だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』vol.32 「“本分”へのこだわりを捨てる」

人気ブログ『ヤスの備忘録』でもおなじみ、
社会分析アナリストの高島康司氏をお招きして、

1 世界で今、起きていること
2 人間の新たなる「精神性」「意識」「思考」

について、飲みながら自由闊達に話すシリーズ。
基本的に毎週更新。

〇『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』第32回
「“本分”へのこだわりを捨てる」

ゲスト:高島康司氏
聞き手:西塚裕一(五目舎)
2016年2月6日 東京・中野にて収録

西塚 みなさん、こんにちは。『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』の32回になりました。またヤスさんにおいでいただきました。乾杯しましょう。カンパーイ!

ヤス カンパーイ! どうもどうも。

西塚 いつものことといいながら、すっかりでき上がりました。えーと、あれはどうなりましたっけ? 北朝鮮が燃料を注入したとアメリカが発表して。あれは何かぶち上げるんでしょうか、やっぱり。

ヤス まあ、おそらくやるでしょう。

西塚 どこに向いているかどうかは、まだわからないんですよね。

北朝鮮が要求するもの、アメリカ大統領選のゆくえ

ヤス 1998年ですかね、一回、テポドンの開発に成功したときに、やっぱり日本を通り越していきましたけれども。場合によっては、その可能性もあります。

西塚 まだヤスさんのメルマガをチェックしてないのですが、あれは何かをアピールしたいんですか?

ヤス 一般的な理解の範囲ではね、北朝鮮の金正恩の狙ってることは確かだろうと言われてます。金正恩が一番狙っているのは現在の北朝鮮体制の温存なんです。いわゆる金王朝の支配体制の温存なわけですよ。核保有国としてのアイデンティティーをちゃんと認知して、自分たちを金王朝の独立したひとつの正当性を持つ政権として、国際社会に認可して欲しいと。その上でアメリカと平和条約を結びたい。それが狙いですね。その要求をしてくる。

西塚 以前、アメリカが北朝鮮崩壊のスイッチをオンにしたんじゃないかというお話がありました。その絡みで言うとどうなりますか? ちょっと無駄な行為といいますか、ある種の断末魔、哀れな感じにも見えてきますが、あるいはもっと深い意味があって、もうすでにそれは想定内で、何かの大きな目的のひとつの行為なのか…

ヤス アメリカおよび中国がですね、じゃあ、わかりましたと。北朝鮮を正当な核保有国として国際社会の一員と認めて、それで平和条約を結びましょうと。そして金王朝の正当性を国際的なレベルで与えましょうという方向に動くかと言えば、まず間違いなく動かないですね。

じゃあ、どうするかというと、6カ国協議があるわけですよ。アメリカと韓国と日本、ロシア、中国と北朝鮮の6カ国協議があって、6カ国協議という枠組みの中に北朝鮮を押し込んで、北朝鮮にまず核を放棄させる。放棄させることによって、北朝鮮を国際的に安全な状態で管理したい。

北朝鮮がこれに対して納得するかというと、まったく納得しないわけです。そんなものは必要ない。まず、われわれを核保有国として認めて、金王朝に国際的な正当性を与えてくれと。そこらへんの齟齬が、北朝鮮とアメリカとの対立の原点にある。それはずっと続くと思います。

そうすると次のステップは、アメリカもある程度譲歩して、6カ国協議に応じるならばこういう援助を与えるとか、ある意味でニンジンをぶらさげて引っ張ってこようとする。それが今までのやり方ですから。ただ、最終的には6カ国協議はおそらく破綻すると思いますね。

破綻したあとに、北朝鮮を最終的にどうするのかといったひとつの判断が、僕はアメリカにはもうでき上がっているんじゃないかなと思います。

西塚 いわゆる崩壊なんでしょうけど、どういうふうに崩壊させるんでしょうか? これはSF、空想の世界でいいですけども。

ヤス まだ具体的にはよくわからないんだけど、それはおそらくクリントン政権のときになると思います。

西塚 やっぱり、次はクリントンになりますかね。

ヤス 僕はクリントンではないかと思う。

西塚 確かにですね…トランプになったらおもしろいと僕は思ってたんですけど。

ヤス 僕はサンダース、好きですけどね。

西塚 僕もサンダースは好きです。考え方が好きですね。国民皆保険も含めて社会保障を厚くするという。でも…ああ、そうそう、その話で言いますと、おもしろかったのは例のアイオワの州で拮抗してたじゃないですか。それでいくつか、5つだったかな、5つくらいの町ではコイントスになりましたよね。拮抗してほとんど引き分けということで。コイントスはいいんですが、すべてヒラリーが勝った。僕は何とも言えない気持ちに…

ヤス いや、だからあれはヤラセでしょう、絶対(笑)。

西塚 ヤラセですか!あれ!

ヤス わからないけど。おかしいよね。

西塚 ああ、ヤラセなんですか…

ヤス いや、わからないですよ。

西塚 僕は、ものすごい悪運というか強運だなあというふうに…そっちのほうにびっくりしたわけなんですけども。いわゆる、よく昔の映画にもあったように、表とか裏だけのコインで、というような…あれは何だったかな、『ボルサリーノ』という映画があって…

ヤス あったあった。

西塚 ありましたよね、アラン・ドロンとジャン・ポール・ベルモンドの。ふたりでいろいろノシていくんだけども、ケンカをしながら。最後は町を牛耳ることになるんですが、このままいくとオレたちは敵対することになる。友情も壊れるから、どちらかがこの町を去ろうと。わかったとコイントスをやるわけですね。

表裏で、負けたほうが去る。じゃあ、お前は何だと、表と言ったのかな、アラン・ドロンが。よしと言って、ベルモンドはチョッキのポケットを左右ためらう。両面が表と両面が裏のコインが入ってるんですね、それぞれのポケットに。絶対勝ちますよね。相手がいったのと逆のコインをトスすればいい。でも、自分がわざと負ける。まあ、そういう映画でしたが、要するにインチキなわけですけど、あれと同じような不正があった可能性があるということですね。

