は、世界経済全体の減速にともなう商品価格の低落ということなんです。

西塚 デフレってことですか?

ヤス デフレですね、一応。商品価格がどんどん安くなってくると、資源輸出に依存した新興国はかなり大きな余波を食らいます。その結果、経済の先行き不安が生まれて、どんどん新興国から資金の流出が図られる。それで、ちょっと怖いなと言われてるのが、ブラジルとマレーシアと南アフリカなんですね。これから資本の流出が相次ぐと政府が困ってくる。そういう新興国の政府はですね、国債を発行しながら財政をまかなってるわけです。各国が発行した国債は償還しなければならない。償還しなくちゃならない資金は、新規国債発行によって償還すると。その国債が売れなくなってきてるんですね。新興国からの資本がどんどん逃避することによって売れなくなってる。もし本当に新規国債を発行しても売れないとなると、過去に発行した国債の償還ができなくなるわけですから、極端なことを言えばデフォルトにもなりかねないんです。

最近ですね、IMFが特別専門家会議を開催した。新興国が相当ヤバくなってきてると。もし新興国のどこかがデフォルトを起こした場合は、もうIMFしか実質的に資金援助をして助ける団体がいない。しかしながら、ここまで新興国が危機的状態になると、IMFの資金が尽きることにもなった。じゃあIMFはどうやって対処していけばいいか。そういう会議を開いてるんですね。けっこう厳しい状態にあると。

西塚 BRICsの危なそうな国は、中央銀行がお金を刷ることができないんですか?

ヤス いや、お金は刷ることはできる。

西塚 たとえば日本の場合、自国通貨建ての国債なので破綻はありえないという話がありますね。中央銀行が、日本なら日銀がお金を刷ればいいだけなので、まったく問題はないと言うんです。そうじゃない場合は危ないと言うか、他に買ってもらわないといけない。新興国はみんな中央銀行をちゃんと持っていて、自国の通貨は刷れるというのであれば…

ヤス 問題は何かと言うと、自国通貨建ての国債を買ってくれないわけですね、すでに。そうするとその通貨価値そのものに信用不安の火がついて、通貨価値がどんどん安くなってくる。通貨価値が安くなると、これはもっと新興国の経済がヤバいことになって、また資本逃避がどんどん進むわけですよ。

西塚 僕は経済オンチですけど、中央銀行があれば中央銀行が買いますよね、国債を。買い支える。民間銀行が買ってもいいんだけど、それをまた中央銀行が買うみたいな感じですね。日本の場合そうじゃないですか。だから、どういうことなのか…やっぱり信用の問題なのか…

ヤス こういう判断なんです。たとえば日本ではなく新興国の状態だとしましょう。ブラジルでもどこでもね、政府が国債を発行している。それを中央銀行がだいたい買うと。それで市中に現金をばらまくということはやる。また中央銀行が買った現金によってですね、政府が財政を何とか切り盛りするという関係にあることは事実なんですね。それは日本のみならず、どの国でもやってることです。

そうするとね、たとえば新規国債を発行した場合、それは自国通貨建てで発行できます。ただ日本の場合の特殊性というのは、ほとんどの国債が日本国内で処理されてることですね。買ってるのはね。しかし新興国のほとんどは国際市場で販売されている。おそらく国債の過半数の保有者は外国人投資家なんです。そうするとまず海外で国債を販売するでしょ? 販売したとき、もしこれからの経済の先行きが不安だとなったときに、国債が売れないわけですね。売れないと過去に発行した国債の償還ができにくくなるわけですよ。

ここがポイントなんですね。国債の償還なんて簡単にできるだろうと。なぜかと言うと自分の国の貨幣があるんだから、自分の国の貨幣を発行して払えばいいだろうと。理論的には可能なんですよ。可能なんですが、大変なリスクを負う。もしそれをやった場合、大変なインフレになります。インフレになるし、国債を販売によって払うのではなくて、通貨を印刷機でプリンティングして払ったとなると、その通貨に対する信用力がいきなりなくなるわけですね。

西塚 そうですね。

ヤス いきなりなくなるということは、通貨がどんどん安くなる。安くなってどうなるかと言うと、国内がすごいインフレになってくるわけですね。このインフレがクセ者で怖い。たとえばインフレ率が利益率を越えると、まあ我々は資本主義経済にいますから、資本主義経済のもっとも重要なものは利益率です。企業の利益率よりも、銀行の利子率のほうが高かったら誰も投資なんかしないわけですよ。

もっと言うと、インフレ率が利益率よりも高い状態というのは、物を買い占めてですね、それを3ヶ月間くらい倉庫に寝かして売ったほうが儲かるということになるわけです。そしたら経済全体の循環がストップしちゃうんですよ。すごいインフレになってくるとね。そうするともっと資本が逃避する。もっとインフレになる。資本がどんどん逃避してもっと通貨価値が下がる。通貨価値が下がるともっとインフレになると、手がつけられない状態になる。

西塚 そうなると戦後の日本みたいに物の価値がものすごく上がって、物々交換、まあ社会不安ですね。内乱までいっちゃう可能性もある。

ヤス 実はね、これが破綻という状態なんです。

西塚 なるほど、そうなる可能性が相当ある。

ヤス IMFによると、将来的にそういう可能性を見越した上で、現在も専門家会議を開いているということです。

西塚 そういうことですか。その報道は海外メディアですか?

ヤス 『ブルームバーグ』とかね、『フィナンシャル・タイムズ』とか、もう平気で出てますけど。日本国内ではほとんど出てないんじゃないですかね(笑)。あともうひとつね、今日のニュースですけど、アメリカ国債が史上最大の売り(笑)。

西塚 ヤバそうですね。なんでそうなっちゃったんですか? きっかけと言うか。

ヤス ひとつはですね、米国債の売りを仕掛けたのは中国なんですよ。実は日本国債の売りを仕掛けてるのも中国。

西塚 仕掛けてる…要するに弱体化させようってことですか?

ヤス いやいや、そういう政治的な意図じゃなくて、もっと経済的な、合理的な理由から売ってるんです。どういうことかと言うと、中国経済が減速しています。中国経済というのは2009年にですね、2008年のリーマンショックがあってから長い間金融危機が続きますね。その金融危機が続いたときに中国が何をやったかと言うと、大経済刺激策をとるんです。50兆円ぐらいですかね、日本円に換算すると。それぐらいの財政出動をして企業の倒産を防ぐわけです。それでほとんどゼロ金利状態にして、どんな企業でも銀行から自由にお金を借りれる状態にする。それで企業の倒産を防ぐことによって失業率を低く抑えたんです。

西塚 あれはある種、成功したと言うか、よかったですね。

ヤス よかった。その結果失業率が低く抑えられて、中国経済は実はスローダウンしながらも10%近い経済成長率を維持できた。それによって世界経済も牽引されたという、まあ2008年、2009年、2010年ぐらいの時期ってそうだったんですね。ただ、今その余波に困ってるわけです。本来、倒産すべきような企業がほとんど救済されてしまったので、今の中国というのは、そうした企業による過剰生産の状態にあるんです。莫大な商品が市場に溢れている状態。その過剰生産された製品の圧力によって、中国がデフレ下にあるという状態なんです。それがスローダウンのひとつの大きな原因でもあるんですけど。

