だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

Will you dance? 4

最初は、ふと思いついたことを書こうとしただけだが、またそれは重要なことだと思ったからだが、オイカイワタチに触れたことにより、あれも書かなきゃこれも書かなきゃと気が急くが、いっこうに終わりそうにないので端折りながら書くことにする。

また、あらためて書けばいいもんね。

それにしても、ラー文書とオイカイワタチの活動内容はかなり似ているし、「オリオン」という言葉が出てくるあたりはそれこそラー文書そのものだが、とは言え、ラー文書では「オリオン・グループ」という言い方で登場することが多いが、この「オリオン」という言葉は非常に重要であり、ラー文書に限らず、たとえば半田広宣氏が提唱しているヌーソロジーにおいても、プレアデス、シリウスと並んでオリオンが出てくるし、出口王仁三郎などは自身がオリオンから来たかのように思っているフシもあるようだし、オリオンに絡めた歌も何首も詠んでいるばかりか、背中にはタテに 3 つ、見事にきれいな「三ツ星」のホクロが並んでいることは有名である。

しかし、それぞれの文献を読むと「オリオン」の意味合いが違っているように思われるし、特にラー文書とヌーソロジーで言えば、オリオンの意味合いが正反対じゃね ? と思った人はいないだろうか。

……いないか。

でも、これらのすべてのオリオンの意味合いはちゃんと関連し合っており、正しくというかちゃんと解釈することによって、たとえばラーや OCOT や王仁三郎、場合によってはビリー・マイヤーがコンタクトしているプレアデス/プレヤール人が何を伝えようとしているのかがより深くわかるようになっているのだ。

だから、この問題に関しては機会を移してまた論じることにする。

ともかく、ラーが言うところの「不都合」や「不調和」のはじまりや、日本の「オイカイワタチ」の儀式が終了した時期にあたるというのも多少説明が必要なことに今気づいたが、オイカイワタチのすべての儀式というと間違いで、儀式自体はまだ 80 年代後半まで続くから、いわゆる「湧玉の戦い」と呼ばれるような天の神との儀式がいったん終わるという意味なのだが、いろいろ耳慣れない言葉が出てくるのを避けるために簡単に言ったのはいいとしても、やはり正確さを欠くことはよくないと反省したが、とにかくそういう時期である 1976~78 年あたりのスピ的事情というのは、日本のエンタメ作品にも現われているということを言いたかったのだ。

もちろん、日本に限らず世界のエンタメに現われているのだが、日本で一つ例をあげれば、1976~78 年のど真ん中、1977 年 6 月から 9 月にかけて放映された TV ドラマ『岸辺のアルバム』がある。

名作の誉れ高いのでご存じの方も多いと思うが、ドラマの内容をざっと説明すると、1974 年に日本を襲った大型台風の影響によって東京・多摩川が増水、堤防が決壊し、小田急線の狛江あたりの家屋が 19 棟流された映像がニュースに流れた。私も当時見た。

その災害にインスパイアされて制作されたドラマだったが、当時、家を流された住人が、家を流されたこともそうだが、家族のアルバムが流されてしまったことがショックだったといったような内容のコメントが報道され、日本人の印象に残った。

それで、『岸辺のアルバム』といったタイトルにもなったのだろうが、なんと言っても話題を呼んだのは、八千草薫の「不倫」という “汚れ役” だろう。

それまで典型的な “貞淑” なイメージだっただけに、竹脇無我との不倫劇は、世のオヤジたちのみならずマダムたちまでの腰を抜かさせただろう。私は中学生だったが。

そして、リバーサイドの戸建てに住む幸せな中流家庭、商社に勤める父親(杉浦直樹)と良妻賢母の母親(八千草薫)、上智大の姉(中田喜子)、大学受験を控えている微妙にマザコンだが正義感の強い長男(国広富之)、しかしそれぞれ先の母親の不倫を筆頭に問題を抱えており、それを隠している。

そうした事情がいろいろと絡まり、家庭内のギクシャクぶりも含め、さまざまな出来事が展開されるていくのを視聴者は観ることになるのだが、最後は家が流される。

どうしてこのドラマを、先の 1976~78 年の「不都合」や「不調和」と関係づけて取り上げるのか。

個人的には、ラーが伝えている、

 

この天体は現時点で、四次元的波動の中にあります。地球の意識の中にはめこまれた社会的記憶複合体のせいで、地球を構成している物質は非常に混乱しています。地球がさし招かれている波動への移行は容易ではありません。そのため、ある種の不都合がもたらされることになります。

この不都合あるいは不調和な振動性複合体は、あなたがたのいう過去の数年前にすでに始まっています。 そして今後も衰えることなく、あなたがたの歳月でいう約 30 年余りは続くことでしょう。

 

ということの、象徴的なものに思えるからである。

もちろん、このドラマ以前にも不倫を扱った作品はあるし、いろいろな不都合を抱えている人物が登場ずるドラマはあっただろうが、もっと個人の内面心理に特化したような “文学的” あるいは “私小説的” なものだったように思う。

つまり、当事者の外的・内的環境による、ある種の不可抗力的な “理不尽・不条理” がテーマになっていたように思うのだ。

しかし、『岸辺のアルバム』に登場する家族は、日本ではちょうど高度経済成長期を終えた数年後の姿であり、ある種の理想的なというか、一生懸命日本が高度成長を遂げたあとの典型的な家族のモデルというか、こういうふうな感じの家族が、敗戦後の日本人がたどりついた最大公約数的な家族の、ある種の頂点なのだと観る者に思わせるものがあるわけだ。

そしてその姿は、本当に日本人が欲していた家族の姿なのだろうか、みたいな “感じ” を、演じているというかドラマの登場人物みんなが抱えているようにも思えるし、視聴者の中にもあるように思えるのである。

簡単に言えば、日本人が “何か” にやられちゃった感が出ている最初のドラマのように思われ、このドラマ以降、そんな “感じ” は何かの気のせいだとばかりに世の中はバブル経済に突入していき、このドラマの 6 年後には同じ TBS 系で『金曜日の妻たち』が放映されることになり、舞台は小田急線から東急田園都市線に移り、不倫はもはや当たり前のおしゃれな文化になっていくのである。

いわば、艮の金神系では単なる「身欲」にすぎない “欲望” が、金銭の力をはじめとするさまざまな “力” によって色とりどりの意匠に散りばめられて、目を射るような輝きを放ち出すのである。

(続く)

 

 

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