ヤス そうです。あらゆる可能性がありますね。全部勝つって、おかしいじゃないですか。

西塚 そうか(笑)、また僕もそこはナイーブすぎますね。すごい強運だと思ったんですよ。5回勝つってことは確かにないですね。

ヤス 5回ってないですよ、ちょっと確率的に。

西塚 何で僕はそういうことを考えないんですかねえ。

ヤス 何で考えないって(笑)、やっぱりそれは非常に素直ということで…

西塚 いや、素直というか、ヒラリーはすごい悪運の持ち主、強運なんだなあと…普通に考えればおかしいですね。何でおかしいと思わなかったんだろうな…

ヤス おかしい(笑)。だから、誰が見てたのかですよ、コイントスをね。証言者が何人いるかとか。実際、大きな会場でやってるからわかるんだけど。本当にそうだったのか。

西塚 記事にもすごい強運だと書いてあったんです。まあ、おかしいだろうってことが、選択肢としてあってもいいよな、確かに…

ヤス まず、考えていいですよね。おかしくないかもしれないんだけど、とりあえず全部疑えと。

西塚 いやいや、はからずも自分の情けなさというか、ナイーブさが露呈したようですが、まあ、いずれにしろ勝って、ヒラリーにとってはいい感じのスタートだった。今度はニューハンプシャーでしたっけ? わからないですが、けっこう番狂わせと言ったら変ですけど、僕みたいな素人が勝手にトランプが有利だと思ってたけど、実はテッド・クルーズに負けるとか、意外とルビオが伸びてきたとかですね、本来の実力者というんですか、やっぱりちょっと出てきましたね。最終的には、ヒラリー対ルビオなのか、サンダース対クルーズなのか、よくわからないですが、そのへんヤスさんは個人的にどう思われますか?

ヤス うーん、最終的に共和党は誰になるかわかりませんけど、たとえばテッド・クルーズはキリスト教原理主義者ですからね。

西塚 でも、ティーパーティー側から出ましたね。

ヤス ティーパーティーでも、キリスト教原理主義者にかなり近い。もう極端ですよ、あの人ね。ヘタしたらトランプよりも極端ですね。原理主義的ですよ。だから、いろんな州で予備選をやるんだけども、州によっては徹底的に票を落とすと思います。そんなに安定した票を勝ち得るような人ではないと思いますね。

西塚 意外とルビオのほうが出てきたりとか。

ヤス ルビオのほうがむしろ安定している。バランスいいから。

西塚 ヒスパニックでしたっけ? 彼は。

ヤス そうです。どちらかと言えば、共和党の保守本流に近い流れだと思いますね。

西塚 もうヒラリーは確実に近いんですか?

ヤス いや、そこまではまだ言えないけれども。バーニー・サンダースの支持層は若い人が中心なんですね。年収が比較的低く、若い人たちに圧倒的に人気があります。その人気たるやすさまじい。80%を超えますからね。

西塚 もうクリントンブランドに飽きちゃってる人たち、エスタブリッシュメントを否定する人たちは、みんなサンダースに流れていく。

ヤス だいたいサンダース。まあ、いいこと言ってるしね。

西塚 また実際に、彼は彼でそれを本気で思ってるんですね。

ヤス 本気です。筋金入りの民主社会主義者。

西塚 それこそイギリスのジェレミー・コービンに近いような左。

ヤス ジェレミー・コービンに近い。労働党の。

西塚 となると、イギリスとの親和性というのか、見ててもイギリスはわりと盛り上がってるじゃないですか、ジェレミー・コービンで。この間、僕の知人のイギリス在住の女性が日本に来たので、ちょっと聞いてみたんですよ。そうしたら、やっぱり私はコービンは好きだと言ってましたね。私は認めると。支持してるとまでは言わなかったけども、共感はすると。

ヤス 現代の格差社会の中で中産階層がどんどん没落して、本当にグローバル資本主義にひとつの国が乗っ取られつつある。そのような現状の中で沸き起こってくる社会的不満、これはやっぱりおかしいではないかと。多くの人たちが感じてる社会的な正義を一番代表しているのはコービンであるし、バーニー・サンダース的なものだと思います

西塚 そう思います。やっぱり筋金入りと考えていいんだな。

ヤス だってバーニー・サンダースは、民主党に参加したのは本当に最近ですよ。ついこの間ですよ。

西塚 無党派でした?

ヤス 無党派。今までのサンダースの支持層というのは、アメリカ社会党であるとか、民主社会主義者、アメリカのある意味で最左派の人たちですよ。

西塚 みたいですね。だから批判の仕方も、ヒラリーは企業から献金を受けてどうのこうのと、私はそれこそ草の根の支持者から27ドル寄付してもらって選挙に出てるんだ、みたいなこと言ってましたよね。だから本当にそういう人なんだなと。

ヤス だからあの人ね、上院議員でアメリカ史上初めてじゃないかな、無所属で、いわゆる最左派の上院議員をずっと続けてた。2007年から上院議員を続けてるんですが、一番長い上院議員ですよね、最左派では。

西塚 そういった意味でもコービンと似てますね。

ヤス そう。筋金入りですよ、あの人は。本当に。だから、今の社会的な世論の流れを捉えてね、自分の政治的な立場を決定したという人ではない。

西塚 それでですね、あえて今のこの段階ですけど、予言でも何でもなく、ヤスさんの見立てとしてはどうなると思います? 大統領選は。どんな感じになるのか。わからないのはもちろんですが…

ヤス 僕は、意外にトランプは強いだろうなと思いますね。ほかの州を開けてみないとわからないんですけどね。やっぱりアメリカの保守層の中の抑圧された、それこそ没落した中産階層ですよね。没落した中産階層の不満を誰が一番代弁するのかということが、やはり今回の選挙の大きな焦点になってくると思うんです。

西塚 そうなると、そういったアメリカの民衆たちの生の声といいますか、一番反映しているのは本当にサンダース、トランプになりますよね。

ヤス まあ、そうですね。ただ、やっぱりそう簡単に没落した中産階層の不満のはけ口が大きな流れになるのかというと、そうではない。最終的にはですね、選挙キャンペーンの上手さというのがすごく大きく影響するので。選挙キャンペーンの上手さ、最終的に決定権を握るのは資金の多さですね。

西塚 やっぱりそうなるのか(笑)

ヤス そういうふうにいけば、やはりウォールストリートをバックにつけたクリントンが、一番大きな勢力になるのではないかという感じがします。

西塚 僕みたいな素人が野次馬的に言うと、サンダースとトランプっていうのはおもしろいなと思いますけどね。

ヤス いや、おもしろいですよ。両方とも没落した中産階層の欲求不満のはけ口になってるような候補ですよ。

西塚 本来の意味でのリーダー選びに近いんじゃないかなという(笑)。

ヤス 近い。ただトランプは、アメリカのもともと保守層だった人たち、中産階層で没落したような人たち。それに対してサンダースの支持者というのは、アメリカの民主党よりのリベラル派で、中産階層であって没落したような人たち(笑)。その人たちのはけ口を両方とも代弁してるのがおもしろいですね。