いずれにしろ中国は、経済がだんだんスローダウンします。今度は人民元が、普通にほっとくと下がってくるわけですよ、ガーっと。人民元安に一回火がつくと、これは中国経済の先行きがヤバいねとなって、もっと人民元が安くなってくる。人民元というのは、基本的に中国政府がある範囲内に収まるようにレートを管理してる。ドルのレートの変動幅の2%の変動幅に収まるように管理されてるわけです。だからそれ以上下がらないんですよ。

実際は、市場では人民元をどんどん売る。売る圧力が強い。しかし中国政府は、何が何でも2%の範囲内に管理しなくちゃならない。そうするとドルを売って元を買うわけですね。ドル売り元買いの操作をするわけです、中国の人民銀行は。そのドルの資金をどこから得るかと言うと、米国債を売ってドルの資金を得て、得た資金で人民元を買う。そうやって人民元を買い支えて、いわゆる人民元を2%の幅のレートの範囲に収めようとしてる。

西塚 難しい話ですが、僕の理解で言うと、要するに元が下がっていくので、ドルも下げて、人民元も2%幅に抑えていくというようにも聞こえるんですが…

ヤス ドルを下げると言うか、ドルの価値というのは国際的な市場、外国為替市場での需要と供給で決まりますでしょ? ドルに対する元の価値というのは、需要と供給がどれくらいあるかで決まってくるんですね。

西塚 米国債を最大に持ってるのは中国ですね。その中国が売っちゃうと、全体的に下がるじゃないですか、アメリカ国債の国際的な価値が。

ヤス そうです。

西塚 そういうことで、ドルも信用をなくしていくのかなと思ったのですが…

ヤス そこまで直接的ではないですけど、今中国がやってるやり方、すなわち人民元を買い支えるためのドル資金を得るために、米国債を売ってドルを得て、そしてそのドルを売って人民元を買うという操作ですね。この操作はやはり相当続く可能性があるんです。そうするとこれからは、米国債は下げの圧力が加わりますよね。市場の方向としては。どんどん米国債はこれから下がるようなことになって、下げが下げを呼ぶといった循環になってくると。

西塚 それが、ふたつ目の経済的な懸念材料ですね。

エリート主義の官僚と土人の日本国民

ヤス まあ、ほかにもいっぱいありますけどね。アベノミクスに関しては、ストラトフォーという、これも僕のメルマガに詳しく書こうと思うんですけど、CIA系のシンクタンクですね。そこはめったに大胆な予測はしないんです。非常に控えめな保守的な予測しかしないんですけど、そこがですね、アベノミクスは2017年で終わりだろうという予測をハッキリ出してきた(笑)。アベノミクスに対する評価は極めて低いですね、海外的に見るとね。

西塚 僕なんかの素人でも、今回の安保法制が通ったあとに「新3本の矢」と言いましたけども、それでGDP600兆円、3%成長ですか? 何の根拠もないと言うか、何なんだろうなと。もう駄目ですね。

ヤス 1億総活躍社会(笑)。

西塚 何を言ってるかよくわからないし、前回の話じゃないですけど、安倍さんがね、よくわからないと言うか、ときどきそういう疑問が出てきて、ヤスさんにもお聞きするんですが、官僚の描いた絵なのか、本人の思ってることなのかがよくわからない。安倍さんがよくわからない。幼児性とかナルシシズムとか、違う側面の話はこの間もしましたけど、何を考えているのかがよくわからないんです。美しい日本はわかりますけども、天皇を上においた、要するに立憲君主制の国をちゃんと作りたいのか何なのか。

ヤスさんもずいぶん前におっしゃってましたが、戦前の日本に持っていきたいんだという話ですよね。それもちょっと緻密じゃないというか、漠然としてるじゃないですか。安倍さんの頭の中がおそらく。だから何をしたいのかよくわからないんです、正直ね。

ヤス 何をしたいか。端的に言うとね、自分たちの支配層の既得権益の維持ですよ。

西塚 それだけですか?

ヤス うん。

西塚 それだけなんですか…

ヤス ただ、その既得権益の維持という意味は、現代の支配層が日本国民を統治する統治機構そのものを維持するってことですよ。

西塚 じゃあ前回みたいに、田吾作とか土人とかの話につながってくる話ですか?

ヤス そうです。田吾作と土人ですよ。

西塚 …にしておきたいという。

ヤス しておきたいし、彼らの目線って、やっぱり日本のエリート主義者の目線とだいたい同じだと思うんです。たとえば東大法学部とか出ますでしょ。東大の法学部を出た人たちが、それこそ左系のリベラルにいこうが、官僚になって、どちらかと言うと右寄りの思想的な傾向にいこうが、または政治家になってね、たとえば安倍さん的な感じのイデオロギーの志向へいこうが、基本的には共有している前提の認識があるってことです。

それは、国民は土人であり、田吾作であるという認識です。そのようなバカな国民を管理するためには、やはりそれなりの統治機構を上から押しつけねばならないと。そのような統治機構によって日本国が統治されない限り、この国家は存亡の危機に陥るのだという認識ですね。

主権在民というのは、国民にすべての決定権を預けるということですね。あらゆる権力の上に国民をおくという。これはとんでもないアイデアなんだと。これは西洋民主主義という特殊な条件下で可能になる。しかし欧米人のようにね、成熟した精神構造ではないんだと、日本国民というのは。もともと田吾作なんだと。土人なんだと。感情のおもむくまま、感情が露出した思考力のない国民なんだと。この国民に、ある程度幸福感を享受させて、それで矛盾なく国を統治していくためにはね、やはり我々が絶対的な統治の権限を担わなくちゃいけないという認識ですよ。

西塚 なるほど。わかりました。今のお話でいくと、自分たちは絶対に正しいだろうし、国民はバカなので、それを導くためには優秀な我々がちゃんとしなきゃ駄目だと。そういうふうに安倍さんは思ってるんですね。

ヤス 安倍さんは思ってると思いますよ。

西塚 官僚ではなく。

ヤス 官僚とやっぱり同じような意識だと思いますね。要するに今までは天皇制国家であるとか、そういうイデオロギー的なことを出さなくても、それは可能だったんです。いわゆる戦後の民主主義として与えられた体制をうまい具合に骨抜きにしながらね、最終的には官僚層と自民党を中心とした支配権力が上からの統治を行なうことができた。それで問題なかった。

ある程度の経済成長が十分達成できて、多くの国民が未来にね、より高い自分の生活水準を享受できるという確信、またそのような現実がちゃんと見えてるときというのは、国民は誰も文句を言わない。したがって、民主主義という体裁を守りながら、基本的には全部骨抜きにして、上からの統治権力を維持することができたという状況だったんです。

西塚 今回のあのヒゲの隊長とあかりちゃんじゃないですけど、安保法制に対してみんな声を上げたことは、ある種想定外だったんでしょうが、でもなおかつ、やっぱりあいつらはバカなんだ、わかってないんだと思ってるわけですね。