安倍政権が目指しているもの

西塚 どちらにせよ、やっぱり没落した人たちをですね、すくい上げてほしいなと思います。すくうというのは、レスキューではなく、民意を吸い上げるという意味ですが。そういう戦いと言うのかな、それが本来であるべきだと思うんですけど。それに引き換え、今の安倍というのは、今回の国会での9条の、稲田朋美とのやりとりも何か出来レースっぽいんですけどね。わざと稲田朋美がああいう質問をして…

ヤス まあ、出来レースでしょう、あれ。

西塚 どう考えてもそうですね。だからと言って、日本と比べちゃいけないのかもしれないけども。日本は日本であるかもしれませんが、僕は最近、顔を見るのもイヤなんですよ、安倍の。おかしいですよ、顔つきが。昔から“溶けた蝋人形”とか言われてましたけど、何だかイヤなものを感じます。

ヤス 僕もものすごくイヤな感じがしますよ。

西塚 何なんだろうなあと思いますね。

ヤス 前回も話しましたが、この間日本会議の総会があって、そこで安倍こそがわれわれの神が選んだリーダーなんだと。

西塚 もう、そういう言葉も出てるんですか?

ヤス 出てる。もう安倍しかいないんだと。まさに安倍に結集してますけどね。安部の背後にいる勢力は何かと言えば、カルトですよ。絶対主義的なカルトですね。これは戦前型のカルトです。

西塚 別に差別するつもりはないですが、お父さんの安倍晋太郎さんが、オレには半島の血が流れてると発言したという記事も以前ありましたね。やはり血が入ってるんですかね?

ヤス その可能性はありますね。

西塚 統一教会との関連も取りざたされたこともあります。

ヤス それは僕も聞いてる。

西塚 噂のレベルで言えばもっとありますが、何なんだろうなと思いますね。僕は以前も同じことを言いましたけど、安倍さんの本心というか、何を考えてるのか本当にわからない。何がしたいのかもよくわからない。

ヤス おそらくね、二重底なんだと思います。安倍が推進する方向は天皇制国家の再興ですよ、簡単に言うとね。しかしながら、憲法を改正して戦前の全体主義的な天皇制国家の再興を行なう。あついは、それに近いものまでに持ってくると。それでシャンシャンと話が終わるかというと、そうじゃない。それをひとつのステップとして、その向こう側に別の目標があると思いますよ。

西塚 何ですか、それは?

ヤス よくわからない。はっきりは言えない。

西塚 何かをお感じになってるってことですか?

ヤス 僕は感じますけどね。

西塚 まだここでは言えないって感じですか?

ヤス ここじゃ言えないというか、まだはっきりと実証できてないので。今のところは何も言えないという。

西塚 それは日本に関係していることですね。

ヤス 日本に関係することだと思いますよ。

西塚 天皇制とか。

ヤス そこまでいくかどうかわからないけど、言ってみれば日本の最終的な崩壊のようなことです

西塚 ああ、やっぱり…崩壊させてどうするんでしょうかね。仮にそうだとしても。SFっぽく、フィクション、小説の世界だとしても、どういうシナリオがあるのか。僕はちょっと想像ができない。

ヤス 二重底になっているその向こう側が見えないんですね。

西塚 ちまたでよく言われる陰謀論めいたもの、ワンワールドとか、そっちにつながる話になるのかなあ…

ヤス ワンワールドであれば、戦前型の天皇制国家の再興そのものが、ある意味でワンワールドに近いと思いますよ。国民の主権を徹底的に剥奪して、全体主義的な国家の中に埋め込むわけですから。その全体主義的な国家というのは、限りなく社会主義的な国家になると思います。

西塚 話が変わって申しわけないですけど、この間請け負った原稿が放送禁止用語の関係だったんです。最近、またちょっと物議をかもしてまして。何かと言うと、“頑張れ”という言葉が放送禁止になるらしいんですよ(笑)。

ヤス え、本当に? 何で?

西塚 明確な規定ではないですが、どうも使えなくなってきたと。たとえば会社の中で「頑張れ!」と言うと、人権派の弁護士とかが騒ぐらしいですが、過労死につながると。もう帰りたいのに、上司に「頑張れ」と言われたら、やらなきゃいけないじゃないですか。それは過労死につながるからダメだと。ましてや優勝のために選手たちに「頑張れ! お前ら!」と言うと、それはそれでまたプレッシャーになってストレスになるから、言っちゃダメだと。

だから、“頑張れ”という言葉が使えなくなるかもしれないという、まあそういう原稿だったんですけどね。昔からありますよ、“メクラ”とか“ビッコ”とか、いわゆる差別的な表現というのはありました。でも、そういうことではない。僕は知らなかったんですが、たとえば歌でいうとジョン・レノンの「イマジン」が放送禁止なんですね。あれはわかりやすくて、「天国なんかない」という歌詞があるので、それは違うだろうと。宗教を持ってて、天国を信じてる人がいるんだから、天国なんかないと言ってはいけないってことなんですが、それに対する当時のジョン・レノンのコメントとして、いや信仰の自由があるんだから、天国がないという信仰があってもいいんだという反論だったんです。

でも結局、公けの電波には乗らないんですね。小さいところには乗りますけど、いわゆるマスコミの中では放送禁止歌に入ってるわけですよ。そうした歴史とかを調べると、世の中の鏡として、何がタブーになっているのかがわかるじゃないですか。だから余談でしたが、“頑張れ”がですね、言ってはいけないという話になっていると、ちょっと驚いたわけです。

僕も自分のブログにも書いたし、ヤスさんとも話しましたけど、ベッキー問題もたかが不倫じゃないですか。不倫なんていくらでもある話なのに、スポンサーも絡んで、みんな仲間同士でも喋れなくなってるという。ああいう雰囲気ですね。テレビを見てても、ああ世の中を照らし出してるなあと。現世(うつしよ)って言いますけどね、イヤなものというか、お笑いの世界までが何か窮屈なことになっている。

僕はあまりテレビは見ませんけど、見るとわかりますよ。みんな何を考えているのか、何となく。やっぱりこういう感じなんだと。言いたいことは言わないし、KYなことは言わないでおこうというのが、やっぱりあるんだなあと思います。

ヤス まあ、仕事をなくしますからね。

西塚 そうそう。余計なことでした。何の話でしたっけ?

ヤス ベッキーの話?(笑)

ヒエラルキーはコミュニティーの否定

西塚 (笑)安倍でしたけどね。安倍も、甘利大臣の件でまともな質問を受けたとしても、本当に笑ってすますというか、政治献金自体の問題まで踏み込まなければいけないのに、それはある種大前提として、当たり前にあるものとして話す。要するに、本来の法律とか規約があることを全部すっ飛ばして、慣例を大前提として、政治家たちも公けのNHKの国会中継の場でも発言しはじめてるというのは、どれだけ交渉力とか、脇が甘いことも含めて、もう言論の場が劣化してるとしか思えないんですね。

ヤス そう。だから民主主義者ではないわけです。彼らというのは。民主的なプロセスに則って、いわゆる政治的な意志決定を行なうということを否定した人たちの集まりですよ。

西塚 なるほど。

ヤス 自分たちが正しいと思っているものは、全員受け入れなくちゃいけないという。そういうかなり不合理な思い込みですね。極めて強い不合理な思い込みです。正しいものは正しいんだと。そんなものは説明する必要はない。正しい価値は正しい価値としてあるんだと。それはオレが正しいと思ってるんだから、お前らが全部鵜呑みにして受け入れるのは当然なんだ、といったような感じの感覚です。これは。

西塚 以前、コミュニティーとか共同体の問題でヤスさんともお話させていただいたと思いますが、これからは、いわゆる3.11以降ですね、地域分散型の相互扶助的な地域のコミュニティーが中心になっていくんじゃないかと。僕の考えで言えば、ある種の社会の中の良識の部分は、そっちのほうへマインドシフトしていくのではないかというお話をしたと思います。

でも、そうは言いながら、共同体やコミュニティーと言ったとき、顔が見える範囲の自治ということでやっていくと、やはり排外主義になっていくのではないかとも話しました。今まさしく、お笑いの世界でも、政治の世界でも、いわゆる渦の中心がいて、自民党で言えば安倍ですね、その周りにいろいろ人が集まって、確かにコミュニティーを作るわけです。絶対化するリーダーがいて、その人に賛同する人たちがいて、お笑いではさんまでも何でもいいですが、賛同する人たち、取り巻きがいる。

そういう単位がたくさんできれば僕はいいと思うし、そっちの方向しかないと思うんだけれども、それが何というか、日本のキャスティングボードを握ってるかもしれないような政治家であった場合、自民党の55年体制のときはまだそういう渦がたくさんあったから、その中での切磋琢磨があり、どこかが突出すれば支持をなくして、また別のものが出てくるという健全なダイナミズムが働いてたから、まだいいんだけども、今のような形になっちゃったら、これはもう本当に極端なヒエラルキー、超階級社会に向かうしかないじゃないですか。

ヤス だからですね、それはコミュニティーじゃないんですよ。ヒエラルキーであって、コミュニティーではない。コミュニティーとはコミューンですから、フラットなんですよ、もともと。

西塚 なるほど。そのへんをちょっと解説していただけますか。

ヤス 本来のコミュニティーというのはコミューンからきてますからね。コミューンは何かというと、リーダーのいないフラットな社会のことです。フラットな社会というのは、すべての人間が参加でき、意思決定者になり得るということですね。直接民主制みたいなものです。参加者全員がお互いに意思決定に参与していく。その意思決定の中ですべて決められていく社会というか、状態ですね。それを本来コミュニティーというわけで、コミュニティーの中には初めからヒエラルキーも何もない。

西塚 フラットなんですね。

ヤス だから今言ったような排外主義的なヒエラルキーができるとしたならば、初めからコミュニティーじゃないですよね。それは権力構造だということです。

西塚 なるほど、そうか。それで僕が自分で思っていた疑問点が、今のヤスさんの言葉で明確になってきました。僕が理解してなかったんですけど、僕が以前にコミュニティーができたときに排外主義になるんじゃないかと思っていたのは、勝手にそういうヒエラルキーができるんじゃないかってことだったんですね。でも、それは僕の中にあるのかもしれないし、勝手に思ってただけで、本来はないものなのかもしれません。

それでも、顔が見える、自分と同じような考えで集まってる人たちが集まったときに、どうしてもそうじゃない人たちを排除するということになるのではないかと、僕はそう思ってたわけですね。その中で、でも、あいつらも入れようよと言ったときに、みんなで決めればいいんだけど、いや、でもちょっと違うよと。そのコミュニティー内でもやがては対立ができる。それで声がでかいヤツ、力が強いヤツがノシていって、やっぱりヒエラルキーができ上がるんじゃないかという感じだったんです。

ヤス そこでヒエラルキーができたら、そこでコミュニティーが解体されるってことです。それはコミュニティーではない。ただ、やっぱりコミュニティーはいつでもヒエラルキーに転化する危険性はあるわけです。

西塚 ということですね…

ヤス それはコミュニティーの自己否定になりますから。

西塚 そうですね。いわゆる民主主義のチェック機構が必要で、そうなる可能性があるということを全員が認識した上で、そうならないように運営していくにはどうしたらいいかということ。それは大前提としてみんなが持っていなくてはいけない。

ヤス 大前提として持ってなくちゃいけない。そうすると何が重要かというと、徹底した説明力です。英語でアカウンタビリティーって言うんです。徹底的な説明力ですね。こと細かに全部説明していくってことです。説明することによって、お互いに合意を得る力。説明と合意を得る力。その合意によって物ごとを進めていくということです

西塚 アカウンタビリティーを徹底させるというか、健全に働かせるには、やっぱり透明性ですね。

ヤス 透明性です。そう。

西塚 隠しごとがないということ。

ヤス そうです。それが本来の民主主義のモデルなんだってことですね。たとえば国会だったら、議会がそうなんですよ。

西塚 そのはずですね。

ヤス 本来、徹底したアカウンタビリティーが要求されて然るべきなんです。その機能を持っているのが野党です。徹底的にアカウンタビリティーを要求するということですね。たとえば、別にイギリスという国を賞賛するわけではないけど、イギリスの議会が典型的ですよ。まあ、激しいですね。野党の批判の激しさは日本どころじゃない。ただ、あの批判があって、初めてアカウンタビリティーができ上がるということです。別に尊敬してるわけではないんだけども、現在のイギリスの首相、保守党のキャメロンっているじゃないですか。やっぱりすばらしいアカウンタビリティーですよ。

西塚 へえ、そうですか?