ヤス そうです。中には物知りな国民がいて、彼らの先導によってね、バカな国民が実は操られることがあると。それでとんでもない方向にいくと。

西塚 という認識ということですか。自分たちの政策なり何なり、それが間違っているという方向には頭がいかないんですかね。

ヤス 我々は当然、統治権力者として間違うことがある。間違った方向に国民を導くこともあるかもしれない。しかしながらバカな国民に対しては、優越した統治権力が必要なのだと。我々が統治するというこの体制そのものは間違ってるはずがないんだと。

西塚 システムとしてそうだと。あくまでもエスタブリッシュメントとバカな国民という、その構造は変わらないということですか。

ヤス そうです。日本の場合すごく怖いのは、最近だいぶ変わってきたと思いますが、そうした政府に対するリベラルな側も同じ考え方のエリートに率いられてきたということです。我々が啓蒙してやるんだと。我々がこの国民を教育してやるということですよ。

西塚 朝日新聞みたいなものですね。

ヤス だから結果的に同じだったということなんですよ。左右のエリートは相互に互換性があったということですね。

西塚 本当ですね。今思いましたけど、そうすると一見対立しているような右と左のエリートたちは目線が同じなので、バカな大衆バカな国民という目線で簡単に結託しますよね。

ヤス そうです。簡単に結託するし、今まで右だったヤツが左にもいくわ、左のヤツが右になり得る。

西塚 それはもう最悪の構図ですね。大衆がたまったもんじゃないという意味でも最悪なんですが、その誤謬性というんですか、自分個人は間違うかもしれないけれども、このシステムは完全なんだという。これはどう解釈したらいいのか。自分はダメだけども、宗教で言えばこの何とか教は偉大なんだと。そういう話かもしれない。

ヤス ある意味で、日本というものに対する非常にクールな見方が、僕は全体にあるんじゃないかと思いますね。じゃあ国民は何かできたのかと。今まで。大きな国民運動が下からせり上がってね、それで何か実現ができたということが、この国の歴史としてあったのかということですね。

西塚 中沢新一に言わせると、一向一揆くらいだという話がありますね。一向一揆の蜂起は革命的なものだったかもしれませんが、ほかはないでしょう。明治維新という話もあるけど、あれはちょっと違いますからね。

ヤス 細かく見るとけっこうあってね、自由民権運動なんかもそうですよ。下から上がってくる革命の契機はたくさんあるんですね。ただポイントは、そのような革命とか大きな運動が下から上がってくる契機はたくさんあったんだけれども、それがいったんですね、エリート的な思想の主導者に率いられると、本来の改革の力というのがだいぶ薄まってしまうということなのではないかと思いますね。

だから今まで日本の市民運動と言われているもの、いろんな運動があって僕は評価すべきものがたくさんあると思うんですけど、ただそういう市民運動の中にも一部ね、やっぱりエリート主義的な運動が必ずあるし、そのエリート主義的な運動はまず成功しないのではないかと思いますね。

西塚 僕はどうも感情的なところに目がいってしまうんですが、エリート主義でも、仲間になったときに排外的になったり、排除するわけですよ。そういう精神的な構造とまではいかないかもしれませんが、感情的な流れとしては、どうしてもあるというふうに思うわけです。たとえば連合赤軍のリンチとかですね、あれは別にエリートであるがゆえのどうのこうのではなくて、ただの感情じゃないですか。嫉妬とか。何かの規律があるんでしょう、その組織内では。でも、その規律を方便にして気に入らないヤツを処分するというのに近いんではないか。

そういうものは原理原則ではなく、ひょっとしたらイスラムのですね、ジハディストたちが持ってるものよりももっと幼稚で、イジメにつながるような下らない感情だと思うんですね。それが、国家の体制に対抗しようとしているような組織内でも、そういった幼稚な精神構造に支配されて殺人まで犯してしまう。本末転倒と言うか、それは自滅していきます。その根本には幼稚性がある。個が確立してないし、お互いに共依存にある関係。おそらく精神医学上の病理に近いような構造があるのではないかと、ちょっと思っちゃうわけです。そっちのほうに興味があるんですね。

要するにヤスさんが言ったような、そんな立派なものじゃないという感じなんです(笑)。エリーティズムというよりは、感情的な幼さなのかなと。僕は自分のことと照らし合わせてもそう思います。そこが問題なような気がする。スピリチュアリズムまでいかないにしても、そこに関係してると思うんです。また散漫になりましたけど。

ヤス おそらくその感情の問題というのは誰にでもあると思うし、特に日本の中で、感情が露出した人ってすごく多いと思うんですね。

西塚 いわゆる感情的な人ってことですか?

ヤス 感情的な人。喜怒哀楽が露出するという。その自分の喜怒哀楽と言うかね、自分の感情ですべてのものを決定するというタイプの人が、すごく多いと思うんです。論理的な思考であるとか、論理的な判断というのがなかなか成立しにくいタイプの人たち。情に流されやすい。情で判断するというような、まあ日本人の一般的な気質の一部なのかもしれない。それはある意味で、官僚層にとっても同じなのかもしれない。官僚でも政治家でも、日本人であればどの水準の、どの社会システムの中のどのレベルの日本人にとっても、みんな同じような特質を示すんじゃないかと思うんですよ。

西塚 そうか。前の福田(康夫)総理にしてもですね、新聞記者でしたっけ? 取材で突っ込まれて、私はあなたとは違うんです!という発言がありましたね。あれも子どもっぽいですし。

ヤス だからそれは、日本人であればみんな同じく持っているような幼稚性で、それがひとりひとりがおかれたさまざまな社会的な文脈で発揮されると思うんです。ただ問題は、それとね、それが発揮される社会的な文脈というものは、やっぱりちょっと違ってると思います。社会的文脈というのはシステムです。

たとえば、あるエリート主義の世界観を共有してる日本の支配層がいて、日本人というのは田吾作だからね、上から自分たちこそが日本人を統治すべきなんだと。そうして作り上げた統治権力の構造がありますでしょ。民主的じゃない統治権力の構造がある。そのような統治権力の構造の中で、細かく個人の単位で見たときにね、お互いの感情の諍いとか、たくさんあると思うんですよ。ただそのシステム自体は、感情的なものが作り上げたものとはちょっと違うということなんです。

西塚 なるほど、見えてきました。前回、安保法制を絡めたお話がありました。僕はどうしても感情的で、それこそ僕が幼いのかもしれないですけど、ヤスさんが強調したのは、日本の戦後70年間において、西洋的な自我があったかと言えばそれはないだろうと。でもそういうことではない。

今おっしゃったようなシステム自体の問題ですね。まずは守られていたんだと。今回の安保法制に反対することにしてもですよ、天安門みたいにいきなり戦車がきてみんなを潰したりはしないわけですね。それは憲法で保障されているからで、要するにできないことになっている。まずそうした憲法が一応あるということ。今、踏み躙られようとしてるかもしれないけど、とにかくあると。それによって、実は我々は支えられてきていて、アメリカの庇護だろうが何だろうが、そういうことではなく、基本的なシステムがあって、大前提として社会的に個人が尊重されてきただろうと。その前提で享受してきた平和があった。