ヤス 説明力の名手ですよ。だいたい欧米のリーダーたちは、極めつけに説明力がうまいヤツが出てくるから。たとえばこの間ですね、2017年のEU離脱の選挙を2016年に前倒ししようではないかという話があって、一応キャメロンはEUに留まるべきだという考え方なんですね。EUに留まるために、EUのほうには移民の問題や何かで、相当妥協してもらいたいと。

たとえば4年間は、移民に対する公的な援助を止めるとかね、そういう特例を設けてほしいとEUに要求する。そういうときにですね、やっぱり記者の質問は怖いぐらいに鋭いですよ。キャメロンさん、あなたはね、たとえば今EUと交渉をやったと喧伝してますけども、EUから離脱したほうがいいという別の議員の人たちに、もっと発言権を持たせるべきではないのかと言うんですね。EUに留まるべきだというあなたの意見を前面に押し出してね、それで自己宣伝をやってるだけじゃないですかと。もっと反対議員に発言権を与えたほうがいいと思わないのかってことを言うわけですよ。

そうすると、キャメロンというのは実にていねいにそれに対して答えますね。どう答えるかというと、いやいや、私はそういうわけではないと。私が今やっているのは、EUに対して妥協を求めてるんだと。EUが私の妥協案を受け入れた段階で、いわゆる反対派の議員とイーブンになる。イーブンになるから、そうなったら反対派の議員にも十分にチャンスを与えるし、反対派の議員もそれでもなおかつEUから抜け出たほうがいいと言うなら、どんどん私に挑戦してくれと言うわけですね。そこで正しい議論ができ上がるみたいなことを言う。

それは非常に高度なアカウンタビリティーです。何を聞いても、とにかくすぐ返ってくるということですね。

西塚 安倍みたいにキレたり、冷笑したりじゃないんですね。

ヤス あり得ないですよ、そんなこと。だから安部は、初めから私はアカウンタビリティーがまったくないってことを証明してます。ヒエラルキーの中に閉じこもるわけですね。そして自分が正しいと思ってる秩序をどんどん、ただただ押しつけてくる。それはメンタリティーとしては、たとえばイタリアのファシスト党であるとか、戦前のナチスであるとか、ある意味で全体主義的なファシズムのメンタリティーにかなり近いです。スペインのフランコ政権であるとかね。

たとえば、それこそ頭がパーだと言われてるブッシュがいますでしょ? ブッシュの子どもね、イラク侵略戦争をやった。彼のほうがまだマシだったですね。アカウンタビリティーを持ってると思いますね。

西塚 最悪ですね(笑)。

ヤス 最悪ですよ。そのアカウンタビリティーがないということを攻撃しない野党って何者なんだ。まあ、攻撃してるのは共産党ぐらいですね。

西塚 今、共産党の志位(和夫)さんはけっこう調子いいみたいですね。

ヤス 調子いいですよ。支持する政党がないので、もう共産党にいくしかないって感じです。メディアが死んだというのは一番でかいですね。本当に死んだ。

西塚 今回の軽減税率にしても、新聞の宅配が入ったという。要するに権力にベッタリってことですね。癒着。

ヤス まあ、メディアも一応企業だったってことですよ。企業としての生き残りを最優先した。資本の合理性には勝てなかったというだけの話じゃないかと思います。だから、初めからメディアなんか信用できないんですよね。

西塚 それに加えて、アメリカのようなオルタナティブメディアは日本には少ないということだから、余計おかしなことになりますね。せいぜい2chとか、各自のブログで、何だかんだと雄叫びを上げてるだけで、何の力も持たない。自分でもそう思いますけどね。

ヤス これからですね、どんどん日本でもオルタナティブメディアが、最終的にはできてくるだろうなと僕は思いますけどね。そういう流れの中に入ってる。たとえば、岩上安身さんの『IWJ』とか、やっぱりいいものはたくさんあることは間違いないと思うんですけど、欧米ほどの力を持っていない。

西塚 何で持てないんでしょうか?

ヤス 基本的に、日本人の持ってる世界観そのものが根本的に僕は間違ってると思います。社会変化に対して、ひとつの文化全体が適応不全を起こすということはあるんですよ。極端な言い方ですけど、そういうことはあります。われわれの日本文化が持ってるある一部分が、今の社会変化に対して非常に大きな適応不全を起こしてるってことだと思いますね。

今、われわれに要求されているのは、国民ひとりひとりというか、民衆ひとりひとりが第一に個に戻るということ。個に戻った民衆ひとりひとりが新しく社会を自分たちの手で作り上げていく。そのモメンタムをどうやって引き起こしていくかということだと思うんですよ。そういう流れの中ではね、初めからこういう権威に頼っていれば大丈夫だとか、おカミに依存していけば大丈夫であるとか、そういった依存心をまず取っ払わなければならないわけです。

「本分」に専念するとはどういうことなのか?

西塚 引用ばかりで申しわけないですが、宮台(真司)さんがいいこと言うなと思ったんですけど、日本人はそういう社会システム、政治の動きにしろ何にしろ、自然現象として捉えると言うんですね。それは、要するに雷がきたなとか、寒くなってきたなとか、そういう自然現象としていろいろなもの、政治の世界までも捉えてしまうというような表現をしてたんです。

僕はそれは言い得て妙だなと思いました。そうなるともう、しょうがないことであり、神頼みしかなくなってくるじゃないですか。こうなりますように、とお願いするという。ヤスさんはずいぶん前から、人間が作ったものは人間が作り変えられるものであるわけだから、間違ってるならやるべきだと。

日本人の、いいふうに働けばいいマインドだったりもするけども、往々にして神頼み、おカミまかせみたいなもの。ひょっとしたら祈ってればよくなるとか、それを敷衍させていけばほとんどスピリチュアリズムまでいくと思うんです。ポジティブに思っていれば現実はよくなるとか、そういうスピリチュアル文化、スピリチュアル市場も含めて、日本人のマインドになっていると思います。

でも、スピ系文化というのは当然アメリカにもあって、日本の比じゃないくらいのマーケットがあるわけですね。だとすれば、話がずれるようですが、同じスピ系でも日本人とアメリカ人の典型的な違いとは何か。ヤスさんから見ていかがですか?

ヤス 根本的な違いはやっぱりありますね。

西塚 それはどんなところでしょうか?

ヤス ちょっと話をもとに戻して、そこから説き起こしたいんですけども。われわれの文化のある一部で適応不全を起こしてるものは何かというとね、18世紀の前半にでき上がった文化だと思うんですね。石田梅岩の石門心学であるとか。

現在の日本人の基本的なメンタリティーとして、何ができ上がってきたのかというと、遡ると18世紀の前半に出てきたような、いわゆる二宮尊徳的なイデオロギーだと思うんですね。もし人間が幸福になりたければ、まずひとりひとりが自分に与えられた役割に専念しろと。自分に与えられた役割と仕事を100%まっとうできるように、あらゆる努力を尽くせと。

そうすれば、おのずから幸福になるし、世の中全体も実はうまくいく。世の中を構成しているひとりひとりが自らの本分、役割に専念した場合、世の中というのはちゃんと循環して、うまい方向にいくのだと。もし、うまい方向にいってないとしたら、それは誰かが自分の本分に専念してないからだ。うまいことをやろうとして。