今回のアンチのアクションは、単純に戦争反対とかですね、我々が戦争に狩り立てられるというようなことではなくて、今まで確かに安穏と生きてきたかもしれない国民たちが、どうしてそれができてきたのかということを考え始めたということ。頭パッパラパーでも、とにかく安全で何とか食えて、くだらないことを言って過ごしてこれたじゃん、その大もとは何だったのかということですね。

実は憲法だったんじゃないか。だとすればそれを守って、自分たちでこの楽さ、ゆるさを続けていきたいとするなら、どうしたらいいのか。今回ヤバいかもしれないと言っても、それを考える好機にはなった。それもかなり大きい好機だということを、ヤスさんおっしゃりたかったのかなと。今さらのようにそれがわかってきて、なるほどなと思いました。今のお話でも、そのエリート主義、まあエリートたちの間にもいろいろあるかもしれないけれども、システムの問題だという、そういうお話なんですね。

ヤス そうです。要するにね、日本のエリートたちというのは、今の我々のゆるい国民の生活を守ることができた。その前提にあるのは憲法であることは間違いないんですが、そのエリートたちのひとつの視点から見たときにはね、そうした憲法の大枠を守りながらも、国民の主権在民を徹底的に骨抜きにすることよって、上からの統治権力を現行の憲法の範囲内で推し進めようとしてきた人たちではあると思うんですね。

問題はですね、どうも経済成長もだんだんかつてのようにはいかなくなってきたし、我々国民もですね、将来に明るい生活が待ってるというふうには思えなくなってきた。そうするとだんだん文句を言い始めるわけですよ。多くの人たちがね。それからシステムそのものが何でこんなにうまくいってないのかと。システムの根拠を問い始めるわけです。

今までの憲法の枠組みを守って、それで高い経済成長の保障を探りながらね、なおかつ上からの統治権力をずっと維持していくという、これまでの統治権力構造を維持できなくなってきたときにですね、彼らの上からの統治権力を維持するためには、別の憲法の枠組みが必要になってきたということなんですよ。

西塚 今回、その憲法自体も解釈改憲みたいなことができちゃうという危険性も出てきて、憲法自体も意味がなくなってき出して、どこそこの昔の第三国みたいな独裁政治になってしまうんじゃないかという不安もありますけどもね。だから、システムを変えれば全部変わっちゃうということに気がついてきた。じゃあ、我々がゆるいまんまいけるような、確固としたシステムを作っていく。どこに穴があるかも含めて、考えていこうということですね。

ヤス だと思うんですよ。基本的にはやっぱりそういう流れだと思います。今、西塚さんがおっしゃったように、前回喋ったことの続きですけど、いわゆる戦争を起こさせないようにということもひとつありますけれども、戦争法案だってこともひとつありますけども、それ以上にですね我々のこのゆるい、大好きな日本ですよ(笑)。このゆるさがいいんですよね。競争もあんまりしなくてもいいしね。このゆるくて、何となくボーッと生きられた日本の前提とは何だったのかと。前提ってよくよく見てみると、実は憲法の存在だったということだと思います。

システム温存のために何でも利用する官僚たち

西塚 僕もウカツと言うか、浅はかだったなと思いますね。空気と同じようなもので、普段享受してるとわからないんですね。存在がね。脅かされたときに初めてわかる。たとえば空気がなくなると言われたら、みんなアワを食うわけで。ちょっと大げさなたとえですけど、憲法がおかしくなるよってときに、みんな皮膚感覚で、今言ったように空気がなくなるに近いような感覚で何かヤバいぞと感じた。あらためてそう思いましたね。

そこで強引に結びつけるわけじゃないんですが、いわゆるスピリチュアル文化が片やありますね。別に今に始まったことじゃなくて、ずっとあった。70年代のユリ・ゲラーのときもあったし、ときどきブームになって本が売れたりするということが今までもあったけれども、僕は今回はどうもそういうタイプのものではないと思います。

いわゆる3.11の震災、2011年あたりからその流れが強まってきて、ある種の傾向とか、いくつかの流れ、日本大好きとか、あるいは自己改造型とかですね、僕に言わせればいくつかあるのですが、わりと太い感じの流れになってきていて、ここにきて商売とかビジネスにも絡んでくると思うんですね。

そこで僕は、何かわけわかんないことにならなければいいなと。浅知恵で考えてはいたんですけど。今のお話で言えば、憲法がおかしくなるかもしれないという安保法制の問題に、スピリチュアリズムが絡んでくる可能性とか危険性は何かありますか?

ヤス 危険性はあると思います。僕は可能性も危険性も両方あると思いますね。ひとつの危険性は何かと言うと、スピリチュアル系の流れとしてね、日本という国家を神聖視するという流れがあるわけです。それは日本にもともとある、たとえば日月神示であるとか、伝統的とまでは言わないけれども日本にずっと存在するような、神国日本を讃えるような日本独特のスピリチュアリズムがあるわけですね。それがだんだん強くなってきたような気がしますね。

そのような日本独特のスピリチュアリズムに関わっいくと、まさに日本こそがね、世界を救う使命を担った特殊な国であると。そのような事実に対して覚醒することこそが、まさにスピリチュアリズムの眼目であると喧伝する流れがひとつある。そういうことがどんどん強くなってくると思います。

西塚 先ほどのエリート主義の国家版みたいなものですよね。危ないですね。

ヤス 基本的に同じです。ただおそらくですね、安倍の背後にいる官僚たちのエリート主義というのは、日本を特殊だとは思っていない。あまりにも日本人は田吾作であると。アホなんだと。日本の特殊性をそこに見出していると思う。だからと言って、じゃあ日本がすばらしい国かと言うとそういうわけではない。

西塚 ああ、そこは決定的で、僕はそこをちょっと確認したいんですけども。ということは僕の理解で言うと、エリート主義の人たちは自分が優秀だと思っている。だから大衆はバカだと。自分が優秀、あるいは我々、たとえば東大法学部を出た我々が優秀なんであって、あとはバカなんだ。だから我々に任せておけと。自分は間違うかもしれないけど、このシステムは間違いないと言ったとすればですよ、そうやって敷衍させていくと、日本は大丈夫だ、ほかの国はバカだということにつながりませんか? そういう意味では僕はすごく似てると思うんですよね。

ヤス ほかの国はバカだ、日本は偉大だというのは、それはナショナリズムですね。それはちょっとうまく言えませんけどね、エリート主義の場合どこに向けられるかと言うと、それは日本国民に向けられるわけですよ。日本国民に対して我々は極めて優秀なんだと。そしてバカな国民がいるがゆえにね、彼らを率いてね、豊かにさせて、幸福な生活を享受できるようにするのは我々なんだと。だから我々にすべて任せて、我々こそにすべての統治権力を集中させるきなんだと。

それと日本そのものがすばらしい国であるということは、ある意味で対立した考え方なんですね。彼らのエリート主義の中から見ると、日本そのものが偉大な国で神の国かと言うと、彼らはそうは思っていない。

西塚 あ、そのエリートからは出てこないんですか? その発想は。

ヤス 出てこない。

西塚 そこ、面白いなあ。

ヤス 戦前がそうだったんです。日本の戦前の憲法からいくとね、国家神道は宗教ではないとされてたわけですよ。宗教ではないので、国家神道、いわゆる天照大神を祀るであるとか、伊勢神宮にお参りにいくであるとか、あれは宗教行為ではないと。宗教行為ではないがゆえに全国民が強制されたわけですね。

西塚 なるほど。

ヤス ここがポイントだよね。宗教行為でないがゆえに全国民が強制される。それで一応、建前として信教の自由を保つ。いわゆる国家神道に対して礼拝をする。国家神道を敬っていればね、個人個人が他にどんな宗教をやってても自由だと。そういう建前の明治憲法だったんですね。

西塚 明治憲法は信教の自由は謳ってましたか?