実はこういう哲学が出てきた大もとにあるものは、石田梅岩という哲学者がいて、その人が作った石門心学なわけです。二宮尊徳の哲学とほぼ同じ。これが出てきた背景なんですが、富士山の大爆発があったんですね。

西塚 宝永の大噴火ですね。

ヤス 宝永の噴火ですね。1707年の。あの噴火の影響はすごく大きくてですね、17世紀ぐらいまでは比較的、江戸初期の農業生産量はどんどん上がってきたんですけど、富士山の噴火による火山灰の影響で一気に農業生産量が落ちる。食えなくなる村がたくさん出てくるわけです、本当に。どうやって困難を乗り越えようかというときに、村々に広まった哲学が石田梅岩的な哲学、二宮尊徳的なものだった。

西塚 二宮尊徳というと、僕はすぐ親孝行みたいなことを思い浮かべますが…

ヤス そうなんです。いわゆる通俗道徳ですね。通俗的な道徳の根幹にあるのは何かというと、まずは自分に与えられた本分にとにかく専念しろと。それから先祖を大事にしろ、親を大事にしろ、まあそういうことです。だから、自分に与えられた本分を100%まっとうするということが、中核のひとつとしてある哲学だと思います。

そうすることによって、とにかくムダを削る。徹底的にムダを削って、刻苦勉励しながら困難を乗り越えようとする。それで乗り越えに成功した村がたくさん出てくるわけです。そしてそれがひとつの成功モデルとして幕府によって喧伝される。

ここから出てくるメンタリティーは自己責任論なんですね。そこで不幸な人間がいたとしたら、そいつが十分な努力をしてないってことになるわけですよ。

西塚 怠けてるだろうと。

ヤス 怠けてる。同じような宗教で富士講というのが出てくるんです。

西塚 ああ、富士講。あれも宗教になりますか?

ヤス あれは宗教ですね。ひとりひとりが本分に専念して本人がやれることをやっていくならば、ひとりひとりが幸福になると同時に、すべての人間がそれに専念すると弥勒の世がくると言ったわけです。弥勒の世信仰というのがあって、信仰化していくわけです。どうもそれが日本人のいわゆる職業倫理を作ると同時に、日本人のコアのメンタリティーの一部になるわけですね。自己責任感です。徹底したね。

そうすると、不幸な人間がいたならば、それはそいつの責任だろうと。自分で十分な努力をしてなかった。世の中がうまく回ってないのは、それは為政者がうまく回していないんだと、彼らの責任になるわけです。だから徹底的に指導者を責めるわけですよ。

だからといって、自分たちが意思決定者として社会を構成する側に回るのか。いわゆる社会の構成主体として自分自身を認識するというところへは至らないんですね。あくまで、政治的な変動というのは雲の上の出来事である。われわれが本来やるべきことは自己の本分に専念することであって、政治にコミットすることは本分を超えたことになるわけです。

西塚 そうなると、前半まではよく聞こえるんですけど、自己責任論、自己決定論であって、自分で自分の人生をクリエイトしていくという話に近いと思うんです。でも為政者になると、お前がいけないんだろ、お前がちゃんとしてないから、こんなひどい社会になってるという、要するに文句は言うけんだけど、ではオレが政治家になってやるというふうにはならないってことですね。

ヤス ならない。まあ、政治家になってやるってヤツは出てくるんだけども、ただ基本的に、やっぱり自分の本分を超えた世界というのは自然現象なんですよ。ひとりひとりの人間に与えられた生きる意味とは何かというと、本分をまっとうすることである。それ以外にはない。その本分を超えたところにあるものに対して自分自身をコミットさせるというのは、それは常軌を逸した行為なんだという感じですね。

西塚 そうなると、こういう話もあるじゃないですか、為政者が豊臣秀吉から徳川家康に替わっても、村人は何も知らなくて、あとからいろいろな状況が出てきてわかるんであって、それまではまったく関係なく村で住んでるわけで、天皇陛下、帝が替わっても知らないぐらいなものだという話がありますね。

ということは、もともと日本というのはある種のコミュニティーを営んでいたのであって、もちろん村の庄屋さんとか村長さん、村の長(おさ)、リーダーはいただろうけど、大きなところにはやはりコミットしてこなかった。小さな地域共同体の中で生きてきたということでしょうか?

ヤス すべての日本の歴史じゃなくて、やっぱり僕は18世紀の前半というのは大きな転換点だったと思いますよ。それ以前ないしは戦国期なんかを見ると、たとえば織田信長の時代は、それこそ宗教共同体みたいのがたくさん生き残ってるわけですね。ひとつの国家内国家です。本当に御しがたい国家内国家として、まったく違った世界観とか秩序を持つような、ひとつのコミュニティーというかね…

西塚 一向宗のような。

ヤス そう。たくさん存在しているわけで、日本というのははるかに多様的な社会だったんじゃないかと思いますよ。だからコミュニティーで本分に専念して、ほかのことにちょっかいを出すと痛い目に遇うぞといったようなことは、僕は江戸期の中盤以降から出てきたんじゃないかなと思いますけどね。

西塚 今のお話しで言うと、いわゆる現代までくるとあまりにも政治に無関心であったり、上がおかしなことやってると文句は言うんだけども、だから選挙でひっくり返ったりすることも今まではあったんだけども、基本的にそれは江戸時代中盤、18世紀のときから形作られてきた、本分をまっとうすれば幸せになるんだというわれわれのメンタリティーである、ということですか?

僕なんかが聞くと、まだその初期のほうが自己決定論が働いていて、今はサラリーマンだとか個人商店もありますけども、どちらかというとそのときに比べれば、むしろいろんなものに依存してるような、自己の本分をまっとうするというよりは、要するに長いものに巻かれろ的な、むしろ自主性がないようにも感じるんですけども…

ヤス いやいや、だから昔も今もその部分は変わってないと思いますよ。両方とも長いものに巻かれるでしょ。

西塚 本分をまっとうするということは長いものに巻かれるという…

ヤス 本分をまっとうするということは、本分と関係ないものには手を出すなってことですからね。

西塚 でも、長いものに巻かれるということではないですよね。

ヤス 本分とは軌道が逸れるようなもの。たとえば、自分に職業があったと。何か、靴屋でも何でも、職人であったと。それは自分の本分なわけです。

西塚 なるほど。社会システムが変わって、たとえば今の会社員は、昔の武家社会で言えば、どこかの何万石かの殿様に仕える家来であるということですね。それと、魚屋さんなら魚屋さんとか、同じ本分なんだけれども、自分の手作業なり何なりで自己決定していって自分で飯を食っていくという。それと何かに仕えているというものの本分はちょっと違いますね。というだけの話ですか?