ヤス 謳ってます。当時、明治憲法がかなり意識したのはヨーロッパの憲法なんですよ。ヨーロッパの憲法の中で、まあヨーロッパおよびアメリカの憲法ですね、そこで言論の自由、信教の自由というのはひとつの骨子になってますから。その中である程度許された。ある程度とは何かと言うと、国家神道をまず敬ったという前提のもとで、個人個人はどんな宗教に入っても自由ですよってことなんです。

だから国家神道は宗教ではないということです。じゃあ国家神道そのものの内容はどんなもんだったかと言うと、それこそ天孫降臨の神話ですよ。いわゆる神武天皇からの万世一系のね、天皇によって創られた神聖国家であるということです。どこまでいっても日本は神によって創られた神聖国家であるというところが、国家神道の中心に据えられている中身ですね。

じゃあ、当時の国家エリートがそれを信じていたのかなんですよ。たとえば一等兵、二等兵だとか、戦場の現場にいってるような将兵は、それを信じていたのかもしれない。神の国であると。天皇がまさに神の子であると信じていたのかもしれないし、それは国民の多くが強制された信仰だったかもしれない。

じゃあ、たとえば海軍大学とか陸軍大学とか、それから東大の法学部であるとか、その官僚たちがそれを信じていたのかですよ。これっぽっちも信じていない。彼らの理解の中では、国家神道というのは、国家を統治して経営するための、実は都合のいいイデオロギーにしかすぎなかった。ツールなんだと思ってるわけです。天皇自体がひとつのツールだと思ってるわけです。

当時、美濃部達吉の「天皇機関説」というのがあったんですが、いわゆる天皇は機関であるという。それに対して、特に軍部の非常に大きな反発もありましたけど、天皇機関説がエリートたちにすんなりと受け入れられていくというのは、そういう背景があったからだと思います。

だからエリートたちが日本を神の国だと信じているかと言えば、まったく信じていない。偉大な国とかではない。それは国を統治して、富国強兵でね、将来欧米と列すべき強国になっていくために、この国の持っている国民のリソースをすべて出して、そしてなおかつ国を統治していくための、これはイデオロギーなのだというような見方だと思います。

西塚 あくまで、彼らに対してよく判断すれば、頭がいいがゆえにですね、その宗教とか、わけのわからないオカルトチックなものには引きずられないで、すごく冷徹な、冷静な判断をした結果、我々がこの愚かな国民を導いていくしかないし、戦後のシステムは我々が構築していくべきだと。そういうことを本当に信じ込んでいて、しかもそれが日本のためになると本気で思っているということですね。

ヤス そうですね。そうするとね、彼らから見て、日本国といったものをうまく統治するためにナショナリズムが必要であれば、ナショナリズムをとことん利用したい。

西塚 そこには、この国が好きだからというのはないんですか? それとも自分の既得権益のためだけなんですかね。

ヤス この国が好きかどうかはよくわからないですね。でもおそらくね、そういう感情では動いていないと思う。

西塚 もちろん家族がいたりもするでしょうから、少なくとも安寧で、安全で、平和的に過ごすためには、我々が必要だし、知恵と力が必要なんだと。家族もそれでずっと安泰なのだ。そのために我々官僚がちゃんとして…という話ですかね。

ヤス 我々がやはり官僚としてこの国を率いて、田吾作をね、バカな国民を導いて、どんなバカな国民であってもそれなりに幸福な生活を送れるように、我々がそのシステムチェックをきちんとやって、この国を導いていくと。

西塚 こんな話も聞きました。かつてはですね、官僚の既得権益を守るために、官僚が描いた絵があるわけですね。それに逆らう総理大臣もいるわけですが、それはアメリカなんかと結託して、その総理大臣を追い出すとか、失脚させるなんてこともあったぐらいだけど、今の官僚はかなり密接に安倍さんとやっている。それはなぜかと言うと、人事権を握ったからだと言うんです。内閣人事局ができたからだと。

要するに官僚自体もですね、派閥とかがある。目指すは事務次官ですよね。基本的に事務次官なんだけども、もう自分は無理だと。そのラインはないと。外務省なら外務省で、あのグループのこの人が次の事務次官で、次はこの人この人というふうにある程度わかっている。でも今はそうではなくて、安倍さん自体が人事権を強い形で持ってるので、自分が安倍さんに取り入ったら、いきなりポッと一本釣りで事務次官になっちゃうかもしれないという可能性が出てきたらしい。そういう期待が官僚たちの間に蔓延し始めた。そうすると、安倍さんを支えようとするわけですね。

どうしても人間の性として、安倍さんがやりたいようなことを最初に感知して、それを差し出していくということになる。こんなものあります、あんなものありますと。その結果として、安保法制もできあがったという話も一部あるくらいですが、となると僕に言わせれば、それってただの出世主義じゃんとなるわけで。日本のためでも何でもなく、エリートの我々が優秀だからというものでもなく、単純に出世したいがために政府に擦り寄っていく。だとすれば、今の官僚自体も劣化したのかなということです。

ヤス ああ、なるほどね。たしかにね。ただそのエリート主義とは何かと言うと、安倍さんも含め、現在の自民党の政治家もそうだし、名だたる官僚、主たる官僚もそうだし、官僚システムそのものに内在化された制度の意識だと思いますよ。そのような意識の持ち主じゃないと、もともと官僚にならないということだと思います。

西塚 なるほど、そういう話ですか(笑)。

ヤス そうそう。そこの、同じ意識を持ってる連中の間の競争なわけです。だから官僚が出世競争をやるにしろやらないにしろ、官僚の眼差しと安倍さん眼差しは、そのエリート主義という前提ではね、ほとんど違いがないんだろうなと思いますね

土人たちの戦略的な迎合主義

西塚 前回、土人の話がありましたね。浅田彰が最初に言ったそうです。昭和昭和天皇の崩御のときに、みんな皇居前にいって頭を垂れる。それを見て浅田彰が評した表現だそうです。日本人は土人だと。酋長が死んで、あるいは王様が死んで、そこにいって頭を垂れる。これは土人の国だと。それで大塚英志は、さすがに土人はないだろう、これはひどいな、それは言いすぎだよ浅田さんと思ったんだけど、ここにきて、ああやっぱり日本人は土人だったと。それが宮台真司との対談の話なんです。

先日、身近なところで言うと、洪水がありましたでしょ、ものすごい洪水。あのときに、僕は東京新聞をとってるんですが、日曜の最終面に「東京どんぶらこ」という特集があるんですね。これは面白いんです。東京のあちこちにいっていろんなテーマを取り上げる。僕は東京新聞は好きなので、とってるんですけどね。その「東京どんぶらこ」が一時休載したんです。それは何かの都合か、緊急ニュースが入ったからかもしれませんが、僕の感覚だとおそらく自主規制。自粛だろうと。東京どんぶらこ…たしかにまあ、わかりますよね。

昭和天皇のとき、下血が報道されてマスコミも自粛ムードになった。有名な話で、トヨタ・セフィーロのCMに井上陽水が出ていて、「お元気ですか?」というフレーズが口パクになってしまうという。そういう自主規制、自粛をわりと日本中で共有してましたね。華美なことは慎もうとか。僕はそういうことは、今はあまりなくなってきたんだろうなと思ってましたが、「東京どんぶらこ」の休載告知を見た瞬間に、それを思い出したんです。

その心の性はどういうものなのか。それは奥ゆかしい日本人の気の遣い方だという言い方もできます。あまりことを荒立てなかったり、ちょっと控えましょうっていう。いい美意識の表れなのか、あるいは過剰なのかというのは難しいじゃないですか。僕は基本的に過剰だと思ってるわけです。ヤスさんは個人的なご感想として、どう思われますか?

ヤス 今のは、浅田さん、宮台さんの例ですね。昭和天皇崩御のときの。またもうひとつ、その土人の例としてよく使われるのは、マッカーサーに対する例があるんですよ。たしかね、約50万通の手紙がマッカーサーに送られた。『拝啓マッカーサー元帥様』という本が出てますけど、それからジョン・ダワーというアメリカの有名な歴史学者が書いた『敗北を抱きしめて』という本の中にもですね、44万5千通ぐらいのマッカーサーに対する賛美のレターばかりが送られたと書いてある。その内容を紹介してるんですが、マッカーサーのことを曼荼羅に描いて、毎日拝んでますというのがあるんですね(笑)。

西塚 要するに、日本を救ってくれた人みたいな感じですか? ありがとう、感謝という。

ヤス 感謝して、拝むわけですよ。今までね、日本に原爆を落として、東京大空襲で首都を全部焼いて、日本の都市という都市のほとんどが空爆されてね。そこまでされた相手に対して拝むというのは、これは土人だろうという(笑)。

西塚 僕は個人的にはそう思いますね。ヤスさんはどんなふうに思われますか?

ヤス 僕はちょっと違った見方をしています。たとえばアメリカでね、9.11になったときに、アメリカ人は頭がおかしくなるわけですよ。みんな国家の一部になってしまって、どこにいっても、「USA! USA! USA!」と怒鳴りまくるわけですね。

西塚 メディアも先導する。

ヤス メディアも先導する。『ニューヨーク・タイムズ』みたいな知的なメディアも一面全部、星条旗ばっかりになるわけですね。もう一日でそういうふうになるわけですよ。それは土人じゃないのか?ということです。

西塚 ああ、なるほど。9.11のときに、どこだったかなあ、いいかげんなことは言えないけど、3大ネットワークがありますよね。『ABC』だったかな? 意外と追随はしないで、大量破壊兵器があるかどうかも含めて、検証したほうがいい的な…

ヤス そうそう。ABCですね。

西塚 要するに中立的な意見をちょっと言っただけなんだけども、ものすごく叩かれて。しかも親会社のディズニーかなんかまでいっちゃって、ディズニーのボイコットまでいくんで、これはもう無視できないということで、しょうがなく追随したという話を聞いたことあります。

ヤス そうそう。そうです。

西塚 と言うことは、それだけの圧力があって、そうなっちゃうわけじゃないですか。これはちょっと別のテーマで、今日はやりませんけども、ヤスさんの言うところの、そうなるともう止まらないということですね。「渦」でもいいんですけども…

ヤス そう、止まらない。

西塚 「津波」でもいいんですが、それでいっちゃったという。9.11は。だから、そこの話なのかな。

ヤス まさにそうです。アメリカなんて言っても、9.11なんてその典型的な例で、まあ、ああやって一気にスイッチが入ると集合無意識の津波と化してしまうわけですよ。

西塚 日本人に限らないわけですね。

ヤス 限らない。だからそれは土人じゃないのか?ということなんですよ。

西塚 そうか。じゃあ、今は違うかもしれませんけど、宮台さんとか大塚英志とか浅田彰の当時の見方というのは、やっぱりどちらかと言うと自虐史観に近くて、日本人に対して、世界に対するコンプレックスみたいなものが逆に対象化された。むしろそれを証明している。つまり西洋を崇めてたんでしょうね、彼らは。おそらく。

ヤス そうね。だから言ってみれば西洋がね、自我が自立した個人によってでき上がってるのか? 理性によって管理されてる民主主義なんてやってんのか? なんですよね。じゃあ中身見てみろと。アメリカで何が起こってるのか(笑)。

西塚 9.11のときでもう、それは語るに落ちましたね。そのとおりですね。みんな右へならえだったわけだから。同じですね、日本と。

ヤス 職場でね、僕の友だちが何人かいましたけど、当時ブッシュ大統領のことをちょっと批判したら、いや批判でもない、私は民主党支持だからと。それでクビですよ。

西塚 本当ですか? 解雇ですか?

ヤス うん、クビです。自分の上司がそれを聞いててね。もう君はこの国の国民としてふさわくないって言ってクビですよ。

西塚 要するに非国民ってことですよね。

ヤス 非国民ですよ。そんな雰囲気ですね。

西塚 そうか。アメリカでもそうなるのか。

ヤス そうですよ。日本のほうがむしろ過激じゃなかったということだと思いますよ。だからね、日本人のやり方ってこうなんですね。たとえば、その天皇陛下の崩御のときにね、土人に見えたかもしれないけれども、まあこのぐらいやっておけばみんなから責められないから、やっておこうかって程度のものなんですよ。

たとえばね、金正日が死んだときに、ウワーッて泣くでしょ、あれ(笑)。演技かなんか知らないけどね。ああいうことを日本人がやったかと言うと、やってないわけです。じゃあ天皇陛下が崩御したから悲しいと言いますが、あんまり悲しいとみんな思ってないわけですよ。ただ一応、このぐらいやっておいても、まあ世間的に失礼とも見なされないからいいだろうという程度なんですね。

西塚 当時、『朝まで生テレビ』があって、テレビが叩かれて、西部(邁)あたりが、みんなもう金太郎アメみたいに取ってつけたような、お葬式みたいな番組ばかりやりやがってと批判して、テレビが叩かれたんですよ。そこに出てきたTBSとか各局の代表的なキャスターたちは、やっぱりそれは他の局を見てね、自主規制をすると。それはどういう意味かと言うと、お葬式にいってみんな黒いネクタイをしてるのに、自分だけ赤いネクタイはできないだろうと。そのぐらいのもんだというようなことを言ったんですね。だから、あれはある種当たってたのかもしれない。