ヤス いやいや、そうじゃない。だからどっちも本分です。何かに仕えるってことがひとつの本分ですよ。ただ、ずっと仕えて、それを超えて、何か大きなものにコミットしていく。その自分の本分を超えたものにコミットしていくためのジャンピングボードというか、何を動機として自分の本分を超えたものにコミットしていくかという、自分なりの倫理観とか自分なりの正義感でしょう。

西塚 となると、その本分というもの自体が怪しくなってきますよね。言い方を変えれば、お前は魚屋の息子に生まれたんだから、魚屋をやってればいいんだっていうことですよね。

ヤス そうです。

西塚 ああ、なるほど、それならわかります。

ヤス そうするとその魚屋の息子がね、いわゆる魚屋以外の政治活動に参加したと。参加すると、やっぱり親から言われる。お前は何ということをやってるんだと。

西塚 なるほど、そういうことか。

ヤス それはどんなふうに見られてるかというと、その魚屋の息子が魚屋ではなく、政治活動にコミットする。コミットせざるを得ない動機の原点にあったものが、やっぱりその個人としてのそれなりの正義感ないしは倫理観だと思うんですよ。しかしながら、すべて人間が本分に徹するべきだという価値観から見るとね、それはわがままだだと見えるわけですね。

西塚 そういうことになりますね。ヤスさんはじゃあ、本分というものを否定的に見ているわけですね。

ヤス 否定的に見てる。とことん否定的に見てる。

「自己決定」は「本分」に優先する!

西塚 そういうことですね。おそらく“本分”という言葉は、わりといい意味で捉えられてるんじゃないかと思います。要するに、自分に与えられた本分というものがあるなら、それをまっとうすべきなんだと。自分でいろいろ思うところはあるかもしれないけど、ある種“義務”に近い言葉といいますか。

それにやっぱり忠実であるべきだという。それに従っていればみんなうまくいくということだとすれば、とんでもない話だと思います。そんなことは自分で決めればいいだけの話です。僕が言う本分という言葉は、たとえばオレはこれが一番好きなんだ、これをやってることが一番自分に合っているんだという意味なんですが、そうではない意味ですね、今のはね。

ヤス そうですね。そうではない。自分が目指すべき本分というのは、自己決定できればいいわけですよ。ほとんどの場合はそうじゃないわけです。家から与えられたり、自分が所属している組織の中で与えられたり、これがお前の本分であると。

西塚 それが今でも大半は変わってないという。

ヤス 変わってない。その本分を超えたものにコミットしようとした場合、とことん否定的に見られるという感じですね。

西塚 安倍さんは、自分の本分は何だと思ってるんですかね(笑)。

ヤス 彼はあれじゃないですか、お爺さんの遺言を守って、限りなく戦前に近い天皇制国家をもう一回樹立することだと。憲法を改正してね。私はそれを実現するために生まれた。

西塚 それが私の本分だと(笑)。

ヤス 何でそれがお前の本分なんだ、それが何で正しいかと聞かれると、キレるわけです。

西塚 どこでぶっ潰せばいいんでしょうね。参院選ですね、まずは。何が何でも自民党を大勝させちゃいけない。まして衆院選も持ってくるなら、もうことごとく落としていくしかないんだけれども。みんな共産党に入れるとか、極端な話。

ヤス そう。今の共産党のほうが、まだ安倍より怖くないですよ(笑)。話を戻すと、本分に専念しないものをとことん否定的に見る。本分を超えた個人的な動機に基づくような、何かのコミットメントをすべて否定的に見るという文化の中にわれわれは生きてるわけです。そうした文化といったものは、21世紀に入ってね、この2010年代にもなってね、もう社会環境の変化に適応できなくなってるんです。そもそも18世紀の前半にでき上がったものなんですから、そろそろ捨てていいんですよ

西塚 もう時間がなくなってきましたが、最後の僕の質問で、今の流れで結びつけていただけると思うんですが、アメリカのスピリチュアリズムと日本の、いわゆるスピ系ですね、同じものなんだけど根本的に違うとさきほどのお話にありました。そこを説明していただければと思います。日本人が形作っているスピ系文化、あるいはそのマーケットと、アメリカはもっとでかいんでしょうけども、決定的に、根本的に違う部分ですね。

ヤス 似てる部分は当然、あることはあるんです。ただ、アメリカは個の体験というのが根本にありますね。個人が自分自身をどう個人として体験するのかというところが根本にあって、たとえばあるスピ系的なルートを通じた場合、自己存在といったものを違ったやり方で体験することが可能になるという点に、ひとつのポイントがあるのではないかと思います。それに対して日本のスピ系文化の場合は、自分を預けられる何ものかを絶えず探すということですね。依存の対象にするということです

西塚 違う意味で、よく“委ねればいい”と言いますね。まあ、いい意味でもあるんですけども、要するに自分の“我”ではなく、委ねる。でも、それとは違ういわゆる依存といいますか、思考停止という生き方にもなる。同じ“委ねる”でも違いますね。だから言葉は難しいですが、先ほども僕がちょっと勘違いして、“本分”といっても、僕は僕の“本分”というものを考えたんだけど、ヤスさんがおっしゃったような意味とは違った。難しいですね。

やはりアメリカ人は少なくとも自己決定が最初にあってですね、そこで好奇心なり何なり、自分で探っていく。もちろん突出したカルトな危ない部分もあるでしょう。アメリカはアメリカで、また日本とは違った極端なものがあると思います。でも基本的には個人で決定していく。でも、それも違うかな…生まれたときから福音派で、ということもありますからね。

ヤス ありますよ。ただ、別にアメリカは好きではないというか、大嫌いな国ですけどね、僕はね。しかし中に実際に入っていくと、実に多様的です。ある意味、本分がどうのこうのという、天から与えられた本分なんて誰も信じていないし、すべて自分が選んで自分で決定する。名前を持った個人というのが、まず全面的にあります。

今、思い出しましたけど、僕は1980年代の初めに大学間派遣でアメリカに留学してたことがあって、そのときはシカゴだったんですね。シカゴの黒人居住区みたいなところをブラブラしてたんですよ。そうしたらよく昼下がりにね、家のポーチのベンチに腰かけて、通りがかった珍しい人に声をかけるような爺さんがけっこういるんですね。黒人でね、やあ!とか言ってね(笑)。