ヤス だと思う。だからね、そのぐらいに抑えてるってことが、僕はそれこそ健康だと思いますよ。はるかに健康だと思う。

西塚 なるほど。それはちょっと恐れ入りました。僕もちょっとまだ単純と言うか、偏見がありましたね。

ヤス だからね、今回「東京どんぶらこ」でもそうだと思うんですね。このぐらいに抑えておけば非難を受けないだろうなっていう。やっぱり日本人特有の感情に対する適応力の豊かさだと思うんですね。

西塚 むしろ冷静な判断とも言えるという。

ヤス 冷静な判断です。

西塚 なるほど、すみませんでした。それは僕はやられたなあ(笑)。僕はちょっとカーッときて、何なんだよ、東京新聞まで自主規制しやがってと思うこれがヤバいですね(笑)。

ヤス いや、そんなことない(笑)。たとえば、マッカーサーの手紙に関しても、僕は同じような感んじですよ。マッカーサーに手紙を出してね、曼荼羅に描いてね(笑)、それを拝むっていうのは極端なんだけど、マッカーサーに対してたくさん感謝の手紙を出すと。それね、自分の心からの感謝であるかどうかってわかりませんよ。このぐらいのことを日本国民としてやっといたら、まあ悪いことはねえだろうなっていう程度。占領軍って何者かわかからないわけですから。占領軍という恐ろしいものに関してね、自分たちが極めてマイナスを被るというリスク、弾圧されるかもしれないというリスクを、できるだけ緩和するための事前の措置としてやってるということだと思いますよ。

西塚 可能性はあるかもしれないですね。まあ一部には、熱狂的に頭がパッパラパーになっちゃって、ありがとうになったかも知れないけど、一応そうやって様子を見るって言ったら何ですけど、とりあえずは戦略的な迎合、おもねり、いざとなったら本当に竹ヤリを持っていくかもしれないですしね。

ヤス そうです。だから、戦略的な迎合ですよね。そこに何かのプリンシプルと言うか、原理性がないと言ったって、原理そのものを見出すこと自体が間違ってますよ。なぜかと言うと、だって(笑)、ひとつの感情に対する適応、必死の適応のやりかたなんだから。

西塚 ある種のフレキシビリティ-とも言えるわけですね。

ヤス フレキシビリティーですよ、それ。

西塚 わりとあの、ヤスさんの、ときどきですけど、日本人として、大衆というふうに括っちゃうと、わりとこう非難と言うか、批判という側面が強いのかなと僕は勝手に思ってたんですけど、両方見てらっしゃるというのがわかりました。

ヤス いや、そうなんです。

西塚 僕のほうが、ネトウヨっぽいなあ(笑)。

フレキシビリティーをなくした現代日本

ヤス いや、そんなことない、そんなことない(笑)。だから、僕は一番注意しなくちゃならないのは、エリート主義だと思うんですね。それは左右、リベラル、どこにしろエリート主義がはびこってますので。エリート主義にもっていくと、何か本質を見誤るわけですね。だから日本人というのはね、いい意味でも悪い意味でも、極めて冷静な判断のもとで行動していくという側面があるんですね。それは有利か不利かですよ、基本的には。

西塚 それは、損か得かとは違うんですか。

ヤス 同じですね。損か得か、有利が不利かで判断するわけです。このように自分たちが行動してくと一番得である、有利であると。一番有利な合理性のもとにスッと動くわけです。

西塚 それ自体は、善悪を言ってもしょうがないけども、ヤスさんどう思われますか?

ヤス たとえばね、何かの強烈なプリンシプルがある場合、ひとつの原理性があって、その原理性のもとにね、反抗したり迎合したりという、批判的な精神のもとに批判しようとする場合は一応カッコよく見えるんですけど、場合によってはものすごいリスクを負うわけですよ。

今、我々は原理で戦ってるような人たち、フランスの労働者であるとか、フランスの人権活動家であるとか、メルケル政権にね、国是となってる原発政策を転換させて、反原発に歩み出させたいわゆるドイツの国内の反原発運動であるとかね。ヨーロッパ、またはアメリカの人権闘争であるとか、そういったものをたくさん見てるわけです。その原理による闘争っていうものを。間違ってるものは間違ってると。我々の原理からしてみれば、必ずそれは是正せねばならないと戦うわけです。

しかしながら、同じ原理に基づく闘争というのは、いろんなところにあるわけですよ。イスラム原理主義だってそうです。まさに原理に基づく闘争じゃないですか。北朝鮮は一番原理主義的な国家ですよ(笑)。原理で物事を判断する人たちが多いわけで
すよね。

原理で物事を戦うことは、まさに原理に合わないものを是正してく上で大変な戦いとリスクを強いられるわけです。命がけの戦いになるかもしれない。それはすごく大事なんです、局面としてはね。しかしながら、その原理性の根底が、たとえば宗教的な原理性である場合は、泥沼の戦いの中にに入っていくことになる。

キリスト教だってそうだしね。イスラム教のイスラム原理主義だってそうだし。宗教的な原理性というのは大変な戦いになっていく。言ってみれば、原理で戦うということのその根本の原理が何なのかということ。それをよく見ないと、原理で戦うことすべてがいいかと言うと、そういうわけではないということですね。

西塚 よくオポチュニスト、機会主義者というのは、わりと揶揄される対象だったじゃないですか。ずっと。何だ、それってただの機会主義じゃないかとかですね、わりと揶揄されるような言葉だった。ネガティブな言葉だったと思うんです。要するにご都合主義ですよね。そういうことが、あたかも悪いかのように言われたけども、ある面原理主義、何かこう筋が通ったことを通すということは、いいときもあるけど、もちろん危険性もある。

ご都合主義とか機会主義でも、いいかげんでその場逃れのこともあるけども、場合によってはものすごくフレキシビリティーを発揮した、すごく実用的な、実践的な、効率のいい有効的な手段とも言えるってことですね。

ヤス そうです。だから我々日本人の一般的な特性として、そのフレキシビリティーですね。そのフレキシビリティーを日本人が発揮してるときって、国が一番発展してきてるんではないかなと思います。

西塚 なるほど。それは何でもモノマネしちゃうとか、何かやられちゃっても忘れちゃって迎合してると言われるけども、今ヤスさんがおっしゃったようなことで言えばそうですよね。全部取り入れる。融通無碍に取り入れて、それをまたすごく実践的な、その時代に合ったものとして加工なり発展させて、みんなを幸せにする。

ヤス そうですね。だから戦後の日本が発展してるときにね、日本人が発揮してたフレキシビリティーって大変なものがありますよ。今まで敵だったアメリカの植民地になるわけですから。ある意味で植民地になりながら、最大限の経済発展をするというね、最大限の経済発展が可能になるように適合していくわけです。原理にこだわってたらそのような適合ってできないわけですよ。