で、そんなような爺さんがいたんですよ。やあ、お前とか言って、お前、大学生だろって言うから、ああ、そうです、大学生ですと言うと、そうかと。お前は将来の自分のキャリアをよく考えるだろうなと。ええ、考えますよって言ったのね。そうか、お前、じゃあちょっとな、今日はお前に会ったから、いいことを教えてやると。お前な、職業なんてものはな、毎日着てるジャケットと同じようなものだと。どういうことですかと聞いたら、ジャケットってな、着ててボロボロになったら、脱ぎ捨てて新しいジャケット着るだろう。そうやってお前、職業ってのはジャケットのように脱ぎ捨てて、新しいものを着ていくんだよと。一体化しちゃダメだぞと言う。

それと同じで、個人というのがまず最初にあるわけですよ。

西塚 自分がどう生きるかを自分が選択するのであって、そのつど選択すればいいということですね。

ヤス そうです。

西塚 本分とか、オレはこうあるべきだとか、これを一生守り抜くんだとかの前に。

ヤス そうです。すべて思い込みですよ。自分の本分であるとか、これをやるために生まれてきたとかね。自分にはこういうような意味があるとか。自分の職業といったものに対して、極端に一体化しすぎですね。

西塚 日本人の場合は特にありますね。オレは魚屋だとか、大工だとか、あるいはオレは日商岩井だ、オレは三井だとか。

ヤス 言ってみれば、組織に対する超強烈な依存。職業に対する強烈な依存。組織に対する強烈な依存。職業的に要求される人格と本来の自己といったものが全部一体化する。職業といった、何と言うか、米粒のごとく小さなものにね、巨大な自己を押し込めていくわけですね。

西塚 それでオレは東大だ、オレは学者だ、オレは教授だとなるだけですね。

ヤス そう。実につまらないと思いますよ。そういう主体だと、コミュニティーを形成できないですよね。どこへいってもオレは大学教授だ、オレは日商岩井だになるわけで。コミュニティーで何が必要かというと、フラットな個です。フラットな個になりきれない人は、なかなかコミュニティーの中では生きられないですね。

西塚 そういった意味で国別でいうと、現在その形に近いコミュニティーが多くあるのはアメリカになりますか?

ヤス アメリカもそうだし、フランスもそうだし、ドイツもそうだし。基本的に欧米が特にいいというわけじゃないけど、欧米にはあるし、それから中国でも伝統的なコミュニティーの回帰運動がどんどん起こってます。むしろ韓国のほうがそういうコミュニティーの形成は盛んだと思いますよ。

もう一回話をまとめるようだけど、われわれの日本の文化の一側面が持っている世界観そのものが、適応不全を起こしてるってことです。僕は2カ月に一回、高松の講演会にいくんですけど、羽田空港にいきますよね。お腹がすいて弁当を買おうとした。そうしたら、すべてのサービスが過剰なんですね。もう黙って選ばせろと、弁当ぐらい。いちいち提示してきて過剰なんですよ。見てると売ってる人たちはね、羽田空港だからそれこそ自分のお客様におもてなしをしなくちゃならないという、すごい気構えなんですね。ただ、それは過剰な気構えだと思う。どうして過剰な気構えを生むかというと、自分に与えられた職業に対する徹底的な没入、忠実性だと思う。

西塚 なるほど。それは僕も感じました。あれは何だったかな、カミさんと美術館にいったんですよ、上野の。あれは兵馬俑か。兵馬俑を見にいって、最終日だったんですね。タダ券があって、もったいないからいこうねと。会場で記念撮影する場所があったんです、端のほうに。僕はちょっとふざけて撮りたいなと思っていったんですが、そこにはひとりのオバちゃんがいて、立ち止まらないでくださいとか、撮影はここでだけやってくださいとか叫んでるんですが、それがすごく過剰なんです。本当にしつこいくらいで、別にいいだろうと、黙って撮らせればみんな帰っていくんだから。そんな1時間もいねえよ!って思うじゃないですか。

でもね、今おっしゃったように、自分の本分なんですね。そうやって注意するのが私の役目なんだというふうに言いまくるわけです。本当に言いまくる。言葉は悪いですが、もう狂ったように言いまくるんです。それは別に居丈高な言い方じゃないですよ。高圧的でもないんだけど、あの、すいませんけども、どうのこうのって言い方なんだけど、すごくイラつくわけです。さすがに僕もカミさんもイラついて、何であれだけ言わなくちゃいけないんだろうと。

ある種の生真面目さなのかもしれないけど、でも状況判断というか何というか、あれは判断を間違ってると思いますね。

ヤス いや、間違ってますよ。だから状況を判断するということ自体が禁止されてるというかね。本分で与えられた行動を反復するということ、それ自体が金科玉条のごとく讃えられる。

西塚 そうなんです。たとえばヨーロッパにいくと逆にもっとだらしなくてですね、お前、もっと管理しろよってヤツがいたりなんかして、好きにやってくれというのも困るけども、でもそっちのほうがまだいいというぐらいに過剰でしたね、あのときは。

ヤス そうですね。海外では自己決定的な感じで、すべて自己にまかされてて、お好きにどうぞというかね。

西塚 そうです。何かあっても、お前の責任だからねみたいな。そっちのほうがまだ気持ちがいい。しかしあのオバちゃんはすごかったなあ…

ヤス それは、本分に徹するというような文化が作り出したものですね。それが一番尊敬されたりするということなんですよ。

西塚 本分というのはある種の視野狭窄に陥るし、しまいには自分の魂、とは言いたくないですが、やりたいこととは違うわけだから、やっぱり自家中毒を起こしてですね、滅びますよ。ガンになります(笑)。

ヤス それはそうですよ。自己などというものは本来、現実を創り出すくらい強大な力を持ってるわけですから。ものすごい可能性を持っている。現実そのものの構成主体になり得る巨大な自己を、社会的に与えられた本分であるとか、職業であるとか、ちっちゃなものの中に無理やり貶めていくわけですからね。これは自己に対する冒涜です。

西塚 いずれ核爆発を起こしそうですね(笑)。

ヤス 核爆発を起こします。われわれの持っているそのような文化そのものが、今は限界に到達しつつあるということだと思います。自己の本分に生きるということ、職業として与えられたところにとことん自分を押し込めていく。そのような生き方がひとつの日本のおもてなしなのだ、クールジャパンなのだと賞賛すること自体がね、おそろしく間違ってると思いますよ、僕は。

西塚 ちょっと見直さなきゃいけませんね。

ヤス 見直さなきゃダメです、全然。根本的にね。

西塚 おっしゃるとおりですね。もっとそのへんを、次回から細かくお聞きしたいと思います。

ヤス ええ、またお酒飲んだらふっ飛ぶだろうけど(笑)。

西塚 いやあ(笑)、すみません、また同じことを言うかもしれませんが、来週もよろしくお願いします。今日はありがとうございました。

ヤス いえいえ、こちらこそ。

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