西塚 詳しいことはわからないけど、生物学的な意味でも、全生物、地球上の生物がもし生き残っていくとすればやっぱりフレキシビリティーのはずであって、そういった意味では日本人の対処の仕方というのは、ひょっとしたら世界200カ国近くある中で、ある種のモデルとしてはかなり研究されるべき面白い国民であり、国であるかもしれませんね。そういった意味では。

ヤス 今、ちょっと面白い本を読んでて、『愛国の技法』と言うんですね。戦前のポスター集なんですよ。戦前、ビジュアルでね、どんなふうに愛国心を盛り上げていったのか、たくさん見れるんです。ここまで鬼畜米兵って叫んでたのに、戦争が終わったら一気にワッと変わるわけじゃないですか。それはね(笑)、ある視点から見たら田吾作だし、土人なわけですよ。原理がいっさいない。こいつは何だ?と思うわけですけど、逆に原理に囚われたときのリスクを考えて適応してるわけですよね。それは冷酷なと言うか、非常にクールなリスク判断がないとできないわけです。

西塚 逆に庶民も含めて、そういう明確なリスク判断なり視点があったかというと怪しいかもしれませんが、皮膚感覚とか無意識のうちに、そういう行動ができるような人が多いってことですかね。

ヤス まあ、そうですね。そのようなことが基本的な原理となっている。だから我々がよく「時代」とか言いますね。時代って何かと言うと、何に適合すべきかというのを表わすための基準線。そういう言葉です。時代という言葉にはそういうことが込められてる。今はそういう時代じゃないから、とかね。

西塚 たとえば、僕はやはり人間はそんなに変わらないと思うので、日本人だけじゃないだろうと思うんですね。日本人がわりとそういうことを他の国と比べてできてきたということは、おそらくヤスさんがおっしゃるように、何かシステムがある気がします。アーキテクチャがある。日本人がアプリオリな形でフレキシビリティーを発揮させるような、それは遺伝子を持っているとかということではなくて、それでもいいんですよ、結果的にそうだったということでもいいんだけど、その前に、日本独特の何か構造なり、システムがあるのかもしれません。

ヤス そうですね。知の維持の仕方だと思うんです。日本でよく哲学がないと言われてますけども、抽象的な世界観をことごとく拒否してきた民族ですよね。どうも日本独自の抽象的な世界観ってなかなかない。たとえば朱子学、江戸の国学の時代ですけど、朱子学と儒教がどんどん入ってくる。特に朱子学は極めて原理主義的な世界観ですよ。世界とはこうあるものだと体系的に説明する。それに対して当時の国学者たちは、真っ向から否定するわけですね。

その結果、たとえばでき上がってくるのは、本居宣長的な直感主義ですよね。世界観なんかないと。物事の本質なんかないんだと。見てるままがそのままなんだと言うわけです。見てるものはみんな滅びていく。どんなものでも、やっぱりなくなっていく。自分が、滅びゆくものを見て楽しんでいく。というのが心なんだという形で、目に見えるものそのものの中にしか本質性はない、その裏側に理念なんかないと否定していくわけですね。全部。

言ってみれば、高みの論理から考えないというある知の態度。知の持ち方がひとつあったと思います。僕はそれは極めてユニークだと思う。なぜ我々はそのような知の持ち方、知の態度を選んだのか。これは極めて興味深い問題だと思うんです。

西塚 プリンシプルがあるように思われている極右的な作家に、三島由紀夫がいましたね。彼の最後の四部作は結局は最後はポツンと庭があるだけなんですよ。空虚で終わるわけですね、僕の読み方だと。何もなかったという終わり方じゃないですか。そこにも通じるような気がして。個人的にもそれは面白いテーマだと思いますね。スピリチュアリズムまでちょっといかなかったですね、今日も。

ヤス 今の日本というのは、プリンシプルがないこと、原理がないこと、田吾作であることが危機なのではないんですよ。田吾作じゃなくなってきてるってことなんですね。考えなくなってきたかと言うと、そういうわけじゃない。フレキシビリティーをなくしてきたんです。

西塚 逆にね。硬直してきた。

ヤス 硬直してきた。

西塚 それが一番危ない。

ヤス 一番危ない。

西塚 それは一部、安倍とか官僚であって…

ヤス 日本国民全体がフレキシビリティーをなくしてきたということですね。

西塚 ああ、じゃあ反旗を翻したデモにしても、あれもある種のプリンシプル…

ヤス あれはいいんです。あれは我々みんなが本当に考えるようになった。このままの流れに任せておいたらヤバいので、やっぱり変換させなくちゃならないというひとつのフレキシビリティーだと思いますよ。我々がフレキシビリティーをなくしてきたことは何かと言うと、世界認識です。

たとえばね、第二次世界大戦の戦時中、アメリカは鬼畜米兵、敵だったわけじゃないですか。その敵にやっぱり負けたと。それから次の主人はアメリカになった。アメリカになったという現実。ああ、これからの世界はアメリカねっていうことで、簡単にそこで折れて、全面的に受け入れて適合していくわけです。一気にこっちだッ!と言って適合していく。すごいフレキシビリティー。それで発展していく。

今は何かと言うと、実はアメリカじゃないね、なんですよ。世界はね。もう中国だね、なんです。もしかしたら韓国だね、中国だね、アジアだね、なんですよ。徹底的に日本はそれを拒否するわけです。かつての、いまだ30年前の硬直した世界観の中に、ワーッとしがみついてる日本人がいかに多いかということですね。それは怖いことだと思います。

西塚 ああ、そういう意味ですね。だからもっと我々は、アメリカに原発を2発も打ち込まれてやられちゃったにもかかわらず、フレキシビリティーを発揮して発展してきたあのときを取り戻すと言うか、むしろアジアに戦略的に迎合してですね、戦略敵にリーダーシップをとっていくべきだって話ですね。

ヤス そうそう。そうするべきです。中国のほうに主軸が移ってきて、明らかに世界経済、世界政治の中心点になりつつある。ロシアもそうだと。嫌韓とか嫌中とかね、くだらないことを言うのは、あれはフレキシビリティーをなくしたっていうことの証拠ですよ。

西塚 おっしゃるとおりですね。中国には洗国があります。洗う国ですね。だから逆にこっちが戦略的におもねって、いい気持ちにさせて、何だか知らないけど日本文化で、昔の満州みたいなもので、だんだんこっちから侵食して(笑)、むしろ乗っ取っちゃうと言うと言葉が悪いけども、染めちゃえばいいんですよ。日本文化で(笑)。

ヤス そうそう。そういうことをいくらでもできるわけですよ。そういうようなフレキシビリティーをなくしてしまったということ。ある意味でナショナリスティックな原理主義的硬直性でいく。これは今我々が滅びに向かっているという証しですね。

西塚 だとすれば、神道を中心としたある種の、まあカルトと僕は言いたいんだけども、言わないにしてもスピリチュアル系の集団なり、傾向というのはかなり危ないですね。

ヤス 危ない。

西塚 足を引っ張る方向ですね。次回そのへん突っ込んでいいですか?

ヤス いいですよ、突っ込んでください。

西塚 今日はもう時間もあれなんで、どうもありがとうございました。

ヤス いえいえ、こちらこそ、どうもどうも。